以弗所书的全副军装 – 张大卫牧师


基督的福音与真
张大卫牧师始终强调,福音的核心人物就是耶稣基督。因为祂本身就是真理,也是我们必须牢牢抓住的生命根源,因此,对真理的信心是基督徒预备全副军装时的起点。在他对以弗所书第6章后半段“全副军装”的讲解中,首先聚焦“真理的带”,并指出:“真理就是耶稣基督本人,这是在属灵争战中使我们不致摇动的最根本基石。”假如再完备的其他装备都具备,却失去了真理,那便等同中心崩塌;没有真理的依托,信仰也无法真正稳固地站立。

张大卫牧师进而指出,福音所指向的正是耶稣基督的代赎之死与复活,对此的坚定信念才是信仰得以确立的根本动力。他强调,以弗所书里所说的“全副军装”并非装点外表的盔甲,而是坚固心思意念的属灵装备。他认为,“真理的带”就是耶稣基督的福音,并诠释道:“凡事都要以真理为带,当我们随时环抱真理,就能从不动摇的信心开始出发。”

这同一位耶稣基督所成就的福音,也成了联结旧约与新约的关键。张大卫牧师特别看重整本圣经在传达一个救赎计划,旧约里神的救恩预言,在新约中就借由耶稣基督被完全成就。因此,他再三强调,要不断“反刍”这完备的福音,通过默想与“消化”让其融入我们的生活。正如牛有多个胃、会反复咀嚼食物一样,我们也要持续不断地默想神的话语,才能使真理浸润生命,并在行动中见证出来。

他同时提醒,若只是听道却没将真理“咀嚼”进生活,很容易让那一次性的聆听在转瞬间流失。张大卫牧师认为,持续地接收并反复思想真理,并且让真理从知识层面落实到生活的各处,才构成真正的信仰旅程。这个过程并非一蹴而就,但当我们勤勉地将神的话语内化在心思意念中,逐渐就会在言行上反映基督的教导,从而在世上发挥光和盐的功效。

他也指出,一个牢牢抓住真理的人,在面对撒但的诱惑时会更为坚定。撒但的攻击手段归根结底就是散布谎言、引发怀疑,进而动摇我们身为神儿女的身份感。那种“你真的属于神吗?”的质疑最致命。甚至耶稣在旷野中所受的三大试探,也都是以“你若是神的儿子……”作开场白。对此,张大卫牧师强调,我们也要像主耶稣那样,以“经上记着说”来反击——即对“神已经在经文中写明”的深切信任。

那么,实务层面如何抓住真理?他归纳了三点。其一,要时刻将神的话语置于身边,深入默想,使之渗透并左右我们的日常生活。其二,在教会里彼此学习并教导,创造可落地应用的实际场域。其三,当我们努力实践所听见、所学习的真道时,才能真正体验到真理在我们内心开始运作的力量。毕竟真理并不只是知识,而是透过生活和行动所彰显的福音大能。

张大卫牧师常提及初代教会的殉道者:“他们为了守护福音中的真理不惜赴死,而真理也使教会延续了生命力。”因此,福音所蕴藏的真理绝对性,绝非可以含糊妥协的部分;教会巍然建立于真理之上,而耶稣基督的代赎就是这真理的核心,没有人能撼动这个根基。

归结起来,以弗所书第6章关于“全副军装”的首要之物——“真理的带”,就是属灵争战的根本基础。就好比战士若缺了腰带,整套武装都会散落;若失去真理,其他一切力量也随之消失。张大卫牧师总结道:“只有当我们坚定地握紧福音真理,才会真正经历耶稣基督的能力,并产生通往神国度的正确热情。”


仰望神的盼望
在“公义的护心镜”上,张大卫牧师将其解读为对神国度的火热渴慕。正如护心镜保护我们的心脏一样,支撑并坚固我们内在生命的力量,正源于对神国度的切切期盼。他引用耶稣所说的“为义饥渴的人有福了,因为他们必得饱足”,用以说明凡渴慕神公义和主权统治的人,在面对撒但的攻击时,不会轻易失去心中的平稳。

然而,“神的国”究竟意味着什么?张大卫牧师指出,神国同时拥有末世性的完成与当下性的实现:耶稣基督再临时,神国度将走向终极圆满;而此时此刻,凡信耶稣之人心里已经携带“现在的神国”。他引述耶稣那句话:“神的国就在你们心里”,提醒信徒,不要忽视神的主权不仅关乎过去或未来,也真实地彰显于当下生活之中。

不过,我们所经历的现况常常是在“已经与尚未”的夹缝中。借着耶稣基督,我们已经领受救恩,但救恩的完全实现和神国度的彻底完满尚在将来。于此期间,我们带着盼望向往神国,也在今生不断地努力经历神的统治。张大卫牧师进一步说明,撒但最想攻击我们的,就是这份盼望,让人陷入“前方根本毫无未来”“神的计划子虚乌有”的自我怀疑与绝望里。

