以弗所书的全副军装 – 张大卫牧师


基督的福音与真
张大卫牧师始终强调,福音的核心人物就是耶稣基督。因为祂本身就是真理,也是我们必须牢牢抓住的生命根源,因此,对真理的信心是基督徒预备全副军装时的起点。在他对以弗所书第6章后半段“全副军装”的讲解中,首先聚焦“真理的带”,并指出:“真理就是耶稣基督本人,这是在属灵争战中使我们不致摇动的最根本基石。”假如再完备的其他装备都具备,却失去了真理,那便等同中心崩塌;没有真理的依托,信仰也无法真正稳固地站立。

张大卫牧师进而指出,福音所指向的正是耶稣基督的代赎之死与复活,对此的坚定信念才是信仰得以确立的根本动力。他强调,以弗所书里所说的“全副军装”并非装点外表的盔甲,而是坚固心思意念的属灵装备。他认为,“真理的带”就是耶稣基督的福音,并诠释道:“凡事都要以真理为带,当我们随时环抱真理,就能从不动摇的信心开始出发。”

这同一位耶稣基督所成就的福音,也成了联结旧约与新约的关键。张大卫牧师特别看重整本圣经在传达一个救赎计划,旧约里神的救恩预言,在新约中就借由耶稣基督被完全成就。因此,他再三强调,要不断“反刍”这完备的福音,通过默想与“消化”让其融入我们的生活。正如牛有多个胃、会反复咀嚼食物一样,我们也要持续不断地默想神的话语,才能使真理浸润生命,并在行动中见证出来。

他同时提醒,若只是听道却没将真理“咀嚼”进生活,很容易让那一次性的聆听在转瞬间流失。张大卫牧师认为,持续地接收并反复思想真理,并且让真理从知识层面落实到生活的各处,才构成真正的信仰旅程。这个过程并非一蹴而就,但当我们勤勉地将神的话语内化在心思意念中,逐渐就会在言行上反映基督的教导,从而在世上发挥光和盐的功效。

他也指出,一个牢牢抓住真理的人,在面对撒但的诱惑时会更为坚定。撒但的攻击手段归根结底就是散布谎言、引发怀疑,进而动摇我们身为神儿女的身份感。那种“你真的属于神吗?”的质疑最致命。甚至耶稣在旷野中所受的三大试探,也都是以“你若是神的儿子……”作开场白。对此,张大卫牧师强调,我们也要像主耶稣那样,以“经上记着说”来反击——即对“神已经在经文中写明”的深切信任。

那么,实务层面如何抓住真理?他归纳了三点。其一,要时刻将神的话语置于身边,深入默想,使之渗透并左右我们的日常生活。其二,在教会里彼此学习并教导,创造可落地应用的实际场域。其三,当我们努力实践所听见、所学习的真道时,才能真正体验到真理在我们内心开始运作的力量。毕竟真理并不只是知识,而是透过生活和行动所彰显的福音大能。

张大卫牧师常提及初代教会的殉道者:“他们为了守护福音中的真理不惜赴死,而真理也使教会延续了生命力。”因此,福音所蕴藏的真理绝对性,绝非可以含糊妥协的部分;教会巍然建立于真理之上,而耶稣基督的代赎就是这真理的核心,没有人能撼动这个根基。

归结起来,以弗所书第6章关于“全副军装”的首要之物——“真理的带”,就是属灵争战的根本基础。就好比战士若缺了腰带,整套武装都会散落;若失去真理,其他一切力量也随之消失。张大卫牧师总结道:“只有当我们坚定地握紧福音真理,才会真正经历耶稣基督的能力,并产生通往神国度的正确热情。”


仰望神的盼望
在“公义的护心镜”上,张大卫牧师将其解读为对神国度的火热渴慕。正如护心镜保护我们的心脏一样,支撑并坚固我们内在生命的力量,正源于对神国度的切切期盼。他引用耶稣所说的“为义饥渴的人有福了,因为他们必得饱足”,用以说明凡渴慕神公义和主权统治的人,在面对撒但的攻击时,不会轻易失去心中的平稳。

然而,“神的国”究竟意味着什么?张大卫牧师指出,神国同时拥有末世性的完成与当下性的实现:耶稣基督再临时,神国度将走向终极圆满;而此时此刻,凡信耶稣之人心里已经携带“现在的神国”。他引述耶稣那句话:“神的国就在你们心里”,提醒信徒,不要忽视神的主权不仅关乎过去或未来,也真实地彰显于当下生活之中。

不过,我们所经历的现况常常是在“已经与尚未”的夹缝中。借着耶稣基督,我们已经领受救恩,但救恩的完全实现和神国度的彻底完满尚在将来。于此期间,我们带着盼望向往神国,也在今生不断地努力经历神的统治。张大卫牧师进一步说明,撒但最想攻击我们的,就是这份盼望,让人陷入“前方根本毫无未来”“神的计划子虚乌有”的自我怀疑与绝望里。

因此,他将“救恩的头盔”与盼望连结起来,指出头部象征着我们“思想”的核心。倘若脑海中没有充满对神国的盼望,撒但就能以绝望和沮丧的火箭狠狠射入。他用以色列人在旷野中的例子来印证:他们心怀对埃及的思念与对神的不信,只会使旅途更加艰难;反之,当他们仰望迦南地、抓紧神的应许,就经历了神的奇妙保守与带领。

为要持守这样的盼望,张大卫牧师提出三项实践。第一,要不断借圣经反复思想、确信耶稣基督再来和永恒掌权的应许。第二,要在日常生活中顺服神的话,并经历圣灵的带领,如此才能真切体悟“神的治理实实在在临到我们”。第三,要在教会群体里,通过属灵前辈的见证和神在历史中的工作来彼此印证、互相鼓励。唯其如此,我们的盼望才会更为巩固,不致被撒但的“你没有未来”之类谎言击垮。

与此同时,他指出,“平安的鞋”就是传福音的热忱。因为福音并非引发冲突之物,而是带来和平的能力。当我们和平地宣扬福音,就能击溃人心深处的藩篱,并拓展神国度的疆界。张大卫牧师强调,唯有以温柔、谦卑与爱为根基的传福音,才是撒但最畏惧的事。毕竟福音传递了真正和平的信息,而那些愿意不断前行、用行动为这和平之道开路的人,撒但也难以轻易撼动。

他还引用罗马书14章17节“神的国不在乎吃喝,只在乎公义、和平并圣灵中的喜乐”,补充说:“只要心中有对神国度的盼望,不论情势多么艰困,都能唱出喜乐的赞歌。”他将此和以色列人进入迦南地作比较:纵使旷野道路漫长而崎岖,他们终究没有放弃对应许之地的渴慕,最终见证了应许的实现。同理,若当代教会谨记这段历史,就能在再黑暗的社会处境下也不至绝望,并继续不断迈进。


信心的盾牌试炼问题
以弗所书6章16节提及“信心的盾牌”,张大卫牧师解读道,这能抵御撒但所发射的各种“火箭”。这些火箭千姿百态:疑惑、诱惑、身份危机、绝望、甚至人际冲突,但目的始终如一:动摇我们的“信心”,使我们放弃自己是神儿女的身份。

在他看来,与其说信心的对立面是“不信”,不如说是“在怀疑与谎言前动摇不定”的状态。就像当年的亚当与夏娃,稍一陷入撒但“神若真好,为什么不让你们吃这果子?”的疑问,就踏向了犯罪之路。同样,撒但在现代社会里也不断发问:“神真的爱你吗?”“你当真是神的儿女吗?”来动摇我们。

怎样抵挡这样的疑问?张大卫牧师提出两项核心武器。第一,“经上记着说”的确据。正如耶稣在旷野面对试探时,一次次使用“经上记着说”来反击,对圣经话语的稳固信赖是破除谎言与怀疑的关键。第二,对“我们乃神儿女”的身份确据必须坚定不移。就像耶稣所受的试探“你若是神的儿子”那样,撒但总是从动摇身份认同处下手;但只要我们明白自己已重生为神儿女,这就成了一道坚实防线,让撒但无从突破。

同时,张大卫牧师也补充,试炼反而能成为信心成长的催化剂。在生活的诸多挑战中,我们往往更被迫投身祷告,也更渴慕神的话语。他常引用大卫与歌利亚的故事:大卫坚信“争战在乎耶和华”,面对身材高大的歌利亚并不畏惧,只凭弹弓与石子就胜过了对方。撒但想让我们专注于巨人之庞大,但有信心的人却把眼光放在神的绝对主权上,从而不再害怕。

然而,这种信心并非天生具备。张大卫牧师以自己的信仰经历为例:起初遇到小小的难题就惶恐不安,但随着读经与祷告持续累积,并在教会群体的分享与鼓励中不断成长,过去难以应付的问题也不再显得可怕。这清楚说明,信心是在研读神的话、祷告和肢体互相扶持中慢慢壮大的。

他也强调,遭遇试炼时,更需要教会共同体。若将自己孤立,很容易被撒但的火箭击中;但只要彼此确认“你是神的儿女”的真理,并彼此代祷,信心的盾牌就会更加牢固。信心一旦坚固,不只用来防守,也能推进整体战线。就像在战场上,盾牌不仅挡住敌方箭矢,也能保护军阵稳步前进。有了信心,我们不仅能避开撒但的攻击,更能积极投入福音事工和教会拓展。


圣灵全副装的
在以弗所书6章列举的装备中,“圣灵的宝剑,就是神的道”被张大卫牧师视为重中之重。他提到,前面的装备多为防御性,而唯有“圣灵的宝剑”能够在属灵战争中主动制胜。但这把剑并不是单纯的学识或头脑知识,唯有在圣灵引导下,能在具体时空中被宣告与运用,才具备真正的犀利穿透力。

他指出,要运用“圣灵的宝剑”,需注意三点。其一,对圣灵引导要保持敏锐。当我们每天读经、默想、祷告时,若某段经文或真理特别触动或提醒了我们,就该立刻顺服并付诸实践,宝剑才得以“活”起来。其二,动机必须出自“爱”。若错误地使用经文,可能演变成对别人的定罪与伤害;但若以主耶稣彰显的爱为根基,神的话则会成为医治与带来悔改的“生命之剑”。其三,需要透过祷告和日常操练来熟悉神的话。就如士兵即便拥有利器,却不知如何使用,也于事无补;基督徒同样需要在小组、教会里共享领受,并以祷告反复操练,才能使宝剑更显威力。

张大卫牧师常引用希伯来书4章12节“神的道是活泼的,是有功效的,比一切两刃的剑更锋利……”说明圣灵宝剑的特性:它会先刺透我们自己,使我们生出悔改和洁净。若不先被神的话对付,却拿着“神的话”去随意指责别人,可能只会让这把剑变成“属灵暴力”之刀,无法带来真正的生命更新。所以唯有先省察与悔改,才能让圣灵的宝剑在我们手中释放真正的亮光。

归纳来说,张大卫牧师认为,全副军装里的每一项都需彼此协调:真理的带、公义的护心镜、平安的鞋、信心的盾牌、救恩的头盔,以及圣灵的宝剑,当中若有一环松缺,整体平衡就会受到影响。比如,信心的盾牌再牢固,若失去救恩的头盔而不再拥有盼望,头部仍会遭到致命一击;明白真理,却失去对公义的热切渴望,也容易变得无力软弱。

为帮助信徒在实际生活中穿戴全副军装,他提出三点操练:第一,每日固定留出祷告时间。在敬拜与默想中聆听圣灵声音,并学习顺服带领。第二,将读经由“背诵”扩展到“实践”,哪怕记住一节经文,也要在生活情境中拿来运用。第三,在群体中分享胜过诱惑的见证。例如“今天我遇到什么考验?我是如何用神的话去胜过?”彼此检视,便能确证我们的全副军装是否正发挥效能。

另外,他常把哥林多前书13章13节“如今常存的有信、有望、有爱”与全副军装联结:信心的盾牌(信),救恩的头盔(望),以及公义的护心镜与传福音的热心(爱),若能维持平衡,就不易为撒但的谎言所动摇。他提到,耶稣在世时医治病人、接纳罪人、并以十字架之爱饶恕仇敌,这一切都成为“圣灵宝剑”最有力的彰显,击溃了撒但。也因此,最强大的武器乃是真理、爱与圣灵的工作。

同时,他再次提醒,全副军装并非华丽的外在,而是每日在心思与意念上进行的属灵争战:对抗各式诱惑、谎言、还有绝望。保罗在以弗所书6章结尾吩咐“要靠着圣灵,多方祷告祈求”,正是宣示了唯有不断的警醒祷告,才能使这全套军装持续保持威力。透过祷告,我们更能感受圣灵同在,也能即时地运用神的话来面对新的试炼和挑战。

谈及现代教会时,张大卫牧师强调,这场属灵战争是教会群体一同面对的。正如保罗请信徒们“为我祈求”,唯有彼此代祷与鼓励,个人与整个教会才会同得在属灵争战中的胜利。

在信息的最后,他总结:“穿戴全副军装的生活,正是天天效法基督的生活。”耶稣在地上经历各样试探、仇敌攻击,甚至十字架之苦,但祂靠真理与爱得胜,并在十字架上完成了救赎。我们若与耶稣一同走这条路,也许世人并不理解,甚至嗤笑,但神的国会藉着教会持续扩张,并带领更多人归向福音。

此外,张大卫牧师也提及以弗所书6章末尾保罗举到的推基古之事。他认为若没有“推基古”这样可靠的同工,保罗纵有宝贵的属灵见解和深邃的福音内涵,也难免无法顺畅地传递给众教会。因为教会绝非单打独斗的个人组合,而是彼此配搭、携手共行的群体,需要在各处兴起更多像推基古般能传递并连接福音的伙伴。

总体而言,张大卫牧师透过以弗所书6章传递的信息核心可归纳为:“紧紧抓住真理,把目光投向神国的盼望,以坚固的信心胜过试炼,并在圣灵大能下勇敢传扬福音。”所有这些都不是单靠个人就能成就,必须倚赖在教会团体中彼此建造、同工前进。他亦嘱咐我们“不要只看现实,而要仰望永恒,并且将这永恒盼望反映在当下”。当我们自觉被现世的艰难困住时,若抬头观望属灵的实况,就会发现藉着耶稣基督的死与复活,胜利早已被宣告了。

张大卫牧师也常以“要更加警醒预备”来提醒教会。若教会在等候主再来的旅程中,专注在圣灵里追求圣洁与爱,世界就能透过教会看见盼望。而我们在属灵争战中所收获的胜利,也会在把生命带给他人、并将荣耀归于神的丰硕果实中得到印证。

随后,他再次提到“唯独恩典、唯独信心、唯独圣经”这三大宗教改革的口号,表明这是其事工的根基所在。他强调,我们得救全凭神的恩典,能握住这恩典的途径是信心,而这信心的准则则唯有圣经可作衡量。当这三者都稳固不移,属灵争战的胜利就更加确实。

最后,张大卫牧师将以弗所书6章的异象与今日教会相衔接,呼吁:“穿戴全副军装并不只是关乎个人灵修,更意味着整个教会要彼此扶持、互相激励,同时走进社会。也许前方荆棘重重,但走到终点时,必能见到迎接我们的主,也将领受祂的嘉许。”

换言之,以弗所书6章的主旨在于:所有让我们惧怕的谎言与绝望,都已被耶稣的十字架与复活彻底摧毁;披戴全副军装的神子民,断不会在属灵争战中败退。有了这份确信,人们能在教会里真正经历基督的爱与恩典,并在圣灵助力下成为新造的人。

张大卫牧师以一句话结束:“不管世界多邪恶,只要还有一群人穿戴全副军装、以爱和盼望并信心武装自己,教会就仍有盼望之火在燃烧。”只要我们彼此相爱、并肩而行,神就必借着教会施行大能,让更多灵魂走向救恩。对于他而言,这也是保罗在以弗所书6章里向我们展现的“救恩宏图”在当代的再次实现。

当然,他也坦言,这条道路绝不轻松;守住真理、传扬福音、抵挡世界的诱惑,往往需要牺牲和付出。但回顾教会史与圣经所载,我们深知,那些付出终将被神更新并转化为荣耀。正如张大卫牧师始终所教导的:“要为神的国而战,却要用爱的方式去战,并且在真理中谦卑前行。”

由此可见,以弗所书6章所贯穿的“全副军装”精神,让我们再次回到福音永恒不变的核心:在真理上站稳脚跟,仰望神的国,以信心抵挡试炼,并执起圣灵的宝剑大胆往前。只要教会这样全副装备,任何黑暗都终将被击退。而这最终也会在日常生活、教会历史,以及世界的转变中结出果实。张大卫牧师相信,这一切唯有依靠神的恩典方能成就。若人开始自满或自诩伟大,那全副军装必在不知不觉间松动脱落。只有天天回到十字架前省察己身、仰赖圣灵的能力、持守神的话,我们才不会被任何考验所撼动。如此一来,教会在群体合一中逐渐成长,才是神所盼望、真正具备属天生命力的群体。

诚然,我们所处之地确是一片属灵战场,但因耶稣基督的受死与复活,胜局早已注定。当我们全然披戴这全副军装,就能毫无惧色地奔走天路。张大卫牧师常以“只要有人肯以爱、盼望和信心来武装自己,教会就能在属灵争战中生生不息,并传扬神国”来结束信息。如今,我们仍处在这场属灵战役的中心,但只要与教会共同前行,就能期待那日站在主面前受祂称许——这是他信息的最深盼望。愿我们也继续向前迈步,等待那荣耀一天的到来。

エペソ書の「全身の武具」―張ダビデ牧師


イエスキリストの福音と

張ダビデ牧師は、福音の核心とはイエス・キリストご自身であることを、常に力強く説き続けてきた。イエス・キリストこそが真理そのものであり、私たちがつかむべき命の源泉であるゆえ、真理への信仰こそがクリスチャンが「全身の武具」を備える第一歩だと力説する。エペソ書6章の後半で詳述される「全身の武具」のなかで、最初に登場する「真理の帯」について、彼は「真理とはイエス・キリストその方にほかならず、霊的戦いの土台を揺るがぬものにする最重要要素だ」と説明する。どれほど他の武器や防具を備えていても、真理を失えば中心から崩れてしまうため、真理なしには信仰が確固たるものとして立ち得ないのだと指摘している。

張ダビデ牧師によると、福音とはイエス・キリストの代償的な死と復活を指し示し、これに対する揺るぎない確信こそが信仰の根幹を築く力となる。エペソ書が述べる「全身の武具」は、単なる外面的な飾りではなく、心と思考を堅固に守るための霊的な武装である。彼は「真理の帯」をイエス・キリストの福音だと位置づけ、「常に真理を身につけることこそが、揺るぎない信仰の出発点になる」と力を込める。

