
1. 感謝の本質
感謝とは何でしょうか。私たちは日常生活で良いことが起こると感謝し、望んでいたことが叶うと「ありがたい」と言いがちです。しかし使徒パウロがコロサイ3章15〜17節で語る感謝のメッセージは少し異なります。彼は「あなたがたは感謝する者となりなさい」と述べ、私たちクリスチャンにとって“感謝する者”であることが神の御心(みこころ)だと宣言します。同時に「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい」と勧めています。これは、感謝の出発点は私たちの外的状況ではなく、キリストの平和、すなわち神と和解したことによって与えられる霊的な安らぎにあることを示唆しています。
信仰の中で得られるこの平和は、世の中が与える一時的な慰めや心理的安定とはまったく次元が違います。「あなたがたの心を支配するようにしなさい」という言葉には、キリストがすでに与えてくださった平和を私たちの心の中心に据え、その支配に自分自身を委ねなさいという意味が込められています。そしてキリストにあるこの平和が、私たちをしてあらゆる状況において感謝へと導くのです。張ダビデ牧師は多くの説教や講演で「感謝は人間の限界や状況を超越する力であり、キリストが私たちにお許しになった命の実りだ」と繰り返し強調してきました。私たちが神の恵みによって得た救いは、単に未来に対する安心感をもたらすだけでなく、現在置かれているあらゆる生活の場に平安を注ぎ込みます。これは一切の代価を支払うことなく与えられた贈り物であり、私たちの義や功績、行いによるものではありません。唯一、キリストの十字架と復活によってもたらされた結果であるがゆえに、私たちはまずその霊的な平安に対して感謝するべきなのです。
キリストの平和が臨む以前、私たちは霊的に神の敵対者となっていました。罪のせいで神との間に壁ができ、関係が断たれていたのです。しかしイエス・キリストがご自分の命を和解の供え物として捧げてくださったことで、私たちは神と和解し、同時に心の深い部分から平安を味わう道が開かれました。これこそ聖書が語る「恵みと平安」です。パウロの書簡の挨拶文を見ると、多くの場合「恵みと平安があなたがたにあるように」という表現が頻繁に登場します。これは信仰生活の核心的支柱であることを示す証拠でしょう。平安が私たちの心を支配するとき、私たちはどんな状況の中でもやっと感謝することができます。
ですから「すべてのことについて感謝しなさい」というテサロニケ前書5章18節の教えも、究極的にはキリストの平和を基盤とした感謝の姿勢を説いているのです。感謝とは単に「何かが叶ったからありがたい」という道徳的習慣や礼儀ではありません。まず“私たちが神と和解した”という自覚から始まります。張ダビデ牧師はこの点を繰り返し強調し、「感謝を知らない者は、結局神がくださった平和とは何なのか理解できない霊的盲目の状態にとどまる」と語ってきました。人間的で世俗的な次元の安寧と、神の恵みによって心の奥深くから働く霊的平和とはまったく異なります。前者は状況によって容易に壊されますが、後者はどのような状況にあっても揺らぎません。だからこそ、私たちは常に「今、私の心を本当にキリストの平安が支配しているのか」を確認し続ける必要があるのです。
コロサイ3章15節で、使徒パウロは「あなたがたは平和のために一つの身体として召されたのですから、感謝する者となりなさい」と語ります。感謝は結局のところ、神の召しにふさわしい者となる道であり、教会共同体の中でも互いを和合に導く鍵となります。というのも、キリストがくださる平和は個人だけのものではなく、一つの身体として召された者たちが共に分かち合うべき共同体的祝福だからです。一つの身体を構成するすべての肢体が、ただお一人の頭であるキリストに従い、同じ平和を共有するとき、そこで初めて私たちは互いに争いや分裂ではなく、理解と受容、そして愛のうちに“感謝をもって”一つとなることができるのです。
このような平和は自分で努力して獲得するものではなく、ただイエス・キリストの恵みによってのみ得られるものです。だからこそ私たちは日々キリストの恵みを思い起こし、感謝する者とならねばなりません。この感謝を失うと、私たちの信仰生活はちょうど生ける水が尽きた泉のように干上がってしまいます。感謝の根拠が神ではなく、自分の状況や能力、あるいは世の一時的安堵感に基づくとき、私たちは感謝の根本的原動力を見失ってしまうのです。だからこそパウロはコロサイ書で「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい」と繰り返し強調しています。