因此,他将“救恩的头盔”与盼望连结起来,指出头部象征着我们“思想”的核心。倘若脑海中没有充满对神国的盼望,撒但就能以绝望和沮丧的火箭狠狠射入。他用以色列人在旷野中的例子来印证:他们心怀对埃及的思念与对神的不信,只会使旅途更加艰难;反之,当他们仰望迦南地、抓紧神的应许,就经历了神的奇妙保守与带领。

为要持守这样的盼望,张大卫牧师提出三项实践。第一,要不断借圣经反复思想、确信耶稣基督再来和永恒掌权的应许。第二,要在日常生活中顺服神的话,并经历圣灵的带领,如此才能真切体悟“神的治理实实在在临到我们”。第三,要在教会群体里,通过属灵前辈的见证和神在历史中的工作来彼此印证、互相鼓励。唯其如此,我们的盼望才会更为巩固,不致被撒但的“你没有未来”之类谎言击垮。

与此同时,他指出,“平安的鞋”就是传福音的热忱。因为福音并非引发冲突之物,而是带来和平的能力。当我们和平地宣扬福音,就能击溃人心深处的藩篱,并拓展神国度的疆界。张大卫牧师强调,唯有以温柔、谦卑与爱为根基的传福音,才是撒但最畏惧的事。毕竟福音传递了真正和平的信息,而那些愿意不断前行、用行动为这和平之道开路的人,撒但也难以轻易撼动。

他还引用罗马书14章17节“神的国不在乎吃喝,只在乎公义、和平并圣灵中的喜乐”,补充说:“只要心中有对神国度的盼望,不论情势多么艰困,都能唱出喜乐的赞歌。”他将此和以色列人进入迦南地作比较:纵使旷野道路漫长而崎岖,他们终究没有放弃对应许之地的渴慕,最终见证了应许的实现。同理,若当代教会谨记这段历史,就能在再黑暗的社会处境下也不至绝望,并继续不断迈进。


信心的盾牌试炼问题
以弗所书6章16节提及“信心的盾牌”,张大卫牧师解读道,这能抵御撒但所发射的各种“火箭”。这些火箭千姿百态:疑惑、诱惑、身份危机、绝望、甚至人际冲突,但目的始终如一:动摇我们的“信心”,使我们放弃自己是神儿女的身份。

在他看来,与其说信心的对立面是“不信”,不如说是“在怀疑与谎言前动摇不定”的状态。就像当年的亚当与夏娃,稍一陷入撒但“神若真好,为什么不让你们吃这果子?”的疑问,就踏向了犯罪之路。同样,撒但在现代社会里也不断发问:“神真的爱你吗?”“你当真是神的儿女吗?”来动摇我们。

怎样抵挡这样的疑问?张大卫牧师提出两项核心武器。第一,“经上记着说”的确据。正如耶稣在旷野面对试探时,一次次使用“经上记着说”来反击,对圣经话语的稳固信赖是破除谎言与怀疑的关键。第二,对“我们乃神儿女”的身份确据必须坚定不移。就像耶稣所受的试探“你若是神的儿子”那样,撒但总是从动摇身份认同处下手;但只要我们明白自己已重生为神儿女,这就成了一道坚实防线,让撒但无从突破。

同时,张大卫牧师也补充,试炼反而能成为信心成长的催化剂。在生活的诸多挑战中,我们往往更被迫投身祷告,也更渴慕神的话语。他常引用大卫与歌利亚的故事:大卫坚信“争战在乎耶和华”,面对身材高大的歌利亚并不畏惧,只凭弹弓与石子就胜过了对方。撒但想让我们专注于巨人之庞大,但有信心的人却把眼光放在神的绝对主权上,从而不再害怕。

然而,这种信心并非天生具备。张大卫牧师以自己的信仰经历为例:起初遇到小小的难题就惶恐不安,但随着读经与祷告持续累积,并在教会群体的分享与鼓励中不断成长,过去难以应付的问题也不再显得可怕。这清楚说明,信心是在研读神的话、祷告和肢体互相扶持中慢慢壮大的。

他也强调,遭遇试炼时,更需要教会共同体。若将自己孤立,很容易被撒但的火箭击中;但只要彼此确认“你是神的儿女”的真理,并彼此代祷,信心的盾牌就会更加牢固。信心一旦坚固,不只用来防守,也能推进整体战线。就像在战场上,盾牌不仅挡住敌方箭矢,也能保护军阵稳步前进。有了信心,我们不仅能避开撒但的攻击,更能积极投入福音事工和教会拓展。


圣灵全副装的
在以弗所书6章列举的装备中,“圣灵的宝剑,就是神的道”被张大卫牧师视为重中之重。他提到,前面的装备多为防御性,而唯有“圣灵的宝剑”能够在属灵战争中主动制胜。但这把剑并不是单纯的学识或头脑知识,唯有在圣灵引导下,能在具体时空中被宣告与运用,才具备真正的犀利穿透力。