こうしたイエス・キリストにおいて完成された福音は、旧約と新約を貫く鍵だとも言える。張ダビデ牧師は、旧約と新約の統一性、すなわち聖書全体が証しする救済史の計画に注目する。旧約で預言された神の救いが、新約においてイエス・キリストによって完成するからにほかならない。ゆえに、この完成された福音を繰り返し“反すう”しながら黙想し、自らの生活の中で体得することが重要だと説く。彼はよく「牛が複数の胃袋で何度も反すうするように、御言葉も繰り返し黙想するとき、私たちの血肉となって行動にまで及ぶ」という比喩を持ち出す。

さらに張ダビデ牧師は、御言葉をいくら聞いても十分に消化されないまま流してしまう態度を警戒する。真理を絶えず受け取り続け、反すうしていくことで、単なる知識ではなく実際の行動に落とし込む作業こそが信仰だというのだ。こうしたプロセスは一朝一夕には完成しないが、日々たゆまず御言葉を咀嚼していくなら、私たちの思考や言動は徐々にイエス・キリストの教えを映し出し、世にあって光と塩の役割を担い始める。

また牧師は、真理を確かに握る者こそサタンの誘惑にも動じないと語る。というのも、サタンの攻撃は、偽りや疑念を駆り立てて私たちの信仰の根を揺さぶることに本質があるからだ。とりわけ「あなたは本当に神の子どもなのか?」とアイデンティティを根本から揺さぶる問いは極めて致命的だという。イエスでさえ荒野での試練において「もしあなたが神の子なら…」という挑発を受けたが、イエスは「『聖書にこう書いてある』」と御言葉によって打ち破られた。私たちも同様に、“記されている御言葉”への絶対的な信頼が不可欠なのだと、張ダビデ牧師は繰り返し主張する。

では実際に、どうすれば真理を握ることができるのか。彼は三つのステップを提案する。第一に、御言葉を常に手元に置いて深く黙想し、それが生活の隅々にまで浸透するように努めること。第二に、教会共同体で互いに学び合い、教え合い、具体的な応用の場を備えること。第三に、学び得た御言葉を実際に生きようともがくとき、初めて真理が私たちの内に力強く働くのを体験する、というのである。最終的に、真理は頭で理解するだけの知識ではなく、生活と行いを通して明らかになる福音の力なのだ。

張ダビデ牧師は、初代教会の殉教者たちをよく例に挙げる。「多くの人々が、福音に秘められた真理を守るために命を懸け、その真理が教会に命を与え続けた」というのである。こうした福音の真理の絶対性は、あいまいに妥協できるものではない。教会は真理の上に立っており、イエス・キリストの代償こそがその真理の核心である以上、誰もその柱を揺るがすことはできないのだ。

ゆえに、エペソ書6章が語る「真理の帯」は全身の武具の基礎にあたる。兵士がベルトを締めていなければ装備がずれてしまうように、真理を失えばすべてが無力化してしまう。張ダビデ牧師は「福音の真理をしっかり握っているときこそ、イエス・キリストの力を体験し、神の国へと向かう正しい情熱が燃え上がる」と繰り返し強調する。


神のを見つめる希望

張ダビデ牧師は、「義の胸当て」を神の国への熱い情熱だと捉えている。胸当てが心臓を守るように、私たちの内面と心を堅固に保つ源泉は、神の国に対する切なる渇望にあるからだ。イエスが「義に飢え渇く者は幸いだ。その人は満たされる」と語られたように、神の正義と支配を渇望する者は、サタンの攻撃の前でも簡単に中心を失わない。

では神の国は具体的に何を意味するのか。張ダビデ牧師は、神の国が終末的意味と同時に現在的意味も持つと語る。つまり、イエス・キリストの再臨によって完成する“未来の神の国”と、すでにイエス・キリストを信じる人々に臨んでいる“現在の神の国”が同時に存在しているというわけだ。「神の国はあなたがたのただ中にある」というイエスの言葉を例に挙げ、神の支配は過去や未来だけの事柄ではなく、今の時点でも実現していることを忘れるべきではないと強く促す。

しかし、私たちが生きる現実は「すでに」と「まだ」の狭間だと牧師は説明する。イエス・キリストによって救われたが、その救いと神の国の完成は将来に属しているという緊張感を伴う。「まだ」来ない完璧な神の国を待ち望みつつ、私たちは今の時代にあっても神の治めを実際に経験しようと努めなければならない。こうした希望があるからこそ、サタンは「おまえたちの未来には何もない」「神の計画など存在しない」と絶望へ誘おうと画策するのだ。

この点で「救いのかぶと」は希望と深く結びついている。頭(思考)が神の国への希望で満たされていなければ、サタンはいくらでも絶望や落胆の火矢を放ち、私たちの思いを貫いてくる。エジプトを脱出したイスラエルの民の例を出し、彼らが荒野で何度もエジプトを恋しがり、不平不信に陥ったときに道が困難になったと指摘する。逆に、カナンの地を見据えて神の契約に立ったときには、神の奇跡的な守りと導きが共にあったのだ。

張ダビデ牧師は、希望を固く握るための具体策を三つにまとめる。第一に、イエス・キリストの再臨と永遠の支配に関する聖書の約束を、常に学び思い起こすこと。第二に、日常生活のなかで御言葉に従い、聖霊の導きを味わうことで「神の支配が今ここにも及んでいる」ことを体験的に知ること。第三に、教会共同体で先達の証しや歴史上の神の働きを確かめ合い、互いに励ますことである。こうして希望が強められると、サタンがどれだけ「おまえには未来などない」と嘯いても、そう簡単には揺さぶられなくなるのだ。

さらに牧師は、「平和の備え」の履物は、福音を伝えようとする情熱だと解釈する。福音は争いではなく平和をもたらす力であり、平和的に福音を伝えていく働きこそが、世の壁を打ち崩し神の国を広げていくと語る。張ダビデ牧師は、柔和や謙遜、そして愛に根差す福音伝道こそ、サタンが最も恐れる活動であると力説する。結局のところ、福音は真の平和をもたらすメッセージであり、この平和を届けようと絶えず動く者たちを、サタンは容易に打ち破れないのだ。

また、ローマ書14章17節の「神の国は飲み食いのことではなく、聖霊による義と平和と喜びなのだ」という言葉を引用し、張ダビデ牧師は「神の国に希望を置く者は、いかなる状況でも落胆せず、むしろ賛美の歌を口ずさむことができる」と断言する。これはイスラエルのカナン入植に当てはめるならば、荒野がどれほど長く厳しくとも、最後まで約束の地を目指した結果としてその実現を見たのだという解釈である。もし現代の教会がこの歴史を心に留めるなら、社会がいかに暗く見えても、絶望せず前進を続けられるというわけだ。


信仰の盾と試みの問題

エペソ書6章16節の「信仰の盾」について、張ダビデ牧師は、あらゆる“火矢”から私たちを守る究極の防御策だと説明する。サタンの火矢は疑い、誘惑、アイデンティティの揺らぎ、絶望、人間関係の亀裂などさまざまだが、その最終目標は「信仰」を損ない、神の子どもというアイデンティティを投げ捨てさせることにある。

彼によれば、信仰の反対語は「不信」ではなく、むしろ「疑いと偽りに容易に翻弄される状態」である。アダムとエバがサタンの嘘に惑わされ、「神が本当に善いお方なら、なぜこの実を食べることを禁じたのだろう?」という疑いに陥ったとき、彼らは罪を犯すに至った。同じように現代社会でもサタンは絶えず「神は本当にあなたを愛しているのか?」「あなたは本当に神の子どもなのか?」と問いかけ、その結果私たちを罪に引き込もうとするのだ。

こうした疑いに対抗する武器は何か。張ダビデ牧師は、まず第一に「『書かれてある』という御言葉の確かさ」だと説く。イエスが荒野での試練で一つひとつの誘惑に対し「書かれている」と聖書を引用して退けたように、記された御言葉への堅固な信頼が、疑いと偽りを退ける最大の武器になるという。第二に、「私たちは神の子どもだ」というアイデンティティの確信だ。イエスが受けられた試練が「もし神の子なら…」という前置きで始まったように、サタンは私たちのアイデンティティを揺るがすことに最大の力を注ぐ。だが、私たちが新生した神の子であるという事実を確信していれば、サタンはその隙間に入り込むことができないのだ。

さらに張ダビデ牧師は、試みそのものが信仰を成長させる機会にもなり得ると説く。困難や誘惑は、私たちにより深い祈りと御言葉の必要性を気づかせるからだ。彼が挙げる代表的な例がダビデとゴリアテである。ダビデは「戦いは主に属する」と強く信じていたがゆえに、ゴリアテという大きな脅威を前にしても揺るがず、投石器一つで勝利を得た。サタンは私たちの目をゴリアテの巨大さに注がせようとするが、信仰者は「神の絶対主権」を見上げるので恐れが消えていくのだ。

ただし、このような信仰は勝手に育つわけではない。張ダビデ牧師は、自身の信仰の歩みを振り返り、はじめは些細なことにも不安を覚えたが、次第に御言葉を握りしめ、祈りの経験を重ねるうちに、かつては手に負えなかった問題さえ大きく感じなくなったと証しする。それは、信仰が御言葉と祈り、そして共同体での分かち合いを通して少しずつ強められることを端的に示している。

また試みの時こそ共同体の重要性が増すとも彼は言う。独りで孤立していては火矢の攻撃を防ぎきれないからだ。互いに「あなたは神の子だ」と真理を確認し合い、祈り合うとき、信仰の盾はさらに厚みを増す。信仰が強くなるほど、受け身の防御に終わらず前進することも可能になる。実際の戦場で盾は防御だけでなく、隊列を安全に移動させて敵陣へ踏み込む助けにもなる。信仰があればサタンの矢を回避するだけではなく、福音宣教や教会の成長へ主体的に歩み出すことができるのだ。


と「全身の武具」にする実践

最後に、エペソ書6章で言及される「聖霊の剣、すなわち神の言葉」について、張ダビデ牧師は特に強調する。先に挙げられた武具が主に防御的役割を果たすとすれば、聖霊の剣は霊的戦いにおいて能動的に敵を打ち破る攻撃の武器であり、しかし単なる知識ではなく、聖霊の光のもとで適切に宣言し、適用されてこそ真価を発揮するという。

彼は、この聖霊の剣を正しく扱うための条件を三つ示す。第一に、聖霊の導きに常に敏感であること。日ごとに御言葉を読み黙想するなかで、聖霊が心に刺さる箇所を示されたとき、すぐに従い実行するとき、剣は生きて働くのだ。第二に、動機が「愛」でなければならないこと。御言葉の適用を誤れば、他人を裁き、傷つける刃になりかねない。しかし、主が示された愛を根拠に適用するなら、それは傷ついた者を癒やし、悔い改めへと導く「命の剣」となる。第三に、祈りと訓練を通して御言葉を習得すること。兵士がいくら良い剣を持っていても扱い方を知らなければ無意味であるように、私たちも御言葉を学び、共同体で共有し、祈りによって準備するとき、剣の効力が何倍にもなるというわけだ。

張ダビデ牧師は、ヘブライ書4章12節「神の言葉は生きていて力があり、両刃の剣よりも鋭い…」という聖句こそ、聖霊の剣をよく物語ると語る。この剣はまず私たち自身の内側を刺し、悔い改めと清めを促す。自分が御言葉に取り扱われないまま、ただ「聖書」という名の刃を振りかざせば、それは魂を生かすどころか暴力的な剣にもなりうる。ゆえに、聖霊の剣はまず自己吟味と悔い改めを経てこそ、真に光を放つのだ。

結局、全身の武具はこれらすべての要素が一体となって機能すべきだ、と牧師は強調する。真理の帯、義の胸当て、平和の靴、信仰の盾、救いのかぶと、そして聖霊の剣――どれか一つでも欠けるとバランスが崩れる。たとえばどれほど信仰の盾が硬くても、救いのかぶとを被らず希望を失えば、頭が致命傷を負いかねない。真理を知っていても、義を求める情熱が冷めてしまえば、霊的戦いにおいて無力化するのは時間の問題なのだ。

具体的な実践として、張ダビデ牧師は三つの霊的訓練を勧める。第一に、毎日定めた時間を祈りに集中すること。賛美と御言葉の黙想を通じて聖霊の声に耳を澄まし、その導きに応答しようとする姿勢が重要だ。第二に、聖書を「暗記」にとどめず、実際の行動に適用するところまで進むこと。一日一節でも状況に応じて思い起こし、実践する訓練をする。第三に、共同体の中で証しやフィードバックを互いに交わすことである。「今日、どのような誘惑に直面し、どう御言葉で勝利したのか」を共有し合うことで、全身の武具が正しく作用しているかを確認できるのだ。

張ダビデ牧師は、ときにコリント第一の手紙13章13節「信仰と希望と愛、この三つはいつまでも残る」を全身の武具と結びつけて読み解く。信仰の盾(信仰)、救いのかぶと(希望)、さらに義の胸当てと福音伝道の情熱(愛)がバランスよく働くとき、サタンの偽りに簡単には動揺しない。イエス・キリストがこの地上で病める者を癒やし、罪人を受け入れ、十字架で敵を赦されたとき、それはまさに聖霊の剣が力を発揮し、サタンを打ち破る出来事だったとも言えよう。最も強力な武器は真理と愛、そして聖霊の働きなのだと彼は繰り返す。

また、張ダビデ牧師は「全身の武具」は決して華美な外面の装いではないと改めて思い起こさせる。霊的戦いは現世での派手な争いではなく、日々の生活の中で繰り広げられる誘惑と偽り、そして絶望との闘いである。そしてパウロが最後に「すべての祈りと願いをもって、常に祈りなさい」と勧めているとおり、目を覚ました祈りこそが、この全身の武具を常に機能させる要だ。祈りによって聖霊の導きがより鮮明になり、その都度御言葉を適用でき、新たな試みが訪れてもすぐ対応が可能となる。

現代の教会に対して、張ダビデ牧師が強調するのは、この霊的戦いを教会共同体が共に担うべきだという点である。パウロが「私のためにも祈ってほしい」と願ったように、互いのための取りなしと励ましによって、教会全体が霊的な勝利を分かち合うことができる。

メッセージの終盤で彼は、「全身の武具を身にまとう生き方は、日々イエス・キリストを倣う道に他ならない」とまとめる。イエスは地上であらゆる試みや敵対にさらされ、十字架の苦難を通されたが、真理と愛で最終的に勝利され、十字架によって救いを成就された。私たちがその道を共に歩むなら、世が理解せず嘲笑することはあっても、神の国は教会を通して拡大し、多くの魂が福音へと導かれると彼は言う。

続いて張ダビデ牧師は、エペソ書6章の最後でパウロがトゥキコに言及するくだりを取り上げる。「もしトゥキコのような同労者がいなければ、パウロの高邁な思想や福音の核心は教会へと正しく伝わらなかったかもしれない」と。教会は一人ではなく共同体で歩む場であり、福音をつなぐ“トゥキコ”的な存在が各所に育まれる必要があるというのだ。

要するに、張ダビデ牧師がエペソ書6章から語る中心メッセージは、「真理の中心をしっかり握りつつ、神の国を望み、信仰をもって試練に打ち勝ち、聖霊の力によって大胆に福音を宣べ伝えよう」ということに尽きる。しかもこれは、一人で完結できるものではなく、教会全体が互いに助け合い、支え合いながら進むべき道である。そして彼は「目先の現実に振り回されるのではなく、永遠を見つめ、その希望を今このときに適用していこう」と繰り返し呼びかける。どんなに状況が重苦しく見えても、霊的視点を上げるなら、すでに勝利が保障された戦いだと悟ることができるからだ。

張ダビデ牧師は、この実現のために「目を覚ましてさらに備えよ」という言葉をしばしば引用する。教会が主の再臨を待ち望みながら、聖霊のうちに聖さと愛を追い求めるとき、世の人々は教会を通して希望を見いだすだろうと確信しているのである。そして、そのような道を歩むとき、霊的戦いで私たちが得る勝利は、人々に命を届け、神に栄光をお返しする豊かな実りとして結ばれるという。

さらに彼は、「唯一恩恵(Sola Gratia)、唯一信仰(Sola Fide)、唯一聖書(Sola Scriptura)」という宗教改革のモットーが、自らの宣教の根幹にあることを改めて明言する。人間のいかなる功績でもなく、ただ神の全的な恵みによって救われ、その恵みをつかむのは信仰のみであり、その信仰の基準はただ聖書のみだという確信こそが、霊的戦いでの勝利を動かぬものにするというのである。

最後に張ダビデ牧師は、エペソ書6章のビジョンと今日の教会を結びつける。全身の武具をまとうのは、単に個人の敬虔さにとどまらず、教会共同体が一致して互いに励ましながら前へと進むことを意味するのだ。「互いに祈り合い、愛をもって仕え、御言葉を握って世に出るなら、たとえ道が茨に覆われていようとも、その先で私たちを待つのは主ご自身であり、そのお声を聞くことになる」と彼は力づける。

結局、エペソ書6章の要旨は、私たちを脅かすどんな偽りや絶望も、十字架と復活を通してすでに打ち砕かれ、全身の武具をまとった神の民はこの霊的戦いに決して敗れることはないという点にある。この確信があるゆえに、人々は教会でイエス・キリストの十字架の愛に触れ、聖霊の働きによって新しい被造物へと変えられるのだと彼は強調する。

張ダビデ牧師は説教の最後にこう呼びかける。「どれほど世が悪いと嘆かれても、『全身の武具』を着けて戦う教会があるかぎり、希望は決して失われません」。私たちが全身の武具の一つひとつを正しく身につけ、互いに愛をもって進むとき、神は教会を通して大いなる御業を行い、多くの魂を救いの道へと導かれると彼は堅く信じている。そしてこれこそが、パウロが示した「救いのドラマ」を私たちの時代に再び映し出す道だというのだ。

とはいえ彼は、この過程が平坦ではないとも率直に言う。真理を守り福音を広め、世の誘惑に打ち勝つなかで、献身と犠牲が不可欠であることは歴史が示している。しかし、教会史や聖書の物語に見られるように、その犠牲はやがて栄光へと結実すると私たちは知っている。だからこそ、「神の国のために戦うとしても、愛のやり方で戦い、真理のうちにへりくだって歩みなさい」というのが、張ダビデ牧師の一貫したメッセージなのである。

こうしてエペソ書6章に流れる「全身の武具」の精神は、初代から現代に至るまで変わらぬ福音の本質を思い起こさせる。真理に堅く立ち、神の国を見つめ、信仰をもって試練を克服し、聖霊の剣を携えて進む教会に対して、いかなる闇も最終的には勝利を収められない。そうして結ばれる実は、日常や教会の歩み、社会の変革という形で顕在化していくのだと、彼は確信を新たにし続ける。

そして張ダビデ牧師は最後に、「すべては“ただ恵みによって”のみ実現する」と強調する。もし私たちが少しでも高慢になり、自分の力を過信するならば、全身の武具はいつの間にか外れてしまう。日々十字架の前で自分を省みながら、聖霊の力を仰ぎ、御言葉を握る者こそが、どんな試練にも動じない大胆さを得る。そしてそのようにして互いに成熟していく教会こそ、神が心から望まれる真の信仰共同体なのだ、と結論づける。

結局、私たちがいるこの地上はたしかに霊的戦場であるが、イエス・キリストの死と復活によって勝利が既に確定している戦いでもある。私たちが全身の武具をしっかりまとい、恐れず進んでいくなら、そこには神の国の勝利が明確に示されるだろう。張ダビデ牧師は「愛と希望、そして信仰に満たされて武装した人々がいるかぎり、教会は生き生きと神の国を宣言し、拡張し続ける」と繰り返し説きながら説教を締めくくる。いま私たちはこの霊的戦いの只中を歩んでいるが、共に前進する教会とともに主の前に立つその日を思いつつ、一歩一歩を踏み出そうというメッセージこそが、彼の中心的な思想なのである。

L’armure complète dans l’Épître aux Éphésiens – Pasteur David Jang

L’Évangile de Jésus-Christ et la vérité
Le pasteur David Jang met sans cesse en avant que le cœur de l’Évangile se trouve en Jésus-Christ. Parce que Jésus-Christ est la Vérité elle-même, la source de vie à laquelle nous devons nous attacher, la foi en cette vérité constitue, selon lui, le tout premier pas pour se préparer à revêtir l’armure complète. Dans la seconde partie d’Éphésiens 6, on découvre cette « armure complète », et la première pièce mentionnée est la « ceinture de la vérité ». Il en dit : « La Vérité, c’est Jésus-Christ en personne ; c’est le socle majeur qui nous évite de vaciller dans le combat spirituel. » Même si nous sommes bien équipés par ailleurs, si nous négligeons la vérité, toute la structure s’effondre. Sans vérité, il est impossible que notre foi tienne fermement.