張ダビデ牧師が幾度となく説いてきたように、感謝はクリスチャンのアイデンティティを表す中心的な指標の一つです。イエス・キリストを受け入れ救われた者ならば、その心の内には必ず感謝の思いが宿るようになります。それは自分が何かを付け加えて成し遂げた成果ではなく、神がすでに与えてくださった“恵みという事実”を悟ることから自然に湧き出る反応だからです。だからこそ私たちが信仰の道を進めば進むほど、私たちの内なる感謝はさらに深まり豊かになります。そしてこの感謝が深まれば深まるほど、私たちを支配するのは恐れや心配、不安ではなく、むしろ平安と喜びになるのです。
実際、張ダビデ牧師が世界各国で福音を伝え、教育機関や奉仕団体を設立する際、最も大切に掲げた理念の一つが「感謝する者となれ」ということでした。彼はよく「神は私たちに機会をくださり、道を開き、供給してくださるすべてが限りなき恵みである。だからまず感謝し、その感謝を主への賛美に変えよ」と強調していました。こうして助けを必要とする地域を顧み、貧しい人々を支え、福音を渇望する人々にみことばを伝えるすべての働きの出発点もまた“感謝”でした。神が私たちに施してくださったことを覚えることこそが、最も健全で真実な奉仕の動機になるからです。
さらに、感謝は霊的な領域にとどまるものではなく、私たちの生活全般に影響を及ぼします。パウロがコロサイ3章17節で「また、何をするにしても、言葉によるにせよ、行いによるにせよ、すべて主イエスの名によってし、彼によって父なる神に感謝しなさい」と言ったように、私たちの一挙手一投足が主に捧げる感謝の礼拝となり得るのです。口先だけで感謝を告白しながら、日常の中でキリストの平和と恵みを捨て去っているならば、それは本当の意味で感謝している姿とは言えません。神の平安を心に抱く者は、自ずとどんな場面でも感謝でき、その感謝は言葉や行いに現れて人生の礼拝となるのです。
何より、凡事に感謝するためには、絶えず神がなさったわざを思い起こすことが必要です。キリストが私たちに施してくださった救いの恵みを忘れてしまうと、感謝を捧げる原動力を失ってしまいます。だからこそパウロは16節で「キリストの言葉をあなたがたのうちに豊かに住まわせ」と述べています。みことばを忘れずに握ることは、神が行われたすべてを常に思い起こし、日常に適用しながら、より深い感謝の根を下ろす秘訣になるのです。張ダビデ牧師はみことば黙想の重要性を力説し、「神の言葉から目を離してしまうと、いつの間にか私たちは恵みを忘れ、キリストの平安ではなく世の心配が心を支配するようになるだろう」と警告してきました。
要するに、感謝の本質は外的な成果や境遇によって左右されるものではありません。感謝は、私たちが神と和解し、キリストの十字架によって霊的平安を得たという事実を悟るところから始まります。そしてこの平安が私たちの心を支配するとき、私たちはどんな状況に直面しても凡事に感謝する者になれるのです。“感謝する者”というアイデンティティこそ、真のクリスチャンの生き方を特徴づける根本要素なのです。張ダビデ牧師が一貫して教えてきた核心は、「感謝しなさい」という命令は、私たちから何かを奪い取ろうとする要求では決してなく、すでに注がれている恵みの豊かさに目を向けよという招きであり、その恵みに生きることで神に栄光をお返ししようという勧めなのだということです。
こうした霊的秩序を理解し、個人の生活はもちろん、教会共同体や社会の中で感謝の文化を花開かせること。これこそが第一の小主題で強調したいポイントです。私たちは“感謝の本質”を正しく理解することで、感謝が信仰生活の飾りではなく、その中心の柱となるようにしなければなりません。そしてその中心を保つために絶えず立ち返るべきものが“キリストの平和”なのです。唯一その平和が心を支配するとき、私たちは初めて凡事に感謝し、神に栄光をお返しできるようになるのです。
2. 感謝で捧げる生き方