他指出,要运用“圣灵的宝剑”,需注意三点。其一,对圣灵引导要保持敏锐。当我们每天读经、默想、祷告时,若某段经文或真理特别触动或提醒了我们,就该立刻顺服并付诸实践,宝剑才得以“活”起来。其二,动机必须出自“爱”。若错误地使用经文,可能演变成对别人的定罪与伤害;但若以主耶稣彰显的爱为根基,神的话则会成为医治与带来悔改的“生命之剑”。其三,需要透过祷告和日常操练来熟悉神的话。就如士兵即便拥有利器,却不知如何使用,也于事无补;基督徒同样需要在小组、教会里共享领受,并以祷告反复操练,才能使宝剑更显威力。

张大卫牧师常引用希伯来书4章12节“神的道是活泼的,是有功效的,比一切两刃的剑更锋利……”说明圣灵宝剑的特性:它会先刺透我们自己,使我们生出悔改和洁净。若不先被神的话对付,却拿着“神的话”去随意指责别人,可能只会让这把剑变成“属灵暴力”之刀,无法带来真正的生命更新。所以唯有先省察与悔改,才能让圣灵的宝剑在我们手中释放真正的亮光。

归纳来说,张大卫牧师认为,全副军装里的每一项都需彼此协调:真理的带、公义的护心镜、平安的鞋、信心的盾牌、救恩的头盔,以及圣灵的宝剑,当中若有一环松缺,整体平衡就会受到影响。比如,信心的盾牌再牢固,若失去救恩的头盔而不再拥有盼望,头部仍会遭到致命一击;明白真理,却失去对公义的热切渴望,也容易变得无力软弱。

为帮助信徒在实际生活中穿戴全副军装,他提出三点操练:第一,每日固定留出祷告时间。在敬拜与默想中聆听圣灵声音,并学习顺服带领。第二,将读经由“背诵”扩展到“实践”,哪怕记住一节经文,也要在生活情境中拿来运用。第三,在群体中分享胜过诱惑的见证。例如“今天我遇到什么考验?我是如何用神的话去胜过?”彼此检视,便能确证我们的全副军装是否正发挥效能。

另外,他常把哥林多前书13章13节“如今常存的有信、有望、有爱”与全副军装联结:信心的盾牌(信),救恩的头盔(望),以及公义的护心镜与传福音的热心(爱),若能维持平衡,就不易为撒但的谎言所动摇。他提到,耶稣在世时医治病人、接纳罪人、并以十字架之爱饶恕仇敌,这一切都成为“圣灵宝剑”最有力的彰显,击溃了撒但。也因此,最强大的武器乃是真理、爱与圣灵的工作。

同时,他再次提醒,全副军装并非华丽的外在,而是每日在心思与意念上进行的属灵争战:对抗各式诱惑、谎言、还有绝望。保罗在以弗所书6章结尾吩咐“要靠着圣灵,多方祷告祈求”,正是宣示了唯有不断的警醒祷告,才能使这全套军装持续保持威力。透过祷告,我们更能感受圣灵同在,也能即时地运用神的话来面对新的试炼和挑战。

谈及现代教会时,张大卫牧师强调,这场属灵战争是教会群体一同面对的。正如保罗请信徒们“为我祈求”,唯有彼此代祷与鼓励,个人与整个教会才会同得在属灵争战中的胜利。

在信息的最后,他总结:“穿戴全副军装的生活,正是天天效法基督的生活。”耶稣在地上经历各样试探、仇敌攻击,甚至十字架之苦,但祂靠真理与爱得胜,并在十字架上完成了救赎。我们若与耶稣一同走这条路,也许世人并不理解,甚至嗤笑,但神的国会藉着教会持续扩张,并带领更多人归向福音。

此外,张大卫牧师也提及以弗所书6章末尾保罗举到的推基古之事。他认为若没有“推基古”这样可靠的同工,保罗纵有宝贵的属灵见解和深邃的福音内涵,也难免无法顺畅地传递给众教会。因为教会绝非单打独斗的个人组合,而是彼此配搭、携手共行的群体,需要在各处兴起更多像推基古般能传递并连接福音的伙伴。

总体而言,张大卫牧师透过以弗所书6章传递的信息核心可归纳为:“紧紧抓住真理,把目光投向神国的盼望,以坚固的信心胜过试炼,并在圣灵大能下勇敢传扬福音。”所有这些都不是单靠个人就能成就,必须倚赖在教会团体中彼此建造、同工前进。他亦嘱咐我们“不要只看现实,而要仰望永恒,并且将这永恒盼望反映在当下”。当我们自觉被现世的艰难困住时,若抬头观望属灵的实况,就会发现藉着耶稣基督的死与复活,胜利早已被宣告了。

张大卫牧师也常以“要更加警醒预备”来提醒教会。若教会在等候主再来的旅程中,专注在圣灵里追求圣洁与爱,世界就能透过教会看见盼望。而我们在属灵争战中所收获的胜利,也会在把生命带给他人、并将荣耀归于神的丰硕果实中得到印证。