David Jang insiste sur le fait que l’Évangile renvoie directement à la mort expiatoire et à la résurrection de Jésus-Christ, et qu’avoir une certitude inébranlable à ce sujet constitue la force motrice qui bâtit le fondement de la foi. L’« armure complète » décrite dans l’Épître aux Éphésiens n’est pas un ornement extérieur, mais un équipement spirituel protégeant nos pensées et notre cœur. Il définit la « ceinture de la vérité » comme l’Évangile de Jésus-Christ, affirmant que « demeurer constamment dans la vérité marque le début d’une foi à l’abri de toute secousse ».

De plus, l’Évangile accompli en Jésus-Christ sert de clé reliant l’Ancien et le Nouveau Testament. Le pasteur David Jang insiste sur l’unité de la Bible tout entière, car ce que l’Ancien Testament annonce comme le plan de salut de Dieu s’accomplit dans le Nouveau par Jésus-Christ. Voilà pourquoi il exhorte à « ruminer » inlassablement cet Évangile accompli, à le méditer et à l’ingérer pour qu’il pénètre concrètement notre existence. Il reprend souvent cette analogie : « Comme la vache qui a plusieurs estomacs et rumine sans arrêt, il convient de méditer la Parole à maintes reprises pour qu’elle imprègne notre vie et qu’elle se traduise en actes. »

David Jang met en garde contre l’attitude qui consisterait à entendre la Parole sans l’assimiler, pour la laisser passer comme un simple événement ponctuel. Il définit plutôt la démarche de la foi comme un processus continu : absorber la vérité, la passer au crible de la méditation, pour finalement la vivre plutôt que d’en rester à la théorie. Cette intégration ne s’achève pas d’un coup. Toutefois, à force de « digérer » la Parole, notre mentalité et nos actes finissent peu à peu par refléter l’enseignement de Jésus-Christ, et nous pouvons alors agir en « sel et lumière » dans la société.

Il ajoute que ceux qui s’attachent fermement à la vérité demeurent inébranlables face aux ruses de Satan. Le mode d’attaque de Satan consiste en effet à injecter des mensonges et à semer le doute pour ébranler nos racines de foi. La question la plus redoutable vise notre identité : « Es-tu vraiment enfant de Dieu ? » Selon l’explication de David Jang, c’est le point le plus dangereux. Même Jésus, quand Il fut tenté trois fois dans le désert, a d’abord entendu le diable Lui dire : « Si tu es Fils de Dieu… » Et Jésus a chaque fois repoussé la tentation par : « Il est écrit… » De même, il nous faut une foi ferme dans « ce qui est écrit » pour tenir bon.

Comment, alors, s’emparer concrètement de la vérité ? Il propose trois moyens. Premièrement, garder la Parole à portée de main et la méditer en profondeur, au point qu’elle prenne possession de notre vie. Deuxièmement, dans la communauté ecclésiale, il importe d’étudier et d’enseigner ensemble la Parole, et de mettre en place des espaces pour l’appliquer concrètement. Troisièmement, c’est en s’efforçant de vivre conformément à la Parole entendue et apprise qu’on fait l’expérience de la vérité agissant en nous. Autrement dit, la vérité n’est pas un simple savoir : c’est la puissance de l’Évangile qui se manifeste par nos actes et notre quotidien.

David Jang cite souvent l’exemple des martyrs de l’Église primitive. « Maints croyants ont risqué leur vie pour garder la vérité contenue dans l’Évangile, et c’est cette vérité qui a maintenu l’Église en vie. » L’absolu de la vérité portée par l’Évangile ne peut se négocier ni se diluer. L’Église repose sur la vérité, et le sacrifice de Jésus-Christ en constitue l’élément central, si bien que nul ne saurait faire vaciller cette fondation.

En définitive, la « ceinture de la vérité », première pièce de l’armure d’Éphésiens 6, est le socle du combat spirituel. Sans ceinture, le soldat perd la tenue de tout son équipement ; de même, écarter la vérité rend inopérants tous nos moyens de défense. David Jang souligne : « En restant solidement attachés à la vérité de l’Évangile, nous découvrons la puissance de Jésus-Christ et nous éprouvons un élan authentique en direction du royaume de Dieu. »

L’espérance tournée vers le royaume de Dieu
Le pasteur David Jang interprète « la cuirasse de la justice » comme l’aspiration fervente au royaume de Dieu. À l’instar d’une cuirasse protégeant le cœur, la force qui garde fermes nos sentiments et notre volonté se trouve dans la soif passionnée de la justice divine. Comme Jésus l’a affirmé : « Heureux ceux qui ont faim et soif de justice, car ils seront rassasiés » – celui qui désire ardemment la justice et la souveraineté de Dieu ne perd pas facilement sa direction dans les assauts de Satan.

Mais qu’est-ce au juste que le royaume de Dieu ? David Jang indique qu’il a une dimension à la fois eschatologique et actuelle. Il y a le « royaume futur » qui s’achèvera lors du retour de Jésus-Christ, mais il y a aussi le « royaume de Dieu au présent », déjà en œuvre chez ceux qui croient à cet instant. Citant la parole de Jésus : « Le royaume de Dieu est au milieu de vous », il rappelle qu’on ne saurait le cantonner au passé ou au futur : le règne de Dieu est déjà là, ici et maintenant.

Pourtant, note-t-il, nous vivons dans la réalité du « déjà et pas encore ». Par Jésus-Christ, nous sommes sauvés, mais la réalisation totale du salut et l’accomplissement intégral du règne de Dieu attendent encore l’avenir. Entre ces deux moments, nous persévérons dans l’espérance, espérant avec foi et luttant pour éprouver dès maintenant Son gouvernement. David Jang précise que cette espérance devient l’une des cibles privilégiées de Satan, qui cherche à instiller en nous : « Il n’y a pas de lendemain, votre voie est sans issue, et Dieu n’a aucun plan. » En propageant ces doutes, il veut nous pousser au désespoir.

C’est là, ajoute-t-il, que se lie le « casque du salut » à la notion d’espérance. Si notre tête – symbole de notre pensée – n’est pas imprégnée de l’espérance du royaume de Dieu, Satan peut aisément percer nos défenses à coups de flèches embrasées de découragement. Il prend l’exemple des Israélites sortis d’Égypte et constate que, lorsqu’ils se sont mis à regretter l’Égypte et à murmurer dans l’incrédulité, leur chemin s’est compliqué dans le désert. En revanche, quand ils se sont attachés à l’alliance divine en regardant vers Canaan, ils ont bénéficié de la protection et de la conduite miraculeuse de Dieu.

David Jang propose trois façons de cultiver concrètement cette espérance. Premièrement, nous devons sans cesse revisiter dans la Bible les promesses relatives au retour de Jésus-Christ et à Son règne éternel, pour nous les remémorer. Deuxièmement, dans notre vie quotidienne, il importe d’obéir à la Parole et de faire l’expérience de l’action concrète du Saint-Esprit, afin de « toucher réellement » au gouvernement de Dieu. Troisièmement, au sein de la communauté, nous sommes appelés à écouter les témoignages des aînés dans la foi et à nous remémorer l’œuvre de Dieu dans l’histoire, pour nous encourager mutuellement. De cette façon, notre espérance se consolide, et Satan peut bien dire : « Tu n’as pas d’avenir », nous ne nous laisserons pas facilement ébranler.

Il relie également les « chaussures du zèle pour l’Évangile de paix » à l’élan d’annoncer l’Évangile. Celui-ci n’engendre pas de conflits mais répand la paix, de sorte que le service d’évangélisation, s’il est porté par la douceur et l’amour, fait tomber les murs et étend le règne de Dieu. David Jang insiste : Satan redoute particulièrement la diffusion de l’Évangile nourrie de mansuétude, d’humilité et d’amour. L’Évangile est, en dernière instance, un message de paix véritable, et ceux qui s’emploient sans cesse à en ouvrir la route ne pourront être aisément vaincus par Satan.

Il évoque aussi Romains 14:17 : « Car le royaume de Dieu ne consiste pas en le manger et le boire, mais en la justice, la paix et la joie, par le Saint-Esprit », pour souligner que l’espérance du royaume de Dieu permet de ne jamais céder au découragement et de pouvoir chanter la joie en toute circonstance. Il compare cette idée à l’entrée des Israélites en Canaan : malgré la longueur et la rudesse du désert, ils n’ont pas renoncé à la terre promise et ont finalement été témoins de son accomplissement. Pour David Jang, si l’Église contemporaine se souvient de cette histoire, même dans une société sombre, elle ne sombrera pas dans le désespoir et continuera d’avancer.

Le bouclier de la foi et la question de l’épreuve
Concernant le « bouclier de la foi » (Éphésiens 6:16), David Jang explique qu’il nous met à l’abri de toutes les « flèches enflammées ». Celles que Satan décoche peuvent se présenter sous diverses formes – doutes, tentations, troubles identitaires, désespoir, conflits relationnels… –, mais leur but demeure de miner notre foi et de nous inciter à renier notre identité d’enfants de Dieu.

Selon lui, le véritable opposé de la foi n’est pas exactement l’incrédulité, mais l’état qui nous rend vulnérables au doute et au mensonge. Adam et Ève se sont laissés piéger par la supercherie de Satan : « Si Dieu est réellement bon, pourquoi vous interdirait-Il ce fruit ? » Ce premier soupçon a suffi pour les mener au péché. De même, dans notre monde moderne, Satan cherche sans trêve à glisser : « Dieu t’aime-t-Il vraiment ? Es-tu sûr d’être Son enfant ? » pour nous attirer dans la tentation.

Avec quoi donc faire face à de tels doutes ? David Jang indique d’abord la nécessité d’une foi inaltérable en « Il est écrit ». Quand Jésus fut éprouvé au désert, Il répondit systématiquement par « Il est écrit », s’appuyant sur la Parole. De la même façon, une confiance absolue dans l’Écriture demeure l’arme-clé pour rejeter les mensonges. Deuxième point, il s’agit d’être convaincus de notre identité « d’enfants de Dieu ». La tentation de Jésus a commencé par « Si tu es Fils de Dieu… », et Satan essaie de déstabiliser notre identité de la manière la plus acerbe qui soit. Mais si la nouvelle naissance en tant qu’enfant de Dieu est solidement ancrée en nous, Satan n’y trouvera guère de brèche.

David Jang souligne également que l’épreuve peut servir de moment pour affermir notre foi. Les diverses tentations ou difficultés nous poussent souvent à réaliser davantage notre besoin de la prière et de la Parole. Il prend l’exemple de David qui, face à Goliath, ne doutait pas que « la bataille appartient au Seigneur ». Voyant la souveraineté absolue de Dieu, David n’a pas tremblé devant l’imposant Goliath et a triomphé simplement avec sa fronde. Satan veut nous focaliser uniquement sur la force apparente de Goliath, tandis que l’homme de foi voit la grandeur de Dieu, et la peur disparaît.

Cette foi ne grandit pourtant pas spontanément. Le pasteur David Jang évoque son propre cheminement spirituel : au début, il se sentait gagné par l’inquiétude pour des broutilles, mais à force de s’appuyer sur la Parole, de prier, d’emmagasiner des expériences, les obstacles d’autrefois lui sont devenus moins effrayants. C’est un exemple vivant du fait que la foi s’épanouit au contact de la Parole, de la prière et du partage au sein de l’Église.

Il ajoute que la communauté ecclésiale est cruciale durant l’épreuve. Livrés à nous-mêmes, nous supportons plus difficilement les traits enflammés. Alors que, si nous nous soutenons, si nous confirmons pour chacun : « Tu es enfant de Dieu » et prions les uns pour les autres, le bouclier de la foi se renforce sensiblement. Plus la foi grandit, plus nous pouvons non seulement parer les attaques, mais avancer avec hardiesse. Dans un conflit réel, le bouclier ne sert pas qu’à protéger : il permet de progresser, de pénétrer le territoire de l’ennemi. Ainsi, avec la foi, nous dépassons le simple fait d’éviter les flèches de Satan, et nous pouvons nous engager activement pour l’expansion de l’Église et l’annonce de l’Évangile.

L’épée de l’Esprit et la pratique de l’armure complète
Enfin, l’une des pièces clés de l’armure dans Éphésiens 6 est « l’épée de l’Esprit, qui est la Parole de Dieu ». Alors que les autres éléments assurent principalement un rôle défensif, l’épée de l’Esprit est une arme offensive pour renverser l’ennemi dans le combat spirituel. Pour autant, il ne s’agit pas d’un simple bagage intellectuel : elle ne devient tranchante que lorsqu’elle est proclamée et appliquée, sous la lumière du Saint-Esprit, dans des circonstances précises.

Le pasteur David Jang précise que trois conditions sont requises pour manier correctement l’épée de l’Esprit. Premièrement, il faut être sensible à la direction du Saint-Esprit. Quand on lit la Parole chaque jour et qu’on la médite, il arrive que le Saint-Esprit fasse surgir un verset particulier ou nous interpelle concrètement, et c’est dans l’obéissance immédiate que l’épée s’avère vive et pénétrante. Deuxièmement, l’« amour » doit inspirer cette utilisation. Si l’on emploie la Parole sans amour, on peut juger autrui et le blesser. Mais si l’on l’applique dans l’esprit de l’amour que le Seigneur nous a montré, alors elle devient une « épée de vie » qui guérit et conduit au repentir. Troisièmement, la prière et l’apprentissage sont essentiels pour la maîtriser. Comme un soldat, si l’on ne sait pas manier une arme de qualité, elle ne sert à rien. De même, la pratique de la Parole, l’échange dans la communauté et la formation spirituelle accroissent l’efficacité de cette épée.

David Jang mentionne Hébreux 4:12, selon lequel « la Parole de Dieu est vivante et efficace, plus affilée qu’une épée à double tranchant ». Il précise que cette épée nous transperce d’abord nous-mêmes, produisant en nous repentance et purification. Si nous n’avons pas d’abord subi cette action, et que nous « brandissons la Parole » pour corriger les autres, elle se transforme en « arme violente » qui blesse plutôt que de sauver. Par conséquent, il est indispensable de se soumettre à la Parole, par l’auto-examen et le repentir, avant de manier avec justesse l’épée de l’Esprit.

Au final, l’armure complète forme un tout, insiste David Jang. La ceinture de la vérité, la cuirasse de la justice, les chaussures de l’évangile de paix, le bouclier de la foi, le casque du salut et l’épée de l’Esprit doivent s’accorder harmonieusement. Si l’une manque, l’équilibre se rompt. Par exemple, même si le bouclier de la foi est solide, si l’on omet le casque du salut et que l’on perd l’espérance, on peut recevoir un coup fatal à la tête. Inversement, connaître la vérité sans brûler du désir de la justice peut nous mener à la passivité spirituelle.

Pour concrétiser l’armure complète dans la vie de tous les jours, il propose trois disciplines. Premièrement, réserver quotidiennement un temps à la prière, avec la louange et la méditation de la Parole, afin d’être à l’écoute de la voix du Saint-Esprit et de Lui obéir. Deuxièmement, dépasser la simple « récitation » de la Bible en la traduisant dans l’action : même un seul verset par jour, mis en pratique dans notre contexte, peut être un excellent exercice. Troisièmement, partager ses expériences et recevoir des retours au sein de la communauté : « À quelles tentations ai-je été confronté aujourd’hui, et comment la Parole m’a-t-elle aidé à tenir ? » De cette manière, nous nous assurons que l’armure demeure efficace.

David Jang rattache parfois 1 Corinthiens 13:13 – « Maintenant donc ces trois choses demeurent : la foi, l’espérance, l’amour » – à l’armure complète. Le bouclier de la foi (foi), le casque du salut (espérance) et la cuirasse de la justice alliée à l’ardeur d’annoncer l’Évangile (amour) doivent avancer de concert pour qu’on ne se laisse pas emporter par les mensonges de Satan. Lorsqu’Il guérissait les malades, accueillait les pécheurs et pardonnait Ses ennemis sur la croix, Jésus-Christ manie exactement l’épée de l’Esprit, infligeant à Satan sa défaite. Ainsi, la vérité, l’amour et l’action du Saint-Esprit constituent l’arme la plus puissante.

Il rappelle ensuite que l’« armure complète » ne se réduit pas à un simple habillage. Le champ de bataille spirituel ne concerne pas tant les tumultes visibles du monde que les luttes de chaque jour dans notre cœur, contre la tentation, le mensonge et le découragement. L’apôtre Paul conclut ce passage d’Éphésiens 6 en nous exhortant à « prier en tout temps par l’Esprit ». C’est la prière vigilante qui rend l’armure sans cesse opérationnelle, nous rendant attentifs à la conduite du Saint-Esprit et nous permettant d’appliquer la Parole au bon moment, tout en restant prêts à d’éventuelles nouvelles tentations.