ここまで、感謝がキリストにあって与えられる霊的な平安から来るという事実を見てきました。では、コロサイ3章16〜17節の御言葉を通して、凡事に感謝する生き方が具体的にどのように現れるかをさらに見ていきましょう。パウロは16節で「キリストの言葉をあなたがたのうちに豊かに宿らせ、あらゆる知恵をもって互いに教え、戒め合い、詩と賛美と霊の歌によって感謝する心で神をほめたたえなさい」と語ります。そして17節では「何をするにしても、言葉によるにも、行いによるにも、すべて主イエスの名によってし、彼によって父なる神に感謝しなさい」と強調しています。これは私たちの言葉と行いのすべてが神に捧げる感謝のいけにえとなるべきだという意味です。
まず、感謝が最も直接的に表れる方法の一つが賛美です。詩編の作者たちは常に賛美をもって神に栄光をお返しし、賛美そのものを“いけにえ”に喩えたこともあります(詩編50編など)。ヘブライ13章15節で「このゆえに、私たちはイエスによって絶えず神に賛美のいけにえをささげよう。これは御名を告白する唇の実である」と記録されているように、賛美は礼拝者が捧げる最も尊い霊的いけにえの一形態です。張ダビデ牧師は折に触れ、「雄牛をささげる以上に尊いささげものは、賛美と感謝だ」と語り、物質的犠牲以上に尊い礼拝が、心と口、そして霊を伴って捧げる感謝の賛美であると力説してきました。これは外面的な形式に終わらず、私たちの心と口、そして霊が一体となって捧げる霊的礼拝です。
特にコロサイ3章16節で「詩と賛美と霊の歌によって互いに教え、戒め合いなさい」と語られる点は興味深いところです。初代教会の信徒たちは、共にパンを裂き、食卓交わりを分かち合いながら、詩編や賛美を歌っていたと言われています(使徒の働き2章参照)。このような共同体的賛美は、神への感謝と栄光の表れであると同時に、互いを励まし建て上げ、さらに大いなる恵みへと導く霊的仕掛けでもありました。感謝に満ちあふれた賛美が共同体の中で響き渡るとき、信徒たちの結びつきやキリストにある愛は一層強められるのです。
このように、賛美が感謝表現として重要である一方で、パウロは賛美にとどまらず「言葉と行い」のすべてにおいて神への感謝を表すべきだと強調します。つまり私たちの言葉が主イエスの名をあがめる賛美となるだけでなく、世の中で行うあらゆる行為も主の名によって行い、その恵みによって神に感謝せよというのです。現代では、多くの信徒が教会の中では賛美に満ち感謝であふれていても、教会の外に出た途端、日常の様々な悩みや問題に飲み込まれて容易に不平や落胆に陥ることが少なくありません。しかし凡事に感謝する者として召された私たちであれば、どのような立場にいても、どんな仕事をしていても、一言一言の言葉と行動が最終的に神への感謝と賛美に帰結するよう意識すべきでしょう。
張ダビデ牧師はこれを「生き方が礼拝となること」とよく表現しました。確かに礼拝の時間は決まっているものの、クリスチャンの生涯そのものが礼拝でなければならないという意味です。私たちの言葉が神を喜ばせ、私たちの行いが主の御性質を映し出し、私たちの決断や選択が神の義を実現する手段となるとき、そのすべては自然に神への礼拝となるのです。このように神中心的な生き方を送るとき、感謝はもはや特定の日だけに捧げる祈りではなく、呼吸する一瞬一瞬にあふれ出る自然な姿勢となります。
さらに、感謝をもって捧げる生き方は、私たちに託された使命を全うするときにいっそう鮮明に表れます。パウロは「言葉と行いが主イエスの名によってなされるとき、神への感謝となる」と言いました。つまり、隣人を仕える時も、福音を伝える時も、あるいは誰かを教える時も、徹底的に主の御心と愛に従おうと努めながらそれらを行うならば、それ自体が神への感謝の礼拝なのです。なぜなら、その過程のすべてにおいて、自分を主張するのではなく神の御支配に従い、その御名に栄光を帰することになるからです。
特に張ダビデ牧師が世界各地で教会や教育団体、奉仕機関などを設立した際に強調したのは、口先だけの賛美や感謝ではなく、実際の献身や分かち合いへとつながる「生活で示す感謝」でした。たとえば、貧しい地域に行って学校を建て、食糧や教育を提供すること、人権が踏みにじられた人々や社会的に疎外されている人々に福音を伝えつつ、同時に彼らの現実的な必要にも目を向けること、また渇ききった魂を抱える人々がみことばを聞いて自ら将来を切り開けるよう支援することなどは、いずれも“主イエスの名によって”行う具体的な愛の実践です。それこそが「彼によって父なる神に感謝しなさい」(コロサイ3章17節)の御言葉を生きる姿なのです。