随后,他再次提到“唯独恩典、唯独信心、唯独圣经”这三大宗教改革的口号,表明这是其事工的根基所在。他强调,我们得救全凭神的恩典,能握住这恩典的途径是信心,而这信心的准则则唯有圣经可作衡量。当这三者都稳固不移,属灵争战的胜利就更加确实。

最后,张大卫牧师将以弗所书6章的异象与今日教会相衔接,呼吁:“穿戴全副军装并不只是关乎个人灵修,更意味着整个教会要彼此扶持、互相激励,同时走进社会。也许前方荆棘重重,但走到终点时,必能见到迎接我们的主,也将领受祂的嘉许。”

换言之,以弗所书6章的主旨在于:所有让我们惧怕的谎言与绝望,都已被耶稣的十字架与复活彻底摧毁;披戴全副军装的神子民,断不会在属灵争战中败退。有了这份确信,人们能在教会里真正经历基督的爱与恩典,并在圣灵助力下成为新造的人。

张大卫牧师以一句话结束:“不管世界多邪恶,只要还有一群人穿戴全副军装、以爱和盼望并信心武装自己,教会就仍有盼望之火在燃烧。”只要我们彼此相爱、并肩而行,神就必借着教会施行大能,让更多灵魂走向救恩。对于他而言,这也是保罗在以弗所书6章里向我们展现的“救恩宏图”在当代的再次实现。

当然,他也坦言,这条道路绝不轻松;守住真理、传扬福音、抵挡世界的诱惑,往往需要牺牲和付出。但回顾教会史与圣经所载,我们深知,那些付出终将被神更新并转化为荣耀。正如张大卫牧师始终所教导的:“要为神的国而战,却要用爱的方式去战,并且在真理中谦卑前行。”

由此可见,以弗所书6章所贯穿的“全副军装”精神,让我们再次回到福音永恒不变的核心:在真理上站稳脚跟,仰望神的国,以信心抵挡试炼,并执起圣灵的宝剑大胆往前。只要教会这样全副装备,任何黑暗都终将被击退。而这最终也会在日常生活、教会历史,以及世界的转变中结出果实。张大卫牧师相信,这一切唯有依靠神的恩典方能成就。若人开始自满或自诩伟大,那全副军装必在不知不觉间松动脱落。只有天天回到十字架前省察己身、仰赖圣灵的能力、持守神的话,我们才不会被任何考验所撼动。如此一来,教会在群体合一中逐渐成长,才是神所盼望、真正具备属天生命力的群体。

诚然,我们所处之地确是一片属灵战场,但因耶稣基督的受死与复活,胜局早已注定。当我们全然披戴这全副军装,就能毫无惧色地奔走天路。张大卫牧师常以“只要有人肯以爱、盼望和信心来武装自己,教会就能在属灵争战中生生不息,并传扬神国”来结束信息。如今,我们仍处在这场属灵战役的中心,但只要与教会共同前行,就能期待那日站在主面前受祂称许——这是他信息的最深盼望。愿我们也继续向前迈步,等待那荣耀一天的到来。

エペソ書の「全身の武具」―張ダビデ牧師


イエスキリストの福音と

張ダビデ牧師は、福音の核心とはイエス・キリストご自身であることを、常に力強く説き続けてきた。イエス・キリストこそが真理そのものであり、私たちがつかむべき命の源泉であるゆえ、真理への信仰こそがクリスチャンが「全身の武具」を備える第一歩だと力説する。エペソ書6章の後半で詳述される「全身の武具」のなかで、最初に登場する「真理の帯」について、彼は「真理とはイエス・キリストその方にほかならず、霊的戦いの土台を揺るがぬものにする最重要要素だ」と説明する。どれほど他の武器や防具を備えていても、真理を失えば中心から崩れてしまうため、真理なしには信仰が確固たるものとして立ち得ないのだと指摘している。

張ダビデ牧師によると、福音とはイエス・キリストの代償的な死と復活を指し示し、これに対する揺るぎない確信こそが信仰の根幹を築く力となる。エペソ書が述べる「全身の武具」は、単なる外面的な飾りではなく、心と思考を堅固に守るための霊的な武装である。彼は「真理の帯」をイエス・キリストの福音だと位置づけ、「常に真理を身につけることこそが、揺るぎない信仰の出発点になる」と力を込める。

こうしたイエス・キリストにおいて完成された福音は、旧約と新約を貫く鍵だとも言える。張ダビデ牧師は、旧約と新約の統一性、すなわち聖書全体が証しする救済史の計画に注目する。旧約で預言された神の救いが、新約においてイエス・キリストによって完成するからにほかならない。ゆえに、この完成された福音を繰り返し“反すう”しながら黙想し、自らの生活の中で体得することが重要だと説く。彼はよく「牛が複数の胃袋で何度も反すうするように、御言葉も繰り返し黙想するとき、私たちの血肉となって行動にまで及ぶ」という比喩を持ち出す。