Selon David Jang, la grande leçon pour l’Église contemporaine est que ce combat spirituel doit s’affronter collectivement. À l’image de Paul qui sollicite la prière de ses frères, nous sommes tous appelés à intercéder les uns pour les autres, et c’est ainsi que nous parviendrons ensemble à la victoire, plutôt que de lutter isolément.

Il conclut en disant : « Revêtir l’armure complète, c’est suivre le chemin de Jésus-Christ chaque jour. » Quand Il était sur terre, Jésus a connu diverses tentations, affronté de multiples adversaires et enduré la croix, mais Il a vaincu par la vérité et l’amour, en menant à bien l’œuvre du salut à la croix. Même si notre entourage nous méconnaît ou nous ridiculise pour cela, le royaume de Dieu s’étendra finalement au travers de l’Église, ramenant nombre d’âmes vers l’Évangile.

David Jang souligne ensuite à quel point la mention de Tychique à la fin d’Éphésiens 6 revêt un sens significatif : « Sans un collaborateur comme Tychique, il est possible que la richesse de la pensée de Paul et la substance de l’Évangile ne soient pas parvenues jusqu’aux Églises. » Comme l’Église se construit en commun, il convient qu’émergent, de tous côtés, des « Tychique » qui relient chacun à l’Évangile.

En résumé, le principal message que David Jang dégage d’Éphésiens 6 est : « Attachez-vous à la vérité, nourrissez l’espérance du royaume de Dieu, surmontez l’épreuve par la foi, et propagez hardiment l’Évangile grâce à la puissance du Saint-Esprit. » Comme rien de tout cela ne peut se réaliser en solitaire, il faut s’édifier ensemble dans l’Église. Il ajoute : « Ne vous laissez pas dicter par les circonstances, mais ayez le regard tourné vers l’éternité, en l’appliquant à votre existence présente. » Même si la situation terrestre paraît sombre, la foi nous permet de constater que nous sommes déjà engagés dans une bataille dont la victoire est assurée.

Le pasteur David Jang termine souvent ses prédications avec : « Veillez davantage et restez prêts. » Il croit fermement que si l’Église attend le retour du Seigneur en poursuivant la sainteté et l’amour dans le Saint-Esprit, le monde y trouvera un motif d’espérance. Et la victoire obtenue au cours de ce combat spirituel se manifestera par le salut de nombreuses âmes et par une louange rendue à Dieu, produisant ainsi une récolte abondante.

Il mentionne ensuite que les trois slogans majeurs de la Réforme – « Sola Gratia, Sola Fide, Sola Scriptura » – constituent aussi la racine de son ministère. Par la seule grâce, indépendamment de notre valeur ou de notre mérite, nous sommes sauvés ; et c’est par la foi que nous recevons cette grâce, tandis que la Parole de Dieu en demeure le seul critère. Tant que cette conviction ne vacille pas, la victoire en matière de combat spirituel est garantie.

Enfin, David Jang relie la vision d’Éphésiens 6 à l’Église de notre temps. Revêtir l’armure complète ne consiste pas seulement à cultiver sa piété personnelle, mais aussi à faire corps en Église, qui se soutient mutuellement et avance dans la foi. « Lorsque nous prions les uns pour les autres, que nous nous aimons et nous servons dans la Parole, il se peut que le chemin soit rempli de ronces, mais à la fin nous rencontrerons le Seigneur et entendrons Son approbation », affirme-t-il en guise d’encouragement.

Le chapitre 6 d’Éphésiens nous montre que tout mensonge ou désespoir voulant nous effrayer a déjà été vaincu par la croix et la résurrection de Jésus-Christ, et que ceux qui revêtent l’armure complète ne succomberont pas dans le conflit spirituel. Avec cette certitude, l’Église peut offrir aux âmes l’amour manifesté à la croix et les conduire, par la puissance du Saint-Esprit, à devenir de nouvelles créatures, insiste-t-il.

David Jang termine en rappelant : « Si le monde est mauvais, tant qu’il existe une Église qui combat en revêtant l’armure complète, l’espérance demeure. » Quand nous nous approprions ensemble chaque élément de l’armure et que nous nous engageons dans l’amour, Dieu opère de grandes choses par l’Église et y amène de nombreuses âmes au salut. Ainsi, nous revivons, d’après lui, le « drame du salut » décrit par l’apôtre Paul.

Il reconnaît cependant que ce parcours n’a rien de facile. Demeurer dans la vérité, proclamer l’Évangile et résister aux sirènes de ce monde impliquent volontiers du dévouement et des sacrifices. Pourtant, l’histoire de l’Église et celle de la Bible le montrent : ce sacrifice conduit à la gloire. C’est la raison pour laquelle il conseille constamment : « Combattez pour le royaume de Dieu, mais combattez par l’amour, et marchez dans la vérité avec humilité. »

Ainsi, l’esprit de l’« armure complète » qui traverse Éphésiens 6 nous ramène à l’essence immuable de l’Évangile. En demeurant dans la vérité, en gardant les yeux sur le royaume de Dieu, en vainquant les épreuves par la foi et en brandissant l’épée de l’Esprit, nous pouvons triompher de n’importe quelle obscurité. David Jang affirme avec conviction que ce triomphe se concrétise dans notre vie quotidienne, dans l’histoire de l’Église et dans les changements réels qui s’opèrent au sein de ce monde.

Pour conclure, il réitère que tout cela est possible « par la seule grâce ». Dès que nous nous enorgueillissons ou que nous nous imaginons remarquables, l’armure se détache sans tarder. Mais si nous restons chaque jour devant la croix, implorant la force du Saint-Esprit et gardant la Parole, alors aucune épreuve ne pourra nous abattre. Dans cette dynamique de croissance commune, l’Église devient le véritable corps que Dieu désire.

En définitive, il est certain que ce monde demeure un champ de bataille spirituel, mais la mort et la résurrection de Jésus-Christ ont déjà scellé la victoire. En revêtant pleinement l’armure, nous pouvons cheminer sans crainte. David Jang conclut souvent ainsi : « Tant qu’existent des croyants solidement armés d’amour, d’espérance et de foi, l’Église continuera d’annoncer la vie et d’étendre le règne de Dieu. » Même si nous sommes au beau milieu du combat spirituel, nous avançons aux côtés de l’Église, dans l’attente du jour où nous nous tiendrons devant le Seigneur. Voilà, en définitive, la pensée maîtresse qui anime son message.

The Full Armor of God from Ephesians – Pastor David Jang


The Gospel and Truth of Jesus Christ

Pastor David Jang has consistently emphasized that the core of the gospel is Jesus Christ. Since Jesus Christ Himself is the truth and the very source of life that we must hold onto, faith in this truth is the foundational step in putting on the full armor of God. Toward the end of Ephesians 6, the “full armor” is introduced, starting with the “belt of truth.” According to Pastor Jang, because Jesus Christ is truth itself, He serves as the immovable bedrock for spiritual warfare. Even if we are well-equipped in every other way, if we lose our grip on truth, our center collapses; without truth, our faith cannot truly stand.

Pastor Jang underscores that the gospel hinges on the atoning death and resurrection of Jesus Christ, and that an unshakable confidence in these events becomes the driving force establishing our faith. In his view, the “full armor” mentioned in Ephesians does not merely adorn our outward appearance but spiritually fortifies our hearts and minds. He interprets the “belt of truth” as the gospel of Jesus Christ, teaching that continually wearing this truth is the indispensable starting point for unwavering faith.

This completed gospel, fulfilled in Jesus Christ, is the key that binds together the Old and New Testaments. Pastor Jang emphasizes the overarching unity of Scripture, noting that from Genesis to Revelation, the entire Bible narrates God’s plan of salvation, consummated through Jesus Christ in the New Testament. Hence, he urges believers to “chew on” this fully realized gospel, meditating and absorbing it thoroughly until it becomes part of our lives. He often employs the illustration of a cow with multiple stomachs, highlighting how repeated meditation on Scripture allows truth to filter into our lives and shape our actions.

Pastor Jang cautions against hearing the Word without truly digesting it—letting it pass by as a fleeting impression. Rather, he advocates the continual reception and ruminating of truth so that it transcends mere knowledge and becomes a lived reality. He emphasizes that this process does not reach completion in a single moment. Yet, when we diligently absorb the Word, our thinking and behavior gradually start reflecting the teachings of Jesus Christ, enabling us to become salt and light in the world.

He also teaches that those who hold tenaciously to truth remain steadfast against Satan’s temptations. Ultimately, the enemy’s strategy is to propagate falsehoods and doubts, shaking the roots of our faith. “Are you really a child of God?”—this most basic question about our identity—can be profoundly destabilizing. Citing the wilderness temptations of Jesus, Pastor Jang notes how the devil began with “If you are the Son of God…” and how Jesus responded by saying “It is written,” underscoring the necessity of a firm reliance on the “written Word.”

How do we practically cling to truth, then? Pastor Jang offers three proposals. First, we must keep Scripture constantly close and meditate deeply until it governs our daily life. Second, within the church community, we should study and teach the Word together, providing practical environments for its application. Third, genuine experience of truth emerges when we struggle to live out the Word we learn and hear. Ultimately, truth is not mere knowledge but the active power of the gospel, embodied in our daily conduct.

Pastor Jang frequently references the early church martyrs. “Many were prepared to die to defend the truth of the gospel, and it was that truth that kept the church alive,” he explains. Because the church is founded on truth, and Jesus Christ’s atoning sacrifice forms the heart of that truth, its absolute significance cannot be diluted or negotiated away. No one can shake this foundational pillar.

Thus, the first piece of the “full armor” in Ephesians 6—the “belt of truth”—is the bedrock for our spiritual battle. As a soldier without a belt would find his armor in disarray, losing hold of truth makes every other part ineffective. Pastor Jang affirms, “When we stand firm in the gospel’s truth, then and only then do we experience the power of Jesus Christ and kindle a proper zeal for God’s Kingdom.”


Hope in the Kingdom of God

Pastor David Jang interprets the “breastplate of righteousness” as a fervent longing for the Kingdom of God. Just as a breastplate protects the heart, our inner being and motives find resilience in an intense desire for God’s rule. Reflecting on Jesus’ words—“Blessed are those who hunger and thirst for righteousness, for they shall be filled”—he explains that those who passionately seek God’s justice and reign do not easily lose their center in the face of Satan’s onslaught.

What, then, is the Kingdom of God? Pastor Jang explains that it carries both an eschatological sense and a present dimension. There is a “future Kingdom of God,” which will be fulfilled at Jesus Christ’s second coming, yet believers already taste a “present Kingdom of God.” He cites Jesus’ phrase, “the kingdom of God is within you,” as a reminder that God’s reign is not solely a matter of past or future but a reality to be experienced here and now.

However, he describes our current position as living between the “already” and the “not yet.” Although we have received salvation through Jesus Christ, the total realization of that salvation and the Kingdom of God lies ahead. During this interval, we hold fast to our hope in God’s Kingdom, striving to experience His rule even now. Pastor Jang warns that this hope becomes a primary target for Satan’s attacks. The devil sows uncertainty with thoughts like, “There is no tomorrow, your hope is a delusion, God has no plan,” inciting despair.

At this juncture, he ties the “helmet of salvation” to hope. If our “head”—symbolizing our thoughts—is not permeated with the certainty of God’s Kingdom, Satan can easily penetrate with his fiery darts of hopelessness and discouragement. Pastor Jang references the Israelites in the wilderness after leaving Egypt, who frequently yearned for the past, fueling doubt and complaints that made their journey harsher. Conversely, whenever they fixed their gaze on Canaan and clung to God’s covenant, God’s miraculous protection and guidance were evident.

Pastor Jang condenses practical methods for sustaining hope into three points. First, we must continue to explore and remember biblical promises concerning the second coming of Jesus and His everlasting reign. Second, by obeying the Word and experiencing the Spirit’s guidance in our daily lives, we learn to perceive that God’s sovereignty indeed operates in the here and now. Third, we can confirm God’s ongoing work through testimonies in the church community and accounts of His actions in history, thereby encouraging one another. These practices solidify our hope against Satan’s attempts to convince us “there is no future.”

He adds that the “readiness of the gospel of peace” embodies zeal for evangelism. The gospel does not provoke conflict; it brings peace. Sharing the gospel in a gentle, humble, and loving manner tears down walls and spreads the Kingdom of God. Pastor Jang underscores how Satan dreads precisely this peaceful gospel outreach because it ushers in genuine reconciliation. The gospel is the message of true peace, and Satan cannot easily demolish believers who continuously move forward to open this path of peace.

Drawing from Romans 14:17—“For the kingdom of God is not a matter of eating and drinking, but of righteousness, peace, and joy in the Holy Spirit”—Pastor Jang stresses that when we harbor hope in God’s Kingdom, we can sing for joy under any circumstance, refusing to sink into defeatism. He compares this to Israel’s conquest of Canaan: no matter how daunting and protracted the wilderness journey, they never relinquished their hope of entering the promised land, ultimately witnessing God’s promise fulfilled. He teaches that if today’s church keeps this history in mind, it can persist unhindered by despair, even when society appears mired in darkness.


The Shield of Faith and the Problem of Temptation

Regarding the “shield of faith” mentioned in Ephesians 6:16, Pastor Jang interprets it as our protection against all the devil’s “fiery arrows.” Although these arrows may manifest in various forms—doubts, temptations, identity crises, hopelessness, and broken relationships—they all aim to shake our faith so profoundly that we abandon our identity as God’s children.

According to Pastor Jang, the true antithesis of faith is not simply unbelief but rather a state in which we are easily swayed by doubt and deception. Adam and Eve, for instance, were misled by the serpent’s lie, “If God is truly good, why forbid you this fruit?” and slid into disbelief, culminating in sin. Likewise, in the modern world, Satan ceaselessly insinuates, “Does God really love you?” or “Are you really a child of God?” in an effort to destroy our trust in Him.

So, how do we stand against these seeds of doubt? Pastor Jang first emphasizes the absolute reliability of Scripture, summed up in the phrase “It is written.” Jesus Himself repelled each temptation in the wilderness by uttering, “It is written,” highlighting the critical importance of an unwavering conviction in God’s Word. Second, a firm grasp of our identity as God’s children is vital. Just as the devil tested Jesus with “If you are the Son of God…,” Satan seeks to undermine our identity in a similar fashion. When we stand confident in our new birth as children of God, the devil struggles to find any point of entry.

Pastor Jang goes on to note that temptation can, paradoxically, become an opportunity for our faith to grow. Life’s trials and enticements often make us realize our need for deeper prayer and stronger immersion in the Word. He cites David’s showdown with Goliath: David remained unshaken because he truly believed, “The battle belongs to the Lord,” and triumphed using a simple sling and stone. While Satan tries to fix our focus on the giant’s size, believers who hold fast to God’s absolute sovereignty can stand unafraid.

However, such faith does not develop automatically. Pastor Jang recounts his own journey, recalling how he initially fretted over small obstacles. But with continual prayer, a grip on Scripture, and practical experiences of God’s faithfulness, once-overwhelming hurdles gradually appeared less formidable. This underscores that our faith matures through engaging with the Word, prayer, and communal support within the church.

He also underlines the critical role of fellowship in seasons of temptation. When isolated, believers can find it overwhelmingly difficult to endure Satan’s flaming arrows. Mutual reassurance—reminding one another “You are a child of God”—and communal prayer solidify our “shield of faith.” As that faith grows stronger, we can move from defense to offense. In a physical battle, a shield not only protects but enables soldiers to advance in formation. Likewise, anchored by robust faith, we can press on, sharing the gospel and expanding the church rather than merely avoiding attacks.


The Sword of the Spirit and Practical Application of the Full Armor

Finally, Pastor Jang places particular emphasis on one more weapon named in Ephesians 6: the “sword of the Spirit, which is the Word of God.” Whereas the other armaments serve primarily defensive purposes, the sword of the Spirit functions as an offensive tool for defeating the enemy in spiritual combat. Still, this sword is not just biblical knowledge; rather, it is the Word applied under the Holy Spirit’s illumination.

He identifies three conditions to wield this sword effectively. First, we must stay attentive to the Spirit’s leading. As we read and meditate on Scripture daily, the Holy Spirit may highlight a specific verse or pierce our hearts at just the right time. Rapidly obeying this prompting is what activates the sword’s power. Second, our motives must stem from love. The Word, when applied harshly or self-righteously, can inflict wounds and condemnation. However, rooted in the love Christ demonstrated, it becomes a “life-giving blade,” bringing healing and repentance. Third, we need prayerful discipline and training in Scripture. Just as even a high-quality sword is useless to an untrained soldier, the Word must be studied and practiced in community, tempered by prayer, for it to operate effectively.

Pastor Jang regularly refers to Hebrews 4:12—“For the word of God is living and active, sharper than any two-edged sword”—to describe the sword of the Spirit. This sword first penetrates our own hearts, prompting confession and purification. If we attempt to wield it against others without letting it address our own sins, it becomes a “violent weapon” rather than a means to bring life. Hence, genuine repentance and self-examination precede the sword’s proper use.

Ultimately, Pastor Jang asserts, all parts of the full armor must fit together. The belt of truth, the breastplate of righteousness, the footwear of peace, the shield of faith, the helmet of salvation, and the sword of the Spirit are interconnected. Missing even one disrupts the overall balance. For instance, a sturdy shield of faith is rendered ineffective if our “helmet of salvation”—our hope—is absent, exposing our minds to fatal blows. Knowing the truth means little if our zeal for righteousness has cooled, leaving us spiritually powerless in the heat of battle.

He suggests three spiritual practices to integrate the full armor into our daily living. First, designate a set time each day for prayer, praise, and Scripture meditation, listening for the Spirit’s guidance and striving to obey. Second, do more than merely memorize Scripture—actively put it into practice. Even meditating on one verse each day and applying it to a real situation is a discipline that shapes our lives. Third, share testimonies and reflect with fellow believers, asking: “How did I face temptation today, and how did I overcome it by the Word?” Such accountability ensures our armor remains fully functional.

Pastor Jang occasionally links 1 Corinthians 13:13—“But now faith, hope, love abide these three”—with the full armor: the shield (faith), the helmet of salvation (hope), and both the breastplate and the zeal for the gospel (love). When these three remain in balance, the devil’s lies find little traction. He points out that when Jesus walked among us—healing the sick, welcoming sinners, and forgiving enemies through His sacrificial love—He was in effect wielding the sword of the Spirit against Satan. Once again, he underscores that truth, love, and the Spirit’s power together comprise our mightiest weapon.

He then reminds us that the “full armor” is not meant as ornamental gear. Spiritual warfare is neither loud nor purely external; it transpires within our hearts and minds every day, where we confront temptations, deceptions, and despair. Following Paul’s directive to “pray in the Spirit on all occasions with all kinds of prayers and requests,” Pastor Jang reiterates that a posture of watchful prayer preserves the efficacy of our armor. Through prayer, we become more sensitive to the Spirit’s prompting and more responsive in applying the Word to new challenges.

Regarding today’s church, Pastor Jang insists that this spiritual struggle must be shared by the entire community. Just as Paul asked for prayer on his own behalf, we must intercede for each other so that the church as a whole may attain spiritual victory.

Concluding his remarks, Pastor Jang states, “Living daily in the full armor is essentially following Jesus Christ every step of the way.” Jesus confronted unrelenting adversity and opposition—including the suffering of the cross—yet He emerged victorious through truth and love, achieving redemption on Calvary. As we tread that same path, the world might misunderstand and mock, but the Kingdom of God will be extended through the church, drawing many souls to the gospel.

He also references Paul’s mention of Tychicus at the end of Ephesians 6. “If not for partners like Tychicus, Paul’s profound understanding and the essence of the gospel might not have been passed on effectively,” he notes. Because the church is a fellowship journeying together—not scattered individuals—Pastor Jang calls for believers who will serve as ‘Tychicuses,’ connecting people to one another and to the gospel.

Summarizing, Pastor David Jang’s central message from Ephesians 6 is: “Cling to truth, anticipate the Kingdom of God, overcome hardships through faith, and boldly proclaim the gospel by the Spirit’s power.” None of these aims can be accomplished alone; we build each other up and labor in unity as the church. He further pleads, “Do not let the present overshadow you; let the eternal hope inform your life today.” Despite how daunting our current situation may seem, if we open our spiritual eyes, we realize it is a battle whose ultimate outcome has already been decided in Christ.

Pastor Jang often cites the exhortation, “Stay alert, be prepared,” urging believers to watch for the Lord’s return while seeking holiness and love through the Spirit. He believes that as we practice these steps, the world will glimpse hope through the church. The victories we secure in spiritual conflicts then yield abundant fruit: offering life to those outside the faith and bringing glory to God.

He goes on to affirm that the Reformation’s motto—“by grace alone, by faith alone, by Scripture alone”—undergirds his ministry. We are saved by grace, not through any personal merit, and faith becomes the channel that grasps that grace, with Scripture as its sole authority. Where these foundations remain steadfast, victory in spiritual warfare is assured.

Finally, Pastor Jang relates the vision of Ephesians 6 to the modern church. Donning the full armor is not merely about personal piety but about church members joining together, serving one another in love, and stepping out into the world in unity. “Though the path ahead may be strewn with thorns, if we pray for each other, cling to the Word, and love one another, we will meet the Lord at the end of our journey and hear His commendation,” he encourages.

Ultimately, the essence of Ephesians 6 is that the lies and despondency seeking to intimidate us were dismantled by Christ’s cross and resurrection. Adorned with God’s full armor, believers will not be vanquished in this spiritual conflict. Thus assured, people can encounter Christ’s sacrificial love in the community of faith, becoming new creations through the Spirit’s work.

Pastor Jang concludes with a final exhortation: “No matter how depraved the world may seem, if the church fights on, clothed in the full armor, hope endures.” When we hold each piece of the armor correctly in place and move forward in love, God accomplishes great works through His church, leading many to salvation. This, he insists, is precisely how we reenact the “drama of salvation” in our own time.

Yet he readily admits that none of this comes easily. Safeguarding truth, preaching the gospel faithfully, and resisting worldly enticements inevitably involve cost and devotion. Still, Scripture and church history reveal that such sacrifice ultimately leads to glory. Therefore, “Engage in this fight for God’s Kingdom,” Pastor Jang steadfastly advises, “but do so in the spirit of love, remaining humble in the truth.”

Thus, the spirit of the full armor woven throughout Ephesians 6 beckons us to recall the unchanging substance of the gospel from start to finish. Standing firmly in truth, longing for God’s Kingdom, overcoming adversities by faith, and wielding the sword of the Spirit ensure that no darkness can finally overpower the church. Pastor Jang repeatedly affirms that these efforts will yield fruit in our daily lives, in the broad arc of church history, and in the gradual transformation of the world around us.

He closes by reiterating that all of this is possible “only by grace.” Should pride creep in or if we ever assume ourselves to be too extraordinary, the full armor quietly slips away. Yet those who daily return to the foot of the Cross, seeking the Holy Spirit’s power while clinging to the Word, will gain a boldness that no trial can easily shake. A church that grows together in this way is, he contends, precisely the authentic faith community God desires.

Though the world indeed stands as a spiritual battleground, Pastor Jang reminds us that Jesus Christ’s death and resurrection have already decided the outcome. Fully armed, we can traverse this path without fear. Concluding his sermon, Pastor Jang declares, “As long as there are those who are armed in love, hope, and faith, the church will vibrantly proclaim and advance the Kingdom of God.” Even now, we remain in the midst of this spiritual war, yet by journeying forward together in the church, we await with confidence the day we will stand before our Lord.

La armadura de Dios en Efesios – Pastor David Jang

El evangelio y la verdad de Jesucristo
El pastor David Jang siempre ha enfatizado que el núcleo del evangelio es la persona de Jesucristo. Afirma que Jesús es la Verdad misma, la fuente de vida que debemos aferrar, y que la fe en esta Verdad constituye el primer paso para prepararnos con la armadura completa de Dios. En el capítulo 6 de Efesios, al final, se presenta dicha “armadura de Dios”, cuya primera pieza es el “cinturón de la verdad”. Al respecto, David Jang explica: “La verdad es Jesucristo en sí, y por tanto se convierte en el cimiento más básico que previene nuestro tambaleo en el combate espiritual”. Aun si el resto de la armadura es impecable, sin la verdad todo se viene abajo; de modo que sin ella nuestra fe no puede mantenerse firme.

David Jang destaca que el evangelio consiste en la muerte sustitutoria y la resurrección de Jesucristo, y que la certeza absoluta de esto impulsa los fundamentos de nuestra fe. La “armadura de Dios” descrita en Efesios, dice, no es un mero adorno externo, sino una defensa espiritual para proteger nuestro corazón y mente. Llamando “cinturón de la verdad” al evangelio de Jesucristo, enseña que “vivir siempre revestidos de la verdad es el punto de partida de una fe que no se tambalea”.

Dado que el evangelio consumado en Cristo conecta el Antiguo y el Nuevo Testamento, David Jang subraya la continuidad entre ambos: la salvación anunciada en el Antiguo Testamento se cumple en el Nuevo por medio de Jesús. Por ello, insiste en la importancia de “rumiar” constantemente este evangelio consumado, meditarlo y hacerlo parte de nuestra vida. Suele usar la analogía de la vaca, que vuelve a masticar el alimento varias veces, para ilustrar que solo a través de una meditación repetida la verdad penetra por completo en nuestra existencia y se traduce en hechos concretos.

El pastor David Jang advierte contra la actitud de quienes oyen la Palabra pero no la digieren, dejándola pasar de forma pasajera. Sostiene que el camino de la fe radica en asimilar sin cesar la verdad, rumiarla y encarnarla en la vida cotidiana, no como simple conocimiento, sino con acciones tangibles. Este proceso nunca se completa de inmediato; sin embargo, si trabajamos para asimilar la Palabra con diligencia, nuestros pensamientos y conductas progresivamente se ajustan a las enseñanzas de Cristo, y pasamos a ejercer un rol de luz y sal en el mundo.

Asimismo, David Jang explica que quien se aferra a la verdad permanece firme ante las tentaciones satánicas. La táctica de Satanás se fundamenta en sembrar la mentira y la duda para sacudir las raíces de nuestra fe. Con la pregunta esencial “¿Eres realmente hijo de Dios?” trata de minar nuestra identidad, lo cual considera lo más letal. Incluso a Jesús, en el desierto, el diablo le presentó tres tentaciones con la frase: “Si eres Hijo de Dios…”. Tal y como Jesús replicó con “Escrito está”, el pastor David Jang enfatiza que necesitamos una fe firme en la “Palabra escrita”.

Ahora bien, ¿cómo aferrarnos a la verdad en la práctica? Él propone tres pautas. Primero, mantener siempre la Palabra cerca, meditarla a fondo y dejar que gobierne nuestra existencia. Segundo, dentro de la comunidad eclesial, estudiar y enseñar la Palabra recíprocamente, generando ámbitos para su aplicación concreta. Tercero, esforzarnos por vivir lo que hemos escuchado y aprendido, pues es entonces cuando la verdad comienza a obrar en nosotros. Al fin y al cabo, la verdad no es conocimiento puramente teórico, sino el poder del evangelio que se revela en la vida y la acción.

David Jang alude con frecuencia a los mártires de la Iglesia Primitiva como ejemplo. “Para guardar la verdad del evangelio, muchos arriesgaron la vida; y es esa verdad la que, en última instancia, ha mantenido viva a la Iglesia”. La verdad del evangelio posee una categoría absoluta, imposible de negociar con tibieza. La Iglesia está edificada sobre dicha verdad, siendo la expiación de Jesucristo el núcleo de la misma; por eso, nadie puede tambalear este pilar central.

En conclusión, la primera parte de la “armadura de Dios” que Efesios 6 menciona —el “cinturón de la verdad”— es la base de la lucha espiritual. Al igual que un soldado cuyo cinturón falta ve desarreglada su armadura, si no sostenemos la verdad, todo lo demás pierde eficacia. David Jang subraya: “Solamente si nos aferramos firmemente a la verdad del evangelio, experimentaremos el poder de Jesucristo y recibiremos la pasión correcta por el Reino de Dios”.

La esperanza de contemplar el Reino de Dios
David Jang asocia la “coraza de justicia” con un ferviente anhelo por el Reino de Dios. Así como la coraza protege el corazón, la fuerza que defiende nuestro interior y nuestra mente brota del anhelo intenso de ese Reino. De la misma manera que Jesús dijo: “Bienaventurados los que tienen hambre y sed de justicia, porque ellos serán saciados”, quienes anhelan la justicia y el gobierno divino no pierden con facilidad la firmeza de su corazón ante los ataques de Satanás.

¿Pero qué es concretamente el Reino de Dios? David Jang explica que su significado es tanto escatológico como actual. Existe un “Reino futuro de Dios” que se consumará con la segunda venida de Jesucristo, y a la vez un “Reino presente de Dios” que ya está en aquellos que creen en Cristo. Él retoma las palabras de Jesús: “El reino de Dios está entre vosotros”, para recalcar que no es solo algo del pasado o un suceso venidero, sino que se manifiesta hoy en día.

No obstante, la realidad que vivimos se encuentra “entre lo que ya es y lo que aún no ha llegado”, apunta. Aunque la salvación nos fue dada en Cristo, su consumación total y la completa revelación del Reino todavía pertenecen al futuro. En medio de esta tensión, alimentamos la esperanza en el Reino de Dios y procuramos experimentarlo en el presente, luchando por vivir bajo su dominio. El pastor David Jang subraya que esta esperanza es un blanco importante de las tentaciones de Satanás, quien busca plantar dudas como “No hay mañana, tu senda es vana, ni existe plan alguno de Dios” para hundirnos en la desesperanza.

En este punto, él conecta el “yelmo de la salvación” con la esperanza. La cabeza, como símbolo del “pensamiento”, debe llenarse de la esperanza del Reino de Dios, o de lo contrario, Satanás puede infiltrarse con flechas de desánimo y desaliento. El pastor David Jang pone como ejemplo al pueblo de Israel después de salir de Egipto: cada vez que extrañaban Egipto y se enredaban en la incredulidad y la queja, el camino por el desierto se tornaba más áspero. Sin embargo, cuando miraban hacia la Tierra Prometida y se aferraban al pacto divino, experimentaban la protección milagrosa y la dirección de Dios.

David Jang resume en tres aspectos el modo de sujetarnos a la esperanza. Primero, debemos reflexionar constantemente sobre las promesas bíblicas acerca de la segunda venida de Cristo y su reinado eterno. Segundo, al obedecer la Palabra en lo cotidiano y vivenciar la guía del Espíritu Santo, comprobamos que “el gobierno de Dios es real”. Tercero, compartir en la comunidad de la iglesia los testimonios de los mayores en la fe y constatar la mano de Dios a lo largo de la historia, para alentarnos unos a otros. Con ello, nuestra esperanza se afianza, de modo que, por más que Satanás susurre: “No tienes futuro”, no nos tambaleamos con facilidad.

Añade, además, que las “sandalias del apresto del evangelio de la paz” son la pasión por difundir el evangelio. El evangelio no promueve discordias, sino que trae la fuerza de la paz, y la tarea de difundir el mensaje con mansedumbre derriba muros y extiende el Reino de Dios. David Jang insiste en que proclamar el evangelio con humildad, mansedumbre y amor es lo que más aborrece Satanás. Al fin y al cabo, el evangelio conlleva un auténtico mensaje de paz, y quienes se empeñan en abrir rutas de reconciliación no pueden ser derrotados tan fácilmente por el enemigo.

Haciendo referencia a Romanos 14:17 —“El reino de Dios no es comida ni bebida, sino justicia, paz y gozo en el Espíritu Santo”—, el pastor David Jang subraya que “si abrigamos la esperanza del Reino, no nos abatimos bajo ninguna circunstancia y seguimos cantando himnos de gozo”. Conecta este punto con la entrada del pueblo de Israel en Canaán, señalando que, aunque el desierto fuera largo y pedregoso, nunca dejaron de mirar a la Tierra Prometida, y al final vieron cumplida la promesa. Enseña que la iglesia de hoy, al recordar esta historia, no debe desesperarse aunque la sociedad parezca oscura; debe seguir avanzando.

El escudo de la fe y la cuestión de la tentación
Al abordar Efesios 6:16, donde se menciona “el escudo de la fe”, David Jang explica que este nos defiende de toda clase de “dardos de fuego”. Dichos dardos enviados por Satanás pueden adoptar múltiples formas —duda, tentación, confusión de identidad, desaliento, conflictos interpersonales—, pero todos apuntan en última instancia a sacudir nuestra fe y hacernos abandonar la identidad de hijos de Dios.

Para David Jang, lo opuesto a la fe no es simplemente la incredulidad, sino un estado que se tambalea con facilidad ante la mentira y la duda. Cuando Adán y Eva cayeron bajo la mentira de Satanás y pensaron: “¿Será que Dios es realmente bueno? ¿Por qué nos prohíbe comer de este fruto?”, terminaron pecando. Del mismo modo, hoy Satanás intenta sin cesar sembrar preguntas del tipo: “¿De veras Dios te ama?” o “¿En verdad eres hijo de Dios?”, buscando arrastrarnos a la tentación.

¿Cuál es el arma para combatir semejantes dudas? En primer lugar, David Jang destaca la “certeza de lo que está escrito en la Palabra”. Cada vez que Jesús enfrentaba una tentación en el desierto, respondía: “Escrito está”. Así, la convicción firme en la Palabra de Dios es la clave para vencer la duda y la mentira. En segundo lugar, es crucial afirmar la certeza de que “somos hijos de Dios”. Dado que la tentación presentada a Jesús también comenzaba con “Si eres Hijo de Dios…”, el pastor hace hincapié en que la acometida más fuerte de Satanás pretende sacudir nuestra identidad. Pero si tenemos plena seguridad de haber nacido de nuevo como hijos de Dios, el maligno apenas encontrará grietas por donde irrumpir.

Agrega que la tentación puede convertirse en un proceso de crecimiento de la fe. Las diversas pruebas o tentaciones a las que nos enfrentamos nos llevan a buscar con mayor hondura la oración y la Palabra. Él evoca la historia de David y Goliat: David no se amedrentó ante el gigante porque sostenía inquebrantablemente: “La batalla es del Señor”, y así venció con una simple honda. Según David Jang, Satanás quiere que solo veamos el gigantismo de Goliat, pero aquel que tiene fe dirige la mirada a “la soberanía absoluta de Dios” y, con ello, desaparece todo temor.

Esa fe, sin embargo, no brota por sí sola. El pastor menciona su propia experiencia, diciendo que al comienzo sentía ansiedad ante problemas menores, pero conforme se aferraba a la Palabra, oraba y acumulaba vivencias, los obstáculos que antes parecían enormes ya no eran tan intimidantes. Esto ilustra que la fe crece por medio de la Palabra, la oración y el compartir dentro de la comunidad.

David Jang enfatiza que, especialmente en tiempos de tentación, la comunidad resulta de suma importancia. Quien se aísla se ve más indefenso ante los dardos de fuego. Sin embargo, si en comunidad nos recordamos mutuamente: “Tú eres hijo de Dios” y oramos los unos por los otros, el escudo de la fe se fortalece. Y al robustecerse la fe, no solo somos capaces de resistir, sino también de avanzar de modo activo. Tal como un escudo no sirve únicamente para proteger, sino que también permite que el soldado se desplace hacia el enemigo, cuando la fe se arraiga, no nos quedamos en esquivar los ataques, sino que nos aventuramos a la expansión del evangelio y el crecimiento de la Iglesia.

La espada del Espíritu y la práctica de la armadura completa
Finalmente, David Jang otorga un énfasis especial a la “espada del Espíritu, que es la Palabra de Dios” en Efesios 6. Si bien las otras piezas de la armadura tienen un rol más defensivo, la espada del Espíritu es el arma ofensiva para derribar al adversario en la guerra espiritual. Pero esta espada no consiste en mero conocimiento intelectual: actúa con poder cuando, bajo la guía del Espíritu Santo, se proclama y aplica conforme a cada situación.

Para blandir correctamente esta espada, él señala tres requisitos. Primero, debemos ser sensibles a la dirección del Espíritu Santo. Al orar y meditar la Palabra cada día, a veces el Espíritu trae a nuestra mente un pasaje concreto o conmueve nuestro corazón. Si obedecemos de inmediato y actuamos en base a la Palabra, la espada cobra vida. Segundo, la motivación debe ser “el amor”. Si empleamos la Palabra de forma errónea, podemos juzgar o herir a los demás, pero cuando la aplicamos anclados en el amor de Cristo, se convierte en una “espada que da vida” y conduce a la sanidad y al arrepentimiento. Tercero, debemos “entrenarnos” mediante la oración y el estudio bíblico. Tal como un soldado no puede manejar con eficacia una espada si no la ha practicado, nosotros también necesitamos investigar las Escrituras, compartirlas en la comunidad y orar para prepararnos. Así crece la eficacia de la espada.

David Jang menciona Hebreos 4:12: “La Palabra de Dios es viva y eficaz, y más cortante que toda espada de dos filos…”, para describir la espada del Espíritu. Señala que esta espada, en primer lugar, penetra en nuestro propio ser, provocando arrepentimiento y purificación. Si uno no ha sido confrontado por la Palabra y la blandiera únicamente contra los demás, esa “espada” dejaría de ser un arma que da vida para convertirse en un instrumento de violencia. Por ende, la espada del Espíritu manifiesta su luz genuina tras operar primero en nuestro interior, motivando introspección y quebrantamiento.