さらに張ダビデ牧師は、御言葉をいくら聞いても十分に消化されないまま流してしまう態度を警戒する。真理を絶えず受け取り続け、反すうしていくことで、単なる知識ではなく実際の行動に落とし込む作業こそが信仰だというのだ。こうしたプロセスは一朝一夕には完成しないが、日々たゆまず御言葉を咀嚼していくなら、私たちの思考や言動は徐々にイエス・キリストの教えを映し出し、世にあって光と塩の役割を担い始める。

また牧師は、真理を確かに握る者こそサタンの誘惑にも動じないと語る。というのも、サタンの攻撃は、偽りや疑念を駆り立てて私たちの信仰の根を揺さぶることに本質があるからだ。とりわけ「あなたは本当に神の子どもなのか?」とアイデンティティを根本から揺さぶる問いは極めて致命的だという。イエスでさえ荒野での試練において「もしあなたが神の子なら…」という挑発を受けたが、イエスは「『聖書にこう書いてある』」と御言葉によって打ち破られた。私たちも同様に、“記されている御言葉”への絶対的な信頼が不可欠なのだと、張ダビデ牧師は繰り返し主張する。

では実際に、どうすれば真理を握ることができるのか。彼は三つのステップを提案する。第一に、御言葉を常に手元に置いて深く黙想し、それが生活の隅々にまで浸透するように努めること。第二に、教会共同体で互いに学び合い、教え合い、具体的な応用の場を備えること。第三に、学び得た御言葉を実際に生きようともがくとき、初めて真理が私たちの内に力強く働くのを体験する、というのである。最終的に、真理は頭で理解するだけの知識ではなく、生活と行いを通して明らかになる福音の力なのだ。

張ダビデ牧師は、初代教会の殉教者たちをよく例に挙げる。「多くの人々が、福音に秘められた真理を守るために命を懸け、その真理が教会に命を与え続けた」というのである。こうした福音の真理の絶対性は、あいまいに妥協できるものではない。教会は真理の上に立っており、イエス・キリストの代償こそがその真理の核心である以上、誰もその柱を揺るがすことはできないのだ。

ゆえに、エペソ書6章が語る「真理の帯」は全身の武具の基礎にあたる。兵士がベルトを締めていなければ装備がずれてしまうように、真理を失えばすべてが無力化してしまう。張ダビデ牧師は「福音の真理をしっかり握っているときこそ、イエス・キリストの力を体験し、神の国へと向かう正しい情熱が燃え上がる」と繰り返し強調する。


神のを見つめる希望

張ダビデ牧師は、「義の胸当て」を神の国への熱い情熱だと捉えている。胸当てが心臓を守るように、私たちの内面と心を堅固に保つ源泉は、神の国に対する切なる渇望にあるからだ。イエスが「義に飢え渇く者は幸いだ。その人は満たされる」と語られたように、神の正義と支配を渇望する者は、サタンの攻撃の前でも簡単に中心を失わない。

では神の国は具体的に何を意味するのか。張ダビデ牧師は、神の国が終末的意味と同時に現在的意味も持つと語る。つまり、イエス・キリストの再臨によって完成する“未来の神の国”と、すでにイエス・キリストを信じる人々に臨んでいる“現在の神の国”が同時に存在しているというわけだ。「神の国はあなたがたのただ中にある」というイエスの言葉を例に挙げ、神の支配は過去や未来だけの事柄ではなく、今の時点でも実現していることを忘れるべきではないと強く促す。

しかし、私たちが生きる現実は「すでに」と「まだ」の狭間だと牧師は説明する。イエス・キリストによって救われたが、その救いと神の国の完成は将来に属しているという緊張感を伴う。「まだ」来ない完璧な神の国を待ち望みつつ、私たちは今の時代にあっても神の治めを実際に経験しようと努めなければならない。こうした希望があるからこそ、サタンは「おまえたちの未来には何もない」「神の計画など存在しない」と絶望へ誘おうと画策するのだ。

この点で「救いのかぶと」は希望と深く結びついている。頭(思考)が神の国への希望で満たされていなければ、サタンはいくらでも絶望や落胆の火矢を放ち、私たちの思いを貫いてくる。エジプトを脱出したイスラエルの民の例を出し、彼らが荒野で何度もエジプトを恋しがり、不平不信に陥ったときに道が困難になったと指摘する。逆に、カナンの地を見据えて神の契約に立ったときには、神の奇跡的な守りと導きが共にあったのだ。

張ダビデ牧師は、希望を固く握るための具体策を三つにまとめる。第一に、イエス・キリストの再臨と永遠の支配に関する聖書の約束を、常に学び思い起こすこと。第二に、日常生活のなかで御言葉に従い、聖霊の導きを味わうことで「神の支配が今ここにも及んでいる」ことを体験的に知ること。第三に、教会共同体で先達の証しや歴史上の神の働きを確かめ合い、互いに励ますことである。こうして希望が強められると、サタンがどれだけ「おまえには未来などない」と嘯いても、そう簡単には揺さぶられなくなるのだ。