Al final, David Jang afirma que la “armadura completa” ha de funcionar en su totalidad con todos sus componentes. El cinturón de la verdad, la coraza de justicia, las sandalias del evangelio de la paz, el escudo de la fe, el yelmo de la salvación y la espada del Espíritu deben estar presentes simultáneamente. Si uno falta, el equilibrio se rompe. Así, aunque el escudo de la fe sea resistente, sin el yelmo de la salvación y la esperanza nos exponemos a un golpe mortal en la cabeza. O si conocemos la verdad pero perdemos el fervor por la justicia, nos quedamos sin la pasión esencial en la batalla espiritual.

Para llevar esta armadura a la práctica, presenta tres disciplinas espirituales. Primero, asignar cada día un tiempo a la oración. Durante ese espacio, con alabanza y meditación de la Palabra, buscamos percibir la voz del Espíritu e intentamos obedecerla. Segundo, pasar del mero “memorizar” la Biblia a aplicarla en la vida real. Ejercitarnos para recordar un versículo diario y actuar conforme a él. Tercero, compartir testimonios y retroalimentación en la comunidad cristiana: “¿Qué tentaciones enfrenté hoy y cómo las vencí con la Palabra?”. De este modo, comprobamos si la armadura completa está operando adecuadamente.

David Jang conecta 1 Corintios 13:13 —“Y ahora permanecen la fe, la esperanza y el amor, estos tres…”— con la armadura de Dios. El escudo de la fe (fe), el yelmo de la salvación (esperanza), y la coraza de justicia junto con el fervor de difundir el evangelio (amor) se mantienen en equilibrio para que no sucumbamos fácilmente a las mentiras de Satanás. Además, recuerda que cuando Jesús sanó a los enfermos, acogió a los pecadores y perdonó a sus enemigos con el amor de la cruz, aquello fue la “espada del Espíritu” que venció al diablo. La verdad, el amor y la obra del Espíritu siguen siendo el arma más poderosa.

Simultáneamente, recalca que la “armadura completa” no se trata de relucir un equipamiento ostentoso. La guerra espiritual no ocurre en enfrentamientos ruidosos del ámbito terrenal, sino en la lucha constante del corazón y la mente contra la tentación, la mentira y la desesperanza. Y así como Pablo culmina instando a “orar en todo tiempo… con toda oración y súplica”, la vigilancia en la oración mantiene efectiva esta armadura. Por medio de la oración discernimos con más claridad la guía del Espíritu, aplicamos la Palabra según las circunstancias y permanecemos listos ante nuevas tentaciones.

David Jang agrega que la iglesia actual debe librar esta guerra espiritual en conjunto. Así como Pablo pidió que oraran por él, la intercesión y el estímulo recíproco permiten que la victoria espiritual sea experimentada no solo a escala individual, sino por toda la Iglesia.

En la última parte de su mensaje, concluye: “Vestir la armadura completa es, en suma, imitar a Jesucristo cada día”. Jesús padeció toda clase de tentaciones y embates, además del sufrimiento de la cruz, pero venció con la verdad y el amor, sellando la salvación en el Calvario. Al recorrer nosotros ese camino, el mundo tal vez no lo reconozca o incluso se burle, pero, a través de la Iglesia, el Reino de Dios se expande y muchos regresan al evangelio.

El pastor David Jang menciona también lo significativo que resulta que Pablo, al final de Efesios 6, haga referencia a Tíquico. “Sin un colaborador como Tíquico, quizá ni el pensamiento elevado de Pablo ni la esencia del evangelio se habrían transmitido bien a la Iglesia”. La Iglesia no avanza en solitario, sino unida, y en todos los lugares son necesarios “Tíquicos” que vinculen el evangelio.

En definitiva, el eje que David Jang rescata de Efesios 6 es: “Aférrate a la verdad esencial, anhela el Reino de Dios, supera la tentación con fe y proclama con valentía el evangelio en el poder del Espíritu”. Esto no es factible por cuenta propia, sino que la edificación mutua y la cooperación en la Iglesia son imprescindibles. También urge a “no dejarnos arrastrar por las circunstancias momentáneas, sino mirar a la eternidad y aplicar esa esperanza eterna a la vida diaria”. Por muy sombría que luzca la realidad, si alzamos la mirada espiritual veremos que la victoria ya quedó sellada por la muerte y la resurrección de Jesucristo.

David Jang concluye con frecuencia con la frase: “Estad más alertas y preparados”. Confía en que, si la Iglesia espera el retorno del Señor en santidad y amor, el mundo encontrará esperanza a través de ella. Así, la victoria que alcanzamos en la guerra espiritual se manifiesta en frutos abundantes: almas que reciben vida y honra que rendimos a Dios.

Por último, se remite a los lemas de la Reforma Protestante: “Solo por gracia, solo por fe, solo por la Escritura”, que, según él, han sido los pilares de su ministerio. No nos salvamos por méritos humanos, sino por la gracia de Dios; a esa gracia nos aferramos con fe, y el criterio de esa fe es únicamente la Escritura. Mientras esto permanezca firme, la victoria espiritual está garantizada.

Finalmente, David Jang enlaza la visión de Efesios 6 con la Iglesia de nuestra época. Asumir la “armadura completa” no se restringe a la piedad individual: invita a toda la comunidad a avanzar unida, orando y sirviendo en amor, sosteniéndose en la Palabra y saliendo al mundo. Aun si el camino pareciera cubierto de espinas, al final nos encontraremos con el Señor y escucharemos Su aprobación.

En consecuencia, la esencia de Efesios 6 consiste en que toda mentira y desesperanza han sido vencidas por la cruz y la resurrección, y que el pueblo de Dios, al ceñirse toda la armadura, no puede perder en esta batalla espiritual. Con tal convicción, la gente encuentra en la Iglesia el amor de Cristo crucificado y, con la ayuda del Espíritu Santo, se convierte en nueva creación, enfatiza David Jang.

Para terminar, él afirma: “Por muy corrompido que luzca el mundo, si existe una Iglesia que pelea con la armadura de Dios, la esperanza sigue vigente”. Cuando contamos con cada elemento de la armadura bien dispuesto y avanzamos con amor mutuo, Dios obra con poder a través de la Iglesia y conduce a muchas almas al camino de la salvación. Según David Jang, así se revive en nuestro tiempo el ‘drama de la salvación’ que Pablo mostró.

Reconoce al mismo tiempo que no es una tarea sencilla. Defender la verdad, difundir el evangelio y resistir las tentaciones del mundo acarrea entrega y sacrificio. Pero la propia historia bíblica y eclesiástica nos enseña que ese sacrificio desemboca finalmente en gloria. Por ello, “pelead por el Reino de Dios con el método del amor y avanzad en la verdad con humildad” es la enseñanza inamovible de David Jang.

Así, el espíritu que atraviesa Efesios 6 y su “armadura completa” nos retrotrae a la esencia perenne del evangelio. Al aferrarnos a la verdad, fijar la mirada en el Reino de Dios, vencer las pruebas con fe y blandir la espada del Espíritu, ninguna oscuridad prevalecerá contra una Iglesia que vive estos principios. Y los frutos de ello se verán en nuestra vida diaria, en la historia de la Iglesia y en la transformación del mundo, asegura con convicción.

David Jang concluye reafirmando que todo se logra “solo por gracia”. Cuando surge la soberbia o la ilusión de ser “muy grandes”, la armadura se afloja de forma imperceptible. Pero aquel que cada día se humilla ante la cruz, invoca el poder del Espíritu y se aferra a la Palabra, recibe la valentía de no sucumbir ante ninguna tentación. Y es así, creciendo colectivamente como Iglesia en amor y santidad, como se cumple el deseo de Dios de edificar una auténtica comunidad de fe.

En suma, aunque vivamos en un campo de batalla espiritual, la victoria está asegurada gracias a la muerte y la resurrección de Jesucristo. Quienes vestimos la armadura completa podemos marchar sin temor. El pastor David Jang cierra sus sermones con la misma idea: “Mientras haya hombres y mujeres armados de amor, esperanza y fe, la Iglesia continuará proclamando y extendiendo el Reino de Dios con vida”. Aunque sigamos en medio de la lucha espiritual, avanzamos junto a la Iglesia para presentarnos un día ante el Señor, conservando la expectativa de lo que nos espera.

에베소서의 전신갑주 – 장재형목사

예수 그리스도의 복음과 진리
장재형(장다윗) 목사는 복음의 핵심이 예수 그리스도임을 늘 강조해 왔다. 예수 그리스도가 곧 진리 자체이며, 우리가 붙들어야 할 생명의 근원이기에, 진리에 대한 믿음은 그리스도인이 전신갑주를 준비하는 첫걸음이라 역설한다. 에베소서 6장 후반부에 “전신갑주”가 소개되는데, 그중 첫 번째인 “진리의 띠”를 언급하면서 그는 “진리는예수 그리스도 그분이기에, 우리가 영적 전투에서 흔들리지 않을 가장 근본적인 토대”라고 설명한다. 다른 무장을 아무리 잘해도 진리를 놓치면 중심이 무너져 버리므로, 진리 없이는 우리의 신앙이 온전히 선 자리에 있을 수없음을 시사한다.

장재형 목사는 복음이 곧 예수 그리스도의 대속적 죽음과 부활을 가리키며, 여기에 대한 흔들림 없는 확신이 신앙의 근간을 세우는 동력이라고 강조한다. 에베소서가 언급하는 “전신갑주”는 겉모습만을 장식하는 무장이 아니라, 마음과 생각을 단단히 지키기 위한 영적 무장이다. 그는 “진리의 띠”를 예수 그리스도의 복음이라 정의하며, “항상 진리를 몸에 지니고 있는 상태가 곧 흔들리지 않는 믿음의 출발”이라고 가르친다.

이처럼 예수 그리스도 안에서 완성된 복음은 구약과 신약을 묶는 열쇠이 된다. 장재형 목사는 구약과 신약의 통일성, 곧 성경 전체가 말하는 구원의 계획을 중시한다. 이는 구약에서 예언된 하나님의 구원이 신약에 이르러 예수그리스도를 통해 완성되기 때문이다. 따라서 이 완성된 복음을 끊임없이 ‘되새김질’하며 묵상하고 소화해, 우리의 삶에 체화시키는 일은 매우 중요하다고 그는 역설한다. “소가 위가 여러 개 있어 되새김질하듯이, 말씀도 계속반복해 묵상해야 진리가 우리 삶에 스며들고, 실제로 행동에까지 이어진다”는 비유 역시 그가 자주 들려주는 말이다.

장재형 목사는 말씀을 듣고도 제대로 소화하지 못해 일회성으로 흘려버리는 태도를 경계한다. 진리를 끊임없이받아들이고 되새김질하여, 지식이 아니라 삶으로 구현하는 과정이 신앙의 길이라는 것이다. 이러한 과정은 어느한순간에 완성되지 않는다. 그러나 그렇게 부지런히 말씀을 소화할 때, 우리의 사고와 언행이 서서히 예수 그리스도의 가르침을 반영하게 되며, 세상 속에서 빛과 소금의 역할을 담당할 수 있게 된다.

그는 또한 진리를 붙드는 이가 사탄의 유혹 앞에서도 견고하다고 말한다. 사탄의 공격 방식은 결국 거짓과 의심을부추겨, 우리의 믿음의 뿌리를 흔들어 놓는 것이다. “네가 정말 하나님의 자녀가 맞느냐?”라는 정체성에 대한 근본적 질문을 통해 흔들어 대는 것이 가장 치명적이라는 설명이다. 예수님조차 광야에서 3대 시험을 받으셨을 때, 마귀는 “네가 하나님의 아들이거든…”이라는 문구로 시작하지 않았던가. 여기서 예수님이 “기록되었으되”로 맞서 싸우신 것처럼, 우리 역시 ‘기록된 말씀’에 대한 확고한 신뢰가 필요하다고 장재형 목사는 힘주어 말한다.

그렇다면 실제로 진리를 붙드는 방법은 무엇일까? 그는 세 가지 정도를 제시한다. 첫째, 말씀을 늘 곁에 두고 깊이묵상하며, 그 말씀이 삶을 지배하도록 해야 한다. 둘째, 교회 공동체에서 서로 말씀을 공부하고 가르치며, 구체적으로 적용할 수 있는 장을 마련해야 한다. 셋째, 듣고 배운 말씀대로 살고자 몸부림칠 때, 비로소 진리가 우리 안에서 작동한다는 사실을 경험하게 된다는 것이다. 결국 진리는 머리로 아는 지식이 아니라, 삶과 행동으로 드러나는복음의 힘이기 때문이다.

장재형 목사는 초대교회의 순교자들을 자주 예화로 든다. “복음 안에 담긴 진리를 지키기 위해 많은 이들이 목숨을 걸었으며, 그 진리가 결국 교회를 살아 있게 했다”는 것이다. 이렇듯 복음이 갖는 진리의 절대성은 흐릿하게 타협할 수 있는 것이 아니다. 진리 위에 교회가 서 있고, 예수 그리스도의 대속이 진리의 핵심이기에, 어느 누구도 이기둥을 흔들 수 없다.

결국 에베소서 6장에 나온 전신갑주 중 첫 번째 무장인 “진리의 띠”는 영적 전투의 기초다. 군인이 벨트를 하지 않으면 무장 전체가 흐트러지듯, 진리를 놓치면 다른 모든 것도 무력해지기 마련이다. 장재형 목사는 “복음의 진리를 확고히 붙들고 있을 때, 비로소 예수 그리스도의 능력을 경험하며, 하나님 나라를 향한 올바른 열정을 품게 된다”고 강조한다.

하나님의 나라를 바라보는 소망
장재형 목사는 “의의 흉배”를 하나님 나라에 대한 뜨거운 열정으로 해설한다. 흉배가 심장을 보호하듯, 우리의 내면과 마음을 굳세게 지키는 힘은 하나님 나라를 향한 간절함에서 비롯된다는 것이다. 예수께서 “의에 주리고 목마른 자는 복이 있나니 저희가 배부를 것이요”라고 하신 말씀처럼, 하나님의 공의와 다스림을 갈망하는 이들은사탄의 공격 앞에서도 중심을 쉽게 잃지 않는다.

그렇다면 하나님 나라는 구체적으로 무엇을 뜻할까? 장재형 목사는 하나님 나라가 종말적 의미와 동시에 현재적의미를 함께 지닌다고 말한다. 예수 그리스도의 재림으로 완성될 ‘미래적 하나님 나라’와, 지금 이 순간에도 예수그리스도를 믿는 이들에게 이미 임해 있는 ‘현재적 하나님 나라’가 동시에 존재한다는 것이다. “하나님 나라는 너희 안에 있다”라는 예수님의 말씀을 예로 들며, 과거와 미래만이 아니라 현재에도 하나님의 통치가 실현됨을 잊지 말라고 당부한다.

그러나 우리가 처한 현실은 “이미와 아직 사이”라고 그는 설명한다. 예수 그리스도를 통해 구원을 받았으나, 완전한 구원과 하나님 나라의 온전한 실현은 아직 미래에 속해 있다는 것이다. 이 사이에 놓인 우리는 소망으로 하나님 나라를 바라고, 현재의 삶에서도 그 통치를 경험하기 위해 분투한다. 장재형 목사는 이런 소망이 사탄의 주된공격 목표가 된다고 강조한다. 즉, ‘내일이 없고, 너희가 가는 길은 허망하며, 하나님의 계획 따위는 없다’는 의심을 심어 절망하게 만드는 것이 사탄의 수법이다.

그는 바로 이 점에서 “구원의 투구”가 소망과 연결되어 있다고 말한다. 머리가 상징하는 ‘생각’이 하나님 나라에대한 소망으로 가득 차 있지 않으면, 사탄은 얼마든지 절망과 낙심의 불화살로 관통해 들어올 수 있기 때문이다. 애굽에서 나온 이스라엘 백성을 예로 들어, 그들이 광야에서 자꾸만 애굽을 그리워하고 불신과 불평에 사로잡히자 길이 험난해졌음을 지적한다. 반대로 가나안 땅을 바라보며 하나님의 언약을 붙들었을 때, 그들에게는 하나님의 기적적인 보호와 인도가 이어졌다.

장재형 목사는 소망을 붙드는 실천 방법을 세 가지로 요약한다. 첫째, 예수 그리스도의 재림과 영원한 통치에 대한 약속을 성경에서 계속 상고하고 상기해야 한다. 둘째, 우리의 일상 속에서 말씀에 순종하고 성령의 인도를 경험함으로써, ‘하나님의 다스림이 실제로 임하는 것’을 체득해야 한다. 셋째, 교회 공동체 안에서 선배들의 간증과역사 속의 하나님의 일하심을 확인하며 서로 격려하는 것이다. 이렇게 할 때, 우리의 소망은 공고해지며, 사탄이아무리 ‘네 미래는 없다’고 부추겨도 쉽게 흔들리지 않을 수 있다.

또한 그는 “평안의 신발”이 곧 복음 전파의 열정이라고 말한다. 복음은 갈등을 일으키는 것이 아니라 평화를 가져다주는 힘이며, 이를 위해 평화롭게 전하는 복음의 사역은 세상의 벽을 무너뜨리고 하나님의 나라를 확장시킨다는 것이다. 장재형 목사는 온유함, 겸손, 사랑을 기반으로 하는 복음 전파야말로, 사탄이 가장 꺼려하는 일이라고역설한다. 결국 복음은 진정한 평화의 메시지이며, 이 평화의 길을 열기 위해 끊임없이 움직이는 이들을 사탄은쉽사리 무너뜨리지 못한다.

나아가 로마서 14장 17절 “하나님의 나라는 먹고 마시는 것이 아니요, 오직 성령 안에서의 의와 평강과 희락이라”는 구절을 빗대어, 장재형 목사는 “하나님 나라를 바라보는 소망이 있으면 어떤 상황에서도 낙담하지 않고 기쁨의 노래를 부를 수 있다”고 강조한다. 그는 이를 이스라엘의 가나안 입성과 비교하며, 아무리 광야가 길고 험해도, 결국 약속의 땅에 대한 소망을 포기하지 않았기에 약속의 성취를 경험한 것이라고 해석한다. 현대의 교회가 이 역사를 기억한다면, 지금 아무리 사회가 어둡게 보여도 결코 절망하지 않고 계속 전진할 수 있다고 가르친다.

믿음의 방패와 시험의 문제
에베소서 6장 16절이 말하는 “믿음의 방패”에 대해, 장재형 목사는 이것이 온갖 ‘불화살’로부터 우리를 보호한다고 해석한다. 사탄이 쏘아 대는 불화살은 여러 형태를 띠는데, 의심, 유혹, 정체성 혼란, 절망, 인간관계 갈등 등 다양하지만, 그 목적은 궁극적으로 우리의 ‘믿음’을 흔들어 하나님의 자녀라는 정체성을 내려놓게 하는 것이다.