さらに牧師は、「平和の備え」の履物は、福音を伝えようとする情熱だと解釈する。福音は争いではなく平和をもたらす力であり、平和的に福音を伝えていく働きこそが、世の壁を打ち崩し神の国を広げていくと語る。張ダビデ牧師は、柔和や謙遜、そして愛に根差す福音伝道こそ、サタンが最も恐れる活動であると力説する。結局のところ、福音は真の平和をもたらすメッセージであり、この平和を届けようと絶えず動く者たちを、サタンは容易に打ち破れないのだ。

また、ローマ書14章17節の「神の国は飲み食いのことではなく、聖霊による義と平和と喜びなのだ」という言葉を引用し、張ダビデ牧師は「神の国に希望を置く者は、いかなる状況でも落胆せず、むしろ賛美の歌を口ずさむことができる」と断言する。これはイスラエルのカナン入植に当てはめるならば、荒野がどれほど長く厳しくとも、最後まで約束の地を目指した結果としてその実現を見たのだという解釈である。もし現代の教会がこの歴史を心に留めるなら、社会がいかに暗く見えても、絶望せず前進を続けられるというわけだ。


信仰の盾と試みの問題

エペソ書6章16節の「信仰の盾」について、張ダビデ牧師は、あらゆる“火矢”から私たちを守る究極の防御策だと説明する。サタンの火矢は疑い、誘惑、アイデンティティの揺らぎ、絶望、人間関係の亀裂などさまざまだが、その最終目標は「信仰」を損ない、神の子どもというアイデンティティを投げ捨てさせることにある。

彼によれば、信仰の反対語は「不信」ではなく、むしろ「疑いと偽りに容易に翻弄される状態」である。アダムとエバがサタンの嘘に惑わされ、「神が本当に善いお方なら、なぜこの実を食べることを禁じたのだろう?」という疑いに陥ったとき、彼らは罪を犯すに至った。同じように現代社会でもサタンは絶えず「神は本当にあなたを愛しているのか?」「あなたは本当に神の子どもなのか?」と問いかけ、その結果私たちを罪に引き込もうとするのだ。

こうした疑いに対抗する武器は何か。張ダビデ牧師は、まず第一に「『書かれてある』という御言葉の確かさ」だと説く。イエスが荒野での試練で一つひとつの誘惑に対し「書かれている」と聖書を引用して退けたように、記された御言葉への堅固な信頼が、疑いと偽りを退ける最大の武器になるという。第二に、「私たちは神の子どもだ」というアイデンティティの確信だ。イエスが受けられた試練が「もし神の子なら…」という前置きで始まったように、サタンは私たちのアイデンティティを揺るがすことに最大の力を注ぐ。だが、私たちが新生した神の子であるという事実を確信していれば、サタンはその隙間に入り込むことができないのだ。

さらに張ダビデ牧師は、試みそのものが信仰を成長させる機会にもなり得ると説く。困難や誘惑は、私たちにより深い祈りと御言葉の必要性を気づかせるからだ。彼が挙げる代表的な例がダビデとゴリアテである。ダビデは「戦いは主に属する」と強く信じていたがゆえに、ゴリアテという大きな脅威を前にしても揺るがず、投石器一つで勝利を得た。サタンは私たちの目をゴリアテの巨大さに注がせようとするが、信仰者は「神の絶対主権」を見上げるので恐れが消えていくのだ。

ただし、このような信仰は勝手に育つわけではない。張ダビデ牧師は、自身の信仰の歩みを振り返り、はじめは些細なことにも不安を覚えたが、次第に御言葉を握りしめ、祈りの経験を重ねるうちに、かつては手に負えなかった問題さえ大きく感じなくなったと証しする。それは、信仰が御言葉と祈り、そして共同体での分かち合いを通して少しずつ強められることを端的に示している。

また試みの時こそ共同体の重要性が増すとも彼は言う。独りで孤立していては火矢の攻撃を防ぎきれないからだ。互いに「あなたは神の子だ」と真理を確認し合い、祈り合うとき、信仰の盾はさらに厚みを増す。信仰が強くなるほど、受け身の防御に終わらず前進することも可能になる。実際の戦場で盾は防御だけでなく、隊列を安全に移動させて敵陣へ踏み込む助けにもなる。信仰があればサタンの矢を回避するだけではなく、福音宣教や教会の成長へ主体的に歩み出すことができるのだ。


と「全身の武具」にする実践

最後に、エペソ書6章で言及される「聖霊の剣、すなわち神の言葉」について、張ダビデ牧師は特に強調する。先に挙げられた武具が主に防御的役割を果たすとすれば、聖霊の剣は霊的戦いにおいて能動的に敵を打ち破る攻撃の武器であり、しかし単なる知識ではなく、聖霊の光のもとで適切に宣言し、適用されてこそ真価を発揮するという。

彼は、この聖霊の剣を正しく扱うための条件を三つ示す。第一に、聖霊の導きに常に敏感であること。日ごとに御言葉を読み黙想するなかで、聖霊が心に刺さる箇所を示されたとき、すぐに従い実行するとき、剣は生きて働くのだ。第二に、動機が「愛」でなければならないこと。御言葉の適用を誤れば、他人を裁き、傷つける刃になりかねない。しかし、主が示された愛を根拠に適用するなら、それは傷ついた者を癒やし、悔い改めへと導く「命の剣」となる。第三に、祈りと訓練を通して御言葉を習得すること。兵士がいくら良い剣を持っていても扱い方を知らなければ無意味であるように、私たちも御言葉を学び、共同体で共有し、祈りによって準備するとき、剣の効力が何倍にもなるというわけだ。

張ダビデ牧師は、ヘブライ書4章12節「神の言葉は生きていて力があり、両刃の剣よりも鋭い…」という聖句こそ、聖霊の剣をよく物語ると語る。この剣はまず私たち自身の内側を刺し、悔い改めと清めを促す。自分が御言葉に取り扱われないまま、ただ「聖書」という名の刃を振りかざせば、それは魂を生かすどころか暴力的な剣にもなりうる。ゆえに、聖霊の剣はまず自己吟味と悔い改めを経てこそ、真に光を放つのだ。

結局、全身の武具はこれらすべての要素が一体となって機能すべきだ、と牧師は強調する。真理の帯、義の胸当て、平和の靴、信仰の盾、救いのかぶと、そして聖霊の剣――どれか一つでも欠けるとバランスが崩れる。たとえばどれほど信仰の盾が硬くても、救いのかぶとを被らず希望を失えば、頭が致命傷を負いかねない。真理を知っていても、義を求める情熱が冷めてしまえば、霊的戦いにおいて無力化するのは時間の問題なのだ。

具体的な実践として、張ダビデ牧師は三つの霊的訓練を勧める。第一に、毎日定めた時間を祈りに集中すること。賛美と御言葉の黙想を通じて聖霊の声に耳を澄まし、その導きに応答しようとする姿勢が重要だ。第二に、聖書を「暗記」にとどめず、実際の行動に適用するところまで進むこと。一日一節でも状況に応じて思い起こし、実践する訓練をする。第三に、共同体の中で証しやフィードバックを互いに交わすことである。「今日、どのような誘惑に直面し、どう御言葉で勝利したのか」を共有し合うことで、全身の武具が正しく作用しているかを確認できるのだ。

張ダビデ牧師は、ときにコリント第一の手紙13章13節「信仰と希望と愛、この三つはいつまでも残る」を全身の武具と結びつけて読み解く。信仰の盾(信仰)、救いのかぶと(希望)、さらに義の胸当てと福音伝道の情熱(愛)がバランスよく働くとき、サタンの偽りに簡単には動揺しない。イエス・キリストがこの地上で病める者を癒やし、罪人を受け入れ、十字架で敵を赦されたとき、それはまさに聖霊の剣が力を発揮し、サタンを打ち破る出来事だったとも言えよう。最も強力な武器は真理と愛、そして聖霊の働きなのだと彼は繰り返す。

また、張ダビデ牧師は「全身の武具」は決して華美な外面の装いではないと改めて思い起こさせる。霊的戦いは現世での派手な争いではなく、日々の生活の中で繰り広げられる誘惑と偽り、そして絶望との闘いである。そしてパウロが最後に「すべての祈りと願いをもって、常に祈りなさい」と勧めているとおり、目を覚ました祈りこそが、この全身の武具を常に機能させる要だ。祈りによって聖霊の導きがより鮮明になり、その都度御言葉を適用でき、新たな試みが訪れてもすぐ対応が可能となる。

現代の教会に対して、張ダビデ牧師が強調するのは、この霊的戦いを教会共同体が共に担うべきだという点である。パウロが「私のためにも祈ってほしい」と願ったように、互いのための取りなしと励ましによって、教会全体が霊的な勝利を分かち合うことができる。

メッセージの終盤で彼は、「全身の武具を身にまとう生き方は、日々イエス・キリストを倣う道に他ならない」とまとめる。イエスは地上であらゆる試みや敵対にさらされ、十字架の苦難を通されたが、真理と愛で最終的に勝利され、十字架によって救いを成就された。私たちがその道を共に歩むなら、世が理解せず嘲笑することはあっても、神の国は教会を通して拡大し、多くの魂が福音へと導かれると彼は言う。

続いて張ダビデ牧師は、エペソ書6章の最後でパウロがトゥキコに言及するくだりを取り上げる。「もしトゥキコのような同労者がいなければ、パウロの高邁な思想や福音の核心は教会へと正しく伝わらなかったかもしれない」と。教会は一人ではなく共同体で歩む場であり、福音をつなぐ“トゥキコ”的な存在が各所に育まれる必要があるというのだ。