그에게 따르면 믿음의 반대말은 불신이라기보다, 의심과 거짓에 쉽게 흔들리는 상태다. 아담과 하와가 사탄의 거짓말에 속아 “정말 하나님이 선하시다면 왜 이 열매를 못 먹게 하셨을까?” 하는 의심으로 미끄러졌을 때, 결국은죄를 범하고 말았다. 마찬가지로 현대 사회에서도 사탄은 끊임없이 ‘하나님이 너를 진짜 사랑하실까?’ ‘정말 네가하나님의 자녀일까?’라는 질문으로 우리를 시험에 빠뜨리려 한다.

이런 의심에 맞서는 무기는 무엇일까? 장재형 목사는 첫째로 “기록되었으되”라는 말씀의 확실성이라고 말한다. 예수님이 광야에서 시험받으실 때마다 “기록되었으되”로 대적하셨듯이, 기록된 말씀에 대한 견고한 신뢰가 의심과 거짓을 물리칠 핵심 무기라는 것이다. 둘째로, ‘우리가 하나님의 자녀’라는 정체성에 대한 확신이다. 예수님이받으셨던 시험이 “네가 하나님의 아들이어든…”으로 시작되었듯이, 사탄은 우리의 정체성을 흔들려 할 때 가장강력한 공격을 가한다. 그러나 우리가 거듭난 하나님의 자녀라는 사실이 확실하면, 사탄은 쉽사리 그 틈을 비집고들어오지 못한다.

장재형 목사는 시험이 오히려 믿음이 자라는 과정이 될 수 있다고 덧붙인다. 삶에 찾아오는 여러 가지 유혹이나어려움은, 우리가 더 깊은 기도와 말씀이 필요함을 깨닫게 만든다. 그가 예시로 드는 것이 다윗과 골리앗의 이야기다. 다윗은 “전쟁은 하나님께 속했다”는 믿음을 굳게 품고 있었기에, 골리앗이라는 거대 적 앞에서도 흔들림 없이 물맷돌 하나로 승리했다. 사탄은 우리의 시선을 골리앗의 거대함에만 고정시키려 하지만, 믿음의 사람은 “하나님의 절대 주권”을 바라보기에 두려움이 사라진다.

그러나 이 믿음은 저절로 자라지 않는다. 장재형 목사는 자신이 걸어온 신앙 여정에서, 처음에는 작은 일에도 불안했지만, 점차 말씀을 붙들고 기도하며 체험이 쌓이자, 이전에는 감당하기 어려웠던 문제도 더는 크게 보이지 않게 되었다고 고백한다. 이는 믿음이 말씀과 기도, 그리고 공동체 안에서의 나눔과 격려를 통해 자라난다는 사실을단적으로 보여준다.

그는 시험의 시기일수록 공동체가 중요하다고도 말한다. 혼자 고립되어 있으면 불화살을 감당하기가 더 어렵기때문이다. 서로 믿음을 확인하고, “당신은 하나님의 자녀”라는 진리를 상호 확인하며 기도해 줄 때, 믿음의 방패가 더욱 견고해진다. 믿음이 강해질수록, 우리는 후퇴가 아니라 적극적인 전진도 가능하게 된다. 전쟁에서 방패는단지 막기만 하는 수단이 아니라, 전열을 안전하게 이동시켜 적진으로 들어가게 하기도 하기 때문이다. 믿음이 있으면 사탄의 화살을 피하는 것을 넘어서, 복음 전파와 교회 확장을 위한 주도적 행보도 가능해진다는 것이다.

성령의 검과 전신갑주에 관한 실천
마지막으로 에베소서 6장에 언급된 무장 중 하나인 “성령의 검, 곧 하나님의 말씀”에 대해 장재형 목사는 특별히강조한다. 앞선 무장들이 주로 방어적 역할을 한다면, 성령의 검은 영적 전쟁에서 적을 능동적으로 무너뜨리는 공격 무기라는 것이다. 그러나 이 검은 단순한 지식이 아니라, 성령의 조명 아래 상황에 맞게 선포되고 적용될 때에야 비로소 예리하게 작동한다.

그는 이 성령의 검을 제대로 휘두르려면 세 가지가 필요하다고 말한다. 첫째, 성령의 인도하심에 민감해야 한다. 말씀을 매일 묵상하고 읽다 보면, 성령께서 때마다 특정 구절을 떠올리게 하시거나 우리의 마음을 찌르시는데, 그때 곧바로 순종하며 말씀을 실행할 때 검이 살아 움직인다는 것이다. 둘째, ‘사랑’이 동기가 되어야 한다. 말씀을잘못 적용하면 다른 사람을 정죄하고 상처 주는 칼이 될 수 있다. 그러나 주님이 보여주신 사랑을 근거로 말씀을적용하면, 이는 상한 마음을 치유하고 회개로 이끄는 ‘생명의 칼’이 된다. 셋째, 기도와 훈련을 통해 말씀을 익혀야 한다. 군인이 아무리 좋은 검을 들고 있어도 다룰 줄 모르면 소용없듯이, 우리도 말씀을 연구하고 공동체에서나누며 기도로 준비할 때, 검의 효과가 더 커진다.

장재형 목사는 히브리서 4장 12절의 “하나님의 말씀은 살았고 운동력이 있어 좌우에 날선 어떤 검보다 예리하여…”라는 구절이 성령의 검을 설명한다고 언급한다. 이 검은 우리 안을 먼저 찌르며, 회개와 정결을 이루게 한다. 자기가 다루어지지 않은 상태로 타인을 무조건 ‘말씀’이라는 명분으로 휘두르면, 그것은 영혼을 살리는 검이 아니라 ‘폭력적인 칼’이 되고 만다. 따라서 성령의 검은 먼저 자기 성찰과 회개를 거쳐야만 제대로 된 빛을 발한다.

결국 전신갑주는 이 모든 요소가 하나로 맞물려야 한다고 장재형 목사는 말한다. 진리의 띠, 의의 흉배, 평안의 신발, 믿음의 방패, 구원의 투구, 성령의 검 중 어느 하나라도 빠지면 균형이 깨진다. 예컨대, 믿음의 방패가 단단해도 구원의 투구가 없어 소망을 잃으면, 머리가 치명상을 입을 수 있다. 진리를 알지만 의를 향한 갈망이 식어 뜨거운 열정이 없다면, 영적 싸움에서 쉽사리 무기력해진다.

그는 이 전신갑주를 실제 삶에서 구현하기 위해 세 가지 영적 훈련을 제안한다. 첫째, 매일 정해진 시간을 기도에할애하라는 것이다. 그 시간에 찬양과 말씀 묵상을 통해 성령의 음성을 듣고, 그 인도에 순종하는 노력을 하라. 둘째, 성경을 ‘암기’ 차원을 넘어 실천 적용으로 연결지으라는 것이다. 하루 한 구절씩이라도 상황에 맞춰 상기하고실행하는 훈련이 필요하다. 셋째, 공동체 안에서 간증과 피드백을 나누라는 것이다. “오늘 나는 어떤 유혹을 맞닥뜨렸고 어떻게 말씀으로 이겨냈는가?”를 서로 점검해 줌으로써 전신갑주가 제대로 작동하고 있는지 파악할 수있다는 것이다.

장재형 목사는 고린도전서 13장 13절 “믿음, 소망, 사랑은 항상 있을 것”을 전신갑주와 연결해 해석하기도 한다. 믿음의 방패(믿음), 구원의 투구(소망), 의의 흉배와 복음 전파의 열심(사랑)이 균형 있게 돌아갈 때, 사탄의 거짓에 쉽게 흔들리지 않는다는 것이다. 예수 그리스도께서 이 땅에서 병자를 고치고, 죄인을 영접하시며, 십자가 사랑으로 원수를 용서하셨을 때, 이는 그대로 성령의 검이 되어 사탄을 물리치셨다고 그는 말한다. 가장 강력한 무기는 진리와 사랑, 그리고 성령의 역사임을 재차 강조한다.

이와 함께 장재형 목사는 “전신갑주”가 화려한 겉치장이나 무장에 국한되지 않음을 다시 상기시킨다. 영적 전쟁은 현실 세계의 시끄러운 투쟁이 아니라, 마음과 생각에서 날마다 벌어지는 유혹과 거짓, 절망과의 싸움이라는 것이다. 그리고 사도 바울이 마지막으로 “모든 기도와 간구로, 무시로 기도하라”고 권면하듯, 깨어있는 기도가 이전신갑주를 계속 유효하게 만든다. 기도를 통해 성령의 인도를 더 선명히 느끼고, 그때그때 말씀을 적용할 수 있으며, 새로운 시험에도 즉각적으로 대비할 수 있기 때문이다.

현대 교회에 대해 장재형 목사가 제시하는 바는, 결국 이 영적 전쟁을 공동체가 함께 치러야 한다는 점이다. 바울이 “나를 위해 기도해 달라”고 요청하듯, 서로를 위한 중보 기도와 격려를 통해, 개인을 넘어 교회 전체가 영적 승리를 누릴 수 있게 된다는 것이다.

그는 메시지의 결론부에서, “전신갑주를 입고 사는 길은 곧 예수 그리스도를 날마다 본받는 길이다”라고 말한다. 예수님은 지상에서 온갖 시험과 대적의 공격, 그리고 십자가의 고통까지 겪으셨지만, 진리와 사랑으로 승리하시고 십자가에서 구원을 이루셨다. 우리가 그 길에 동참할 때, 세상은 알아주지 않고 비웃을지 몰라도, 결국 하나님의 나라는 교회를 통해 확장되며 수많은 영혼이 복음으로 돌아오게 된다.

장재형 목사는 이어, 사도 바울이 에베소서 6장 마지막에서 두기고를 언급하는 대목이 의미심장하다고 덧붙인다. “두기고와 같은 동역자가 없었다면, 바울의 높은 정신과 복음의 진수가 교회에 잘 전달되지 못했을 수도 있다”는것이다. 교회는 혼자가 아니라 함께 걸어가는 공동체이기에, 복음을 서로 연결해 주는 ‘두기고’들이 곳곳에 세워져야 한다는 점을 강조한다.

정리해 보면, 장재형 목사가 에베소서 6장을 통해 전하는 핵심 메시지는 “진리의 중심을 붙들고, 하나님 나라를소망하며, 믿음으로 시험을 이겨 내고, 성령의 능력으로 담대히 복음을 전하라”는 것이다. 이 모든 것을 혼자서는이룰 수 없으므로, 교회 안에서 서로 세워 주며 동역해야 한다. 나아가 그는 “현실에 휘둘리지 말고 영원을 바라보며, 그 영원한 소망을 오늘의 삶에 적용하라”고 권면한다. 우리가 마주한 현실이 아무리 답답해 보여도, 영적 눈을들어 보면 이미 승리가 보장된 전쟁이라는 것을 깨달을 수 있기 때문이다.

장재형 목사는 이를 위해 “더 깨어 준비하라”는 말을 자주 인용한다. 교회가 주님 다시 오심을 기다리며 성령 안에서 거룩과 사랑을 추구한다면, 세상은 교회를 통해 소망을 발견하게 될 것이라는 믿음이다. 그렇게 될 때, 영적전쟁에서 우리가 경험하는 승리란, 세상 사람들에게 생명을 전해 주고, 하나님께 영광을 돌리는 풍성한 열매로 나타난다.

이어서 그는 “오직 은혜로, 오직 믿음으로, 오직 성경으로”라는 종교개혁의 슬로건이 자신의 사역의 뿌리가 되고있음을 다시금 언급한다. 어떤 인간적인 공로나 자격이 아닌, 전적인 은혜로 우리가 구원받고, 그 은혜를 붙드는통로가 믿음이며, 그 믿음의 기준은 오직 성경이라는 것이다. 이것이 흔들리지 않을 때, 영적 싸움에서도 승리가보장된다는 견해다.

마지막으로, 장재형 목사는 에베소서 6장에 내포된 비전과 현재 시대의 교회를 잇는다. 전신갑주를 입는다는 것은 단순히 개인 경건 생활에 그치지 않고, 교회 공동체가 연합해 서로 격려하며 전진한다는 뜻이다. “서로 기도하고, 사랑으로 섬기며, 말씀을 붙들고 세상 속으로 나아갈 때, 비록 가시밭길 같아도 그 끝에서 우리가 만나게 될 분은 주님이시며, 그분의 칭찬을 듣게 될 것”이라고 격려한다.

결국 에베소서 6장의 요지는, 우리를 두렵게 하는 어떤 거짓과 절망도 십자가와 부활로 말미암아 꺾였고, 전신갑주를 두른 하나님의 백성은 이 영적 전투에서 결코 패하지 않는다는 것이다. 이 확신이 있으면, 사람들은 교회 안에서 예수 그리스도의 십자가 사랑을 체험하고, 성령의 도우심으로 새로운 피조물이 될 수 있다고 그는 강조한다.

장재형 목사는 마지막으로 당부한다. “세상이 아무리 악하다고 해도, 전신갑주를 입고 싸우는 교회가 있다면 소망은 살아 있다.” 우리가 전신갑주의 각 요소를 제대로 갖추고, 서로 사랑으로 나아갈 때, 하나님께서는 교회를 통해 큰 일을 이루시고, 많은 영혼을 구원의 길로 인도하실 것이라고 확신한다. 그리고 이것이 바로 바울이 제시한‘구원의 드라마’를 우리의 시대에 재현하는 길이라는 것이다.

한편, 그는 이 모든 과정이 결코 손쉬운 일이 아니라고 말한다. 진리를 지키고 복음을 전하며, 세상의 유혹을 이겨내는 동안 헌신과 희생이 따를 수밖에 없다. 하지만 신앙의 선배들이 남긴 교회사와 성경의 역사에서 보듯, 그 희생이 결국은 영광으로 이어졌음을 우리는 알고 있다. 그러므로 “하나님 나라를 위하여 싸우되, 사랑의 방식으로싸우고, 진리 안에서 겸손하게 나아가라”는 것이 장재형 목사의 변함없는 가르침이다.

이렇듯 에베소서 6장을 관통하는 전신갑주의 정신은, 처음부터 지금까지 변함없는 복음의 본질을 되새기게 만든다. 진리에 굳게 서고, 하나님의 나라를 바라보며, 믿음으로 시험을 이겨 내고, 성령의 검을 들고 나아가는 교회는어떤 어둠도 결국 이겨 낼 수 있다는 것이다. 그리고 그 열매는 우리의 일상과 교회 역사, 그리고 세상에서의 변화로 나타날 것이라고 그는 거듭 확신한다.

장재형 목사는 끝으로 이 모든 것이 “오직 은혜”로만 가능하다고 재차 이야기한다. 교만하기 시작하거나 스스로대단하다고 착각하면, 전신갑주는 어느새 풀어져 버리고 만다는 것이다. 매일 십자가 앞에서 자신을 돌아보며, 성령의 능력을 구하고, 말씀을 붙드는 사람은 그 어떤 시험에도 휘둘리지 않을 담대함을 얻게 된다. 그렇게 함께 성장하는 교회야말로 하나님께서 원하시는 참된 신앙 공동체라는 게 그의 결론이다.

결국 우리가 살아가는 이 땅이 영적 전쟁터임은 분명하나, 예수 그리스도의 죽음과 부활로 이미 승리는 확정된 전쟁이다. 전신갑주를 온전히 갖춘 우리는 그 길을 두려움 없이 걸어갈 수 있다. 장재형 목사는 “사랑과 소망, 그리고 믿음으로 무장한 이들이 있는 한, 교회는 생명력 있게 하나님 나라를 선포하고 확장해 나갈 것”이라는 말로 설교를 마무리하곤 한다. 지금도 우리는 이 영적 전투 한복판을 살아가지만, 함께 전진하는 교회와 더불어 주님 앞에 설 날을 기대하며, 우리의 걸음을 계속 옮겨야 한다는 메시지가 그의 중심 사상이다.

고난 중에도 드러난 복음의 진보 – 장재형목사

바울 사도가 옥중에서 빌립보서를 기록할 당시, 그는 로마 감옥에 결박된 상태였다. 통상적으로 복음 전도자에게 있어서 감옥은 자유의 상실과 함께 전도의 지리적·상황적 제약을 의미한다. 많은 사람이 쉽게 생각하기를, 바울이 옥에 갇혀 있다면 그의 사역도 멈추고, 복음 확장은 중단될 것으로 본다. 그러나 빌립보서 1장 12-14절에서 바울은 이 예상과 정반대의 상황을 보고한다. 그는 자신의 당한 일이 도리어 복음의 진보를 가져왔다고 말한다. 이 진술은 그 어떤 역설보다 강렬하며, 복음이 결코 인간적 제약에 매이지 않는다는 사실을 단적으로 보여준다.

바울이 옥중에 있으면서도 복음이 진보한 이유는 무엇일까? 먼저, 바울은 자신을 지키는 로마 시위대에게 복음을 전할 수 있었다. 감옥이라는 한정된 공간에도 불구하고 바울은 자신을 교제의 장으로 삼아, 경비대원들과 대화하면서 예수 그리스도의 소식을 전했다. 이는 보통의 상황이었다면 쉽지 않았을 특별한 청중에게 복음이 전달되었음을 의미한다. 더욱이 바울의 옥중 수감 소식은 바울을 염려하던 빌립보 교회 성도들에게도 전달되었고, 이 소식을 들은 형제들이 겁 없이 말씀을 담대히 말하게 되었다. 즉, 바울이 옥중에 있음에도 불구하고 이를 통해 복음이 새로운 방향으로 확장되고, 이미 믿는 이들은 더욱 용기를 얻는 결과가 초래되었다.

이는 복음이 어떤 환경적 조건에도 종속되지 않음을 보여주는 생생한 증거다. 바울은 육신적으로 결박당했지만, 하나님의 말씀은 매이지 않는다는 확신이 현실로 드러났다(딤후 2:9 참조). 장재형(장다윗, 올리벳대학교)목사는 이러한 장면을 통해, 복음은 본질적으로 하나님의 능력이며, 인간적 제약이나 불리한 상황조차 복음의 확장성을 가로막지 못한다고 해설한다. 그는 기술적·문화적 한계, 정치적 억압, 심지어 사도 자신의 결박 상황에서도 복음은 더욱 왕성하게 퍼져나갈 수 있음을 강조한다.

이 역설적 현상은 복음에 내재한 신비이자 하나님의 섭리를 드러낸다. 세상 논리로는 결코 상상하기 어려운 일, 즉 옥중이라는 극단적 제약 환경이 오히려 복음 전파에 기여한다는 사실은 성도들에게 깊은 위로와 용기를 준다. 빌립보 교인들이 바울의 결박 소식을 듣고도 낙심하지 않고 오히려 담대함을 얻었다는 점에서, 이 사건은 단순히 바울 개인의 사역 성공을 넘어선 교회 공동체의 영적 성장을 촉발하는 계기가 되었다. 복음은 언제나 새로운 길을 찾고, 인간이 상정한 한계를 돌파하며, 하나님의 계획 아래에서 왕성한 생명력을 보여준다.