要するに、張ダビデ牧師がエペソ書6章から語る中心メッセージは、「真理の中心をしっかり握りつつ、神の国を望み、信仰をもって試練に打ち勝ち、聖霊の力によって大胆に福音を宣べ伝えよう」ということに尽きる。しかもこれは、一人で完結できるものではなく、教会全体が互いに助け合い、支え合いながら進むべき道である。そして彼は「目先の現実に振り回されるのではなく、永遠を見つめ、その希望を今このときに適用していこう」と繰り返し呼びかける。どんなに状況が重苦しく見えても、霊的視点を上げるなら、すでに勝利が保障された戦いだと悟ることができるからだ。

張ダビデ牧師は、この実現のために「目を覚ましてさらに備えよ」という言葉をしばしば引用する。教会が主の再臨を待ち望みながら、聖霊のうちに聖さと愛を追い求めるとき、世の人々は教会を通して希望を見いだすだろうと確信しているのである。そして、そのような道を歩むとき、霊的戦いで私たちが得る勝利は、人々に命を届け、神に栄光をお返しする豊かな実りとして結ばれるという。

さらに彼は、「唯一恩恵(Sola Gratia)、唯一信仰(Sola Fide)、唯一聖書(Sola Scriptura)」という宗教改革のモットーが、自らの宣教の根幹にあることを改めて明言する。人間のいかなる功績でもなく、ただ神の全的な恵みによって救われ、その恵みをつかむのは信仰のみであり、その信仰の基準はただ聖書のみだという確信こそが、霊的戦いでの勝利を動かぬものにするというのである。

最後に張ダビデ牧師は、エペソ書6章のビジョンと今日の教会を結びつける。全身の武具をまとうのは、単に個人の敬虔さにとどまらず、教会共同体が一致して互いに励ましながら前へと進むことを意味するのだ。「互いに祈り合い、愛をもって仕え、御言葉を握って世に出るなら、たとえ道が茨に覆われていようとも、その先で私たちを待つのは主ご自身であり、そのお声を聞くことになる」と彼は力づける。

結局、エペソ書6章の要旨は、私たちを脅かすどんな偽りや絶望も、十字架と復活を通してすでに打ち砕かれ、全身の武具をまとった神の民はこの霊的戦いに決して敗れることはないという点にある。この確信があるゆえに、人々は教会でイエス・キリストの十字架の愛に触れ、聖霊の働きによって新しい被造物へと変えられるのだと彼は強調する。

張ダビデ牧師は説教の最後にこう呼びかける。「どれほど世が悪いと嘆かれても、『全身の武具』を着けて戦う教会があるかぎり、希望は決して失われません」。私たちが全身の武具の一つひとつを正しく身につけ、互いに愛をもって進むとき、神は教会を通して大いなる御業を行い、多くの魂を救いの道へと導かれると彼は堅く信じている。そしてこれこそが、パウロが示した「救いのドラマ」を私たちの時代に再び映し出す道だというのだ。

とはいえ彼は、この過程が平坦ではないとも率直に言う。真理を守り福音を広め、世の誘惑に打ち勝つなかで、献身と犠牲が不可欠であることは歴史が示している。しかし、教会史や聖書の物語に見られるように、その犠牲はやがて栄光へと結実すると私たちは知っている。だからこそ、「神の国のために戦うとしても、愛のやり方で戦い、真理のうちにへりくだって歩みなさい」というのが、張ダビデ牧師の一貫したメッセージなのである。

こうしてエペソ書6章に流れる「全身の武具」の精神は、初代から現代に至るまで変わらぬ福音の本質を思い起こさせる。真理に堅く立ち、神の国を見つめ、信仰をもって試練を克服し、聖霊の剣を携えて進む教会に対して、いかなる闇も最終的には勝利を収められない。そうして結ばれる実は、日常や教会の歩み、社会の変革という形で顕在化していくのだと、彼は確信を新たにし続ける。

そして張ダビデ牧師は最後に、「すべては“ただ恵みによって”のみ実現する」と強調する。もし私たちが少しでも高慢になり、自分の力を過信するならば、全身の武具はいつの間にか外れてしまう。日々十字架の前で自分を省みながら、聖霊の力を仰ぎ、御言葉を握る者こそが、どんな試練にも動じない大胆さを得る。そしてそのようにして互いに成熟していく教会こそ、神が心から望まれる真の信仰共同体なのだ、と結論づける。

結局、私たちがいるこの地上はたしかに霊的戦場であるが、イエス・キリストの死と復活によって勝利が既に確定している戦いでもある。私たちが全身の武具をしっかりまとい、恐れず進んでいくなら、そこには神の国の勝利が明確に示されるだろう。張ダビデ牧師は「愛と希望、そして信仰に満たされて武装した人々がいるかぎり、教会は生き生きと神の国を宣言し、拡張し続ける」と繰り返し説きながら説教を締めくくる。いま私たちはこの霊的戦いの只中を歩んでいるが、共に前進する教会とともに主の前に立つその日を思いつつ、一歩一歩を踏み出そうというメッセージこそが、彼の中心的な思想なのである。