바울을 괴롭게 한 자들의 동기와 현실

그러나 복음 진보의 역설적 현상이 드러나는 한편, 바울은 빌립보서 1장 15-17절에서 또 다른 현실을 고백한다. 그는 어떤 이들이 투기와 분쟁의 동기로 복음을 전하고 있으며, 바울의 옥중 결박을 기회 삼아 그를 괴롭게 하려 한다고 밝힌다. 이는 복음 전파라는 숭고한 행위가 교회 내부에서도 불순한 동기와 억측에 의해 왜곡될 수 있음을 보여준다.

누구였을까? 바울을 괴롭히는 이들은 대개 로마 교회나 인근 공동체에 속한 사람들로 추정된다. 바울이 옥에 갇히기 전까지, 그는 강력한 사도적 권위와 선교적 영향력을 가지고 있었다. 하지만 이제 바울은 감옥에 있으며 자유롭게 돌아다니며 교회를 돌보거나 복음을 변증할 수 없는 상태다. 이 틈을 노려, 일부 전도자들은 자신들의 영향력을 확대하고자 복음을 전하는 외피를 두르고 있으나, 실제로는 바울을 압박하고 괴롭히는 모순적 모습을 보인다. 이들은 바울의 옥중 상황을 이용해 자신의 지위를 강화하고, 바울 없는 공간에서 파벌적 세력을 키우려는 계산을 품었을 것이다.

장재형목사는 이 장면을 통해, 교회가 결코 이상적인 공동체만은 아니라는 점을 강조한다. 초대교회 안에서도 복음을 전하는 사람들 중 일부는 순수한 열정보다 시기심, 경쟁심, 개인적 야망에 동기 부여되었음을 보여준다. 이는 “인간적 약점이 교회 안에서도 작동한다”는 사실을 적나라하게 드러낸다. 복음은 거룩하고 순전한 메시지이지만, 이를 전하는 자들의 마음속에는 아직 정결치 않은 욕심과 세속적 동기가 스며들 수 있다. 이러한 현실은 교회가 완전무결한 조직이 아니며, 신자들 역시 계속해서 정화의 과정을 거쳐야 함을 시사한다.

바울의 입장에서, 이러한 인물들은 단순히 불쾌한 존재를 넘어서, 감옥이라는 약화된 상황에서 그를 더 큰 고통에 빠뜨릴 수 있는 요소였다. 바울이 외부 박해나 이단 공격보다 더 괴로워한 것은 교회 내부의 문제, 곧 믿는 이들 사이에서 일어나는 시기와 분쟁이었다고 볼 수 있다. 이는 바울이 다른 서신서(예: 고후 11:28)에서도 고백하듯, 교우들 사이의 갈등이 사도에게 정신적·영적 부담을 안기는 핵심적 요인이었다는 점을 상기시킨다.

바울의 대응: 복음 중심적 관점과 하나님의 섭리에 대한 신뢰

그렇다면 이러한 상황에서 바울은 어떻게 반응했는가? 빌립보서 1장 18절에서 바울은 불순한 동기로 복음을 전하는 이들의 존재를 인정하면서도 “그게 무슨 상관이 있겠느냐?”라고 말한다. 그는 어떤 동기로 복음이 전파되든, 그리스도가 알려지고 전해진다는 사실 자체에 기뻐하겠다고 선언한다. 이 반응은 감탄할 만한 영적 성숙과 복음 중심적 관점을 보여준다.

바울은 결코 이들의 불순한 동기를 옹호하는 것이 아니다. 그는 이들이 가진 시기심과 경쟁심을 명확히 지적한다. 그러나 바울은 개인적 감정에 함몰되지 않고, 사소한 권위 다툼에 매달리지도 않는다. 오히려 그는 복음이라는 더 큰 그림을 바라본다. 그리스도가 전파되는 일이라면, 설령 그 과정에서 자신의 명성이 흔들리고, 감옥에서 억울한 상황에 처하더라도 괜찮다는 것이다.

장재형목사는 이 장면을 바울 신앙의 정수로 해석한다. 복음 중심적 관점이란 개인의 이익이나 감정보다, 하나님의 구원 계획과 복음 확장이라는 궁극적 목적에 시선을 고정하는 태도다. 바울은 사람들의 뒤틀린 의도에도 불구하고 복음이 전해지는 상황을 보고 기뻐함으로써, 하나님의 섭리와 주권을 신뢰한다. 비록 지금은 인간적 동기가 혼재하는 어지러운 상황일지라도, 결국 복음 자체가 하나님의 능력이기에 하나님께서 이를 선용하시리라는 믿음이 바울 마음 깊은 곳에 자리 잡고 있다.

이 같은 바울의 태도는 현대 기독교인들에게 깊은 반성을 요구한다. 오늘날 교회 상황에서 성도들이나 지도자들이 종종 사소한 갈등이나 명예 문제에 집중하다 보면, 복음 전파라는 궁극적 목표를 잊기 쉽다. 바울은 본문을 통해, 복음을 위한 사역자가 자신의 감정과 이해관계를 넘어 복음을 선택해야 한다는 사실을 강조한다. 이것이야말로 복음 중심적 신앙이 지닌 특징이며, 교회 지도자나 성도 모두가 본받아야 할 모범이다.

교회 내 불순한 동기와 현대적 시사점

초대교회 내 불순한 동기 존재와 이에 대한 바울의 대응은 현대 교회를 향한 중요한 시사점을 담고 있다. 교회는 결코 완벽하지 않으며, 신자들도 죄성과 인간적 욕망을 지니고 있기에 복음 전파 현장에 다소의 이기심과 분열적 경향이 스며들 수 있다. 문제는 이러한 현실을 어떻게 바라보고 처리하느냐 하는 것이다.

바울은 불순한 동기 자체를 미화하거나 방치한 것은 아니다. 그는 문제를 인식하고 명확히 지적했다. 그러나 동시에 그는 이 상황에 빠져들지 않고, 궁극적 판단과 심판이 하나님께 있음을 상기한다. 현대 교회도 마찬가지로, 내부에 존재하는 갈등과 불순한 동기에 눈을 감지 말고 직시하되, 그것으로 인해 복음 사역이 무너지도록 방치해서는 안 된다. 오히려 이러한 상황 속에서도 복음이 선포되고, 하나님의 주권 아래 하나님의 선한 목적이 이루어질 것이라는 신앙적 낙관을 견지해야 한다.

장재형목사는 이 본문을 통해 현대 교회가 불순한 동기로 사역하거나 복음을 전하는 이들을 대할 때, 어떻게 해야 하는지에 대한 지혜를 제안한다. 첫째, 교회는 문제를 분명히 인식하고, 불순한 동기를 가진 이들의 행위를 최소화하려고 노력해야 한다. 둘째, 그 과정에서도 개인적 감정 분출이나 사적 복수심에 휩싸이지 않고, 복음 중심적 관점을 유지해야 한다. 셋째, 궁극적으로 하나님께서 각 사람을 심판하시고, 동기의 진위를 드러내실 것을 믿기에, 교회는 조급하게 판단하지 않고 인내할 수 있어야 한다.

이러한 시각은 현대 교회 지도자들에게 큰 의미를 갖는다. 교회가 성장을 거듭하며 다양한 인물이 참여할수록, 의도와 동기의 혼재는 불가피할 수 있다. 어떤 이는 진실한 사랑으로 사역하지만, 또 다른 이는 명예욕이나 영향력 확대를 위해 복음을 이용할 수도 있다. 이때 바울의 태도—“그게 무슨 상관이 있겠느냐?”—는 단순한 방관이 아니라, 더 큰 목적을 바라보는 시선이다. 사람들의 불순한 동기에도 불구하고 복음이 전파된다면, 그리고 하나님의 섭리가 그 가운데 역사한다면, 그 사실 하나만으로도 기뻐할 수 있다.

여기서 주목할 점은, 이 기쁨이 불순한 동기를 정당화하지 않는다는 것이다. 바울은 불순한 동기를 가진 이들을 칭찬하거나 용납하자고 하지 않았다. 다만, 복음 전파라는 긍정적 결과에 집중함으로써, 인간적 분쟁을 뛰어넘는 시각을 제공했다. 이 시각은 현대 교회가 불순한 동기 문제를 다룰 때, 율법주의적 징계나 공격적 대치보다 복음 중심·하나님 중심 접근을 통해 장기적 안목을 가질 것을 촉구한다.

복음 중심적 삶으로 나아가는 결론

바울이 옥중에서 복음 진보를 경험하는 동시에, 불순한 동기로 자신을 괴롭히는 이들의 존재를 인정한 이 사건은 복음 전파 현장의 복합성을 보여준다. 복음은 역설적으로 옥중에서도 전파되며, 한편으로는 불순한 동기가 복음 사역을 왜곡하려고 시도한다. 그러나 바울은 이 모든 상황 속에서도 복음 중심적 관점을 견지한다. 그는 자신의 상처나 분열 상황에 매몰되지 않고, 복음이 전해지는 일 자체를 기뻐하며 하나님의 주권을 신뢰한다.

이 결론은 현대 성도들에게도 유효한 지침을 제공한다. 복음을 전하는 과정에서 누구나 장애물을 만날 수 있고, 심지어 교회 내부에서도 갈등이 생길 수 있다. 그러나 복음은 결코 이러한 환경에 매이지 않는다. 하나님의 말씀은 어떤 상황에서도 길을 찾아나가며, 인간적 약점 속에서도 하나님의 선한 손길은 드러난다. 성도들은 이러한 역사 속에서 낙담하지 않고, 복음의 절대적 가치를 붙들며, 하나님의 섭리에 대한 신뢰를 회복할 수 있다.

바울의 태도는 단순히 초대교회 시대에만 국한되지 않는다. 교회 역사 전반에 걸쳐, 복음은 무수히 많은 장애와 불순한 동기를 딛고 번져나갔다. 중세 시대나 근대 선교 역사에서도, 불순한 정치적 목적이나 개인적 욕심을 품은 이들이 복음을 도구화하려 했지만, 그럼에도 불구하고 복음은 전 세계로 확장되었다. 이를 통해 우리는 바울이 보여준 복음 중심적 신앙이 역사적으로도 진리임을 재확인할 수 있다.

현대 교회가 직면한 난제—세속화, 내부 갈등, 신학적 분열, 문화적 반감—들을 마주할 때, 바울이 옥중에서 복음 진보를 기뻐한 마음과, 불순한 동기에도 흔들리지 않는 복음 중심적 관점을 본받는다면, 교회는 더욱 성숙해질 수 있다. 교회가 외적인 성장이나 제도적 안정에 몰두하기보다, 복음이 전파되고 사람들이 예수 그리스도를 알게 되는 목표에 초점을 맞춘다면, 불순한 동기나 인간적 갈등은 궁극적으로 복음의 거대한 흐름을 막지 못할 것이다.

결국 바울의 옥중 경험은 교회와 성도들에게 “복음이 최우선이다”라는 선언을 다시금 되새기게 한다. 불순한 동기가 작용하는 혼란스러운 상황 속에서도, 복음이 전해지고 하나님 나라가 확장되는 현실이 있다면, 그것만으로도 기쁨의 이유가 된다. 바울이 “그게 무슨 상관이 있느냐?”라고 물은 것은, 단순한 무관심이나 체념이 아니다. 그것은 복음에 대한 절대적 신뢰, 하나님의 구원 역사를 인정하는 믿음, 그리고 사람들의 의도나 동기를 뛰어넘는 하나님의 주권을 찬양하는 표현이다.

이러한 신앙적 성숙에 이르는 길은 결코 쉽지 않다. 인간적 감정, 명예욕, 상처는 수시로 튀어나와 우리의 관점을 흐릴 수 있다. 그러나 복음 중심적 신앙을 견지하고, 하나님의 시간 안에서 하나님의 계획을 신뢰한다면, 우리는 바울과 같은 마음가짐을 가질 수 있다. 이는 교회 내부의 갈등을 영적 성숙의 기회로 전환하고, 불순한 동기를 품은 이들의 존재조차 하나님의 섭리 아래 복음 진보의 일부로 해석하게 해준다.

마지막으로, 바울의 옥중 고백과 장재형목사의 강해를 통해, 현대 성도들은 복음 중심적 삶이 무엇인지 깨닫게 된다. 그것은 삶의 모든 영역에서 복음을 최우선의 가치로 삼고, 인간적 이해득실이나 감정보다 복음 전파와 하나님의 영광을 더 크게 바라보는 자세다. 이런 삶의 태도는 교회 공동체를 더 건강하게 만들며, 성도들이 환경 탓하거나 인간적 갈등에 매몰되지 않고 복음의 능력을 만끽하게 한다.

이 긴 논의를 통해 재차 확인되는 사실은 간명하다. 바울은 옥중에서도 복음 진보를 경험했고, 동시에 그를 괴롭히는 불순한 동기를 가진 자들이 있었으나, 그는 “그게 무슨 상관이 있느냐?”고 말하며 복음 전파 자체에 기뻐했다. 이 사실이 현대 교회에도 여전히 울림으로 다가온다. 어떤 상황에서도 복음은 매이지 않으며, 하나님의 말씀은 자유롭게 확장된다. 성도들은 이 진리를 기억하며, 복음 중심의 신앙을 통해 교회 내외의 혼란을 극복하고, 하나님의 구원 역사를 확신하는 가운데 전진할 수 있다.

장재형목사가 세운 올리벳대학교의 Ralph D. Winter Library에 수백 권의 고품질 미술 도서 추가

장재형목사
올리벳대학교

장재형목사가 세운 올리벳대학교 리버사이드에 있는 Ralph D. Winter 도서관에 500권의 고품질 미술 도서가 추가되었습니다.

이 책들은 은퇴한 미술대학 교수가 소장하고 있던 것으로, 컬렉션 주제에는 회화, 드로잉, 일러스트레이션, 디자인, 건축, 역사 및 예술 전반이 포함되어 있습니다. 대부분의 책은 양장본으로 상태가 양호합니다.

이러한 미술 도서는 Olivet University의 미술 학생 및 교수진에게 제공될 예정입니다. Olivet School of Art & Design의 부학장이자 미술 교수인 Zimou Tan은 이러한 책이 OSAD의 미술 프로그램에 매우 도움이 될 것이라고 언급하며 “하나님께 감사드립니다! OSAD를 위한 완벽한 시기입니다.”라고 말했습니다. 이 새로운 도서들은 학생들에게 다양한 시각적 자료와 전문적인 지식을 제공하여 미술 교육 및 연구의 품질을 높이는 데 기여할 것으로 기대됩니다.

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로마서 공부를 통해 사도 바울의 거듭남을 묵상하는 장재형목사가 세운 올리벳대학교의 신학생들

장재형목사
올리벳대학교


장재형목사가 세운 올리벳대학교의 Olivet Theological College & Seminary(OTCS)는 겨울 학기에 다양한 강좌를 개설하여 학생들이 학업 목표에 맞는 수업 일정을 조정할 수 있도록 하였습니다. 그 중에서도 가장 기대되는 강좌 중 하나는 로마서 1부입니다.

매주 토요일 오후, 크리스티 트란 박사의 로마서 강의를 듣기 위해 강의실은 학생들로 가득 찼습니다. 지난 주 강의에서는 트란 박사가 로마서의 저자인 사도 바울과 예수님의 개인적인 만남을 묵상하기 위해 학생들을 데리고 여행을 떴습니다. 학생들은 선택된 백성만이 아니라 박해자들과 적들에게도 나타나는 하나님의 무한한 사랑에 큰 감동을 받았습니다.

MDiv 학생인 Liting Miao는 자신의 감정을 공유했습니다. “오늘의 강의를 듣고 마음이 사랑과 평안으로 가득 찼습니다. 예수님은 바울에게 자신을 계시하고 진정한 사랑을 보여주셨습니다. 바울이 예수님의 사랑하는 제자들을 박해할 때에도 예수님은 그를 지켜보셨지만 여전히 그를 사랑하기로 선택하셨습니다. 이것이 하나님의 사랑이고 그 사랑은 영원히 깊고 완벽하다고 느껴집니다.”

“사도 바울은 이 사랑으로 변화했습니다. 이와 같은 변화는 우리에게도 일어날 수 있습니다. 하나님의 사랑은 죄를 용서하고 새로운 삶으로 이끌어 줍니다.” 라고 그녀는 말을 이었습니다.

로마서 1부는 학생들에게 성서의 중요한 교리에 대한 심층적인 이해를 제공하기 위해 고안되었습니다. 이 강좌는 로마서 1장부터 8장까지를 다루며, 2부에서는 9장부터 16장까지를 다룹니다.

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장재형목사가 세운 올리벳대학교의 MBA 학생들은 기업가 정신에 대해 토론합니다: 위기 속에서 기회에 집중

장재형목사
올리벳대학교

장재형목사가 세운 올리벳대학교 Olivet Business School의 MBA 학생들은 전례 없는 학술 세션에서 계속해서 온라인 원격 학습에 참여하며 기업가 정신의 세계를 탐구하고 있습니다.

리버사이드, 샌프란시스코, 그리고 뉴욕 맨해튼 캠퍼스의 학생들이 Sebastian Keita 교수가 이끄는 기업가 정신 과정에 참여했습니다. 이 과정에서는 새로운 사업을 디자인하고 시작하며 운영하는 방법에 중점을 두며, 이론보다는 아이디어와 비전에 주목합니다. 학생들은 기업가 정신의 성공과 실패 사례를 조사하고 분석하여 계산된 위험 감수의 중요성을 깨닫게 됩니다. 또한, 그룹 토론과 교수와의 개별 상담을 통해 서로의 아이디어를 도전하고 배움에 대한 참여를 지속적으로 촉진합니다.

한 MBA 학생은 이러한 경험을 통해 많은 유명 창업가들의 이야기를 연구하고, 창업에 대한 욕망과 비전만으로는 성공을 보장할 수 없음을 깨달았습니다. 그는 “비전과 꿈은 중요하지만, 성공을 이루기 위해서는 인내와 기회를 찾는 끈기가 필요하다”고 말했습니다. 이러한 과정을 통해 창업가는 기회를 발견하고 개발할 수 있는 능력을 갖추며, 투자하기 전에 위험을 신중하게 평가할 수 있게 됩니다.

Olivet Business School의 MBA 프로그램은 기업가 정신을 키우고 싶은 학생들에게 혁신적이고 실용적인 교육을 제공하며, 온라인 강의를 통해 학생들의 참여와 배움을 지속적으로 촉진합니다.

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