感謝はこのように私たちの言葉と行動すべてを包括する姿勢であるため、真実な感謝は決して口先の告白だけでは終わりません。私たちは詩や賛美で神をほめたたえることができますが、同時に周囲を顧み、疎外されている人々を仕え、愛の実を結ぶときにこそ、キリストが与えてくださる真の感謝が完成します。パウロが述べた「何をするにしても、言葉によるにも、行いによるにも」という言葉には、私たちの普段の生活のごく小さな領域に至るまで神に捧げられうるという驚くべき洞察が込められています。多くの場合、私たちは大きなことや特別なことのみに神の摂理があると思いがちですが、実際には日々の習慣や日常生活からして、主の御支配を認め、感謝することができます。
ヨハネ第一3章18節で「子たちよ、私たちは言葉や口先だけで愛するのではなく、行いと真実をもって愛そう」と命じる教えも、まさにここに合致します。またヤコブ2章17節で「行いのない信仰は死んだものである」と警告している中心にも同じ文脈があります。信仰は最終的に感謝と賛美によって表現され、それはやがて具体的な実践や分かち合い、奉仕へとつながるべきなのです。言葉と行い、すなわち私たちの言語生活と行動様式のすべてがキリストにあって新たに変えられ、神への感謝を映し出すように努力しなければなりません。
では、このような感謝の生き方は具体的にどのように表れるのでしょうか。張ダビデ牧師は「感謝は、私たちが受けた恵みを覚えることから始まり、その記憶が行動となって花開くときに完成する」と説明します。つまり、神が私たちに施してくださった救いを覚え、キリストの十字架の愛を覚え、私たちを共同体の中へ招いてくださった恵みやさまざまな祝福を覚えることから出発します。そして、それをただ黙って心にしまっておくのではなく、積極的に表現し、分かち合う過程が必要です。たとえば、感謝の思いを賛美で表すことはもちろん大切ですが、さらに自分の時間や才能、物質を神の御国と隣人のために喜んで用いることも感謝の実践です。
また、張ダビデ牧師は多くの集会や奉仕の現場で「私たちの言葉の習慣に注目せよ」と繰り返し勧めました。感謝に満ちた心から出る言葉は違うというのです。世俗的な環境では、不平や不満、あるいは悪口や失望に満ちた話を耳にすることが多いでしょう。しかし凡事に感謝する者は、どんな困難に直面してもそれを肯定的な視点に変換し、最終的には「神が私たちに善をお与えくださると信じる」という告白に行き着きます。決して現実を否定したり、厳しい状況を見て見ぬふりをするのではなく、キリストの平和を握りしめながら主の慈しみを信頼する態度です。これが言葉に表れる「感謝の礼拝」であり、他の人々にも信仰の勇気を呼び起こす霊的影響力となります。
さらに私たちの行動もまた、感謝によって変えられます。感謝のない心は簡単に自分を中心に据え、自分の利益のために他人を犠牲にしようとしたり、他者への配慮を欠いたりします。しかし凡事に感謝する心を持つ人は、神の恵みに満たされているので、喜んで周りを気にかけ、ほかの人々の必要を満たすことに力を注ぎます。これは父なる神からいただいた愛をお返しする道であり、最終的には主イエスの名によって父なる神に感謝することへとつながります。パウロが語った「言葉によるにも、行いによるにも、すべて主イエスの名によって」という言葉はまさにそれを明確に示しています。私たちはいつ、どこにいても、たとえ誰にも見られていない場所にあっても、私たちを見つめておられる神の御前で感謝する生き方を選べるのです。
サンクスギビング・デー(感謝祭)の歴史も、実はこうした「生活で捧げる感謝」から始まりました。1620年、ピルグリム・ファーザーズが信仰の自由を求めメイフラワー号でアメリカ大陸に到着したとき、彼らは厳しい冬と厳しい環境に苦しみながらも、まず神に礼拝をささげる教会を建て、信仰教育のための聖書学校を設立し、自らの住まいを整えたと伝えられます。最初の年の農作は不作で、多くの人々が飢えや病で亡くなりました。それでも彼らは神への感謝の礼拝を捧げました。あらゆる苦難と欠乏のただ中にあっても、神が彼らを導き救ってくださると信じていたからです。これこそ400年余り前から受け継がれてきた感謝祭の精神なのです。
張ダビデ牧師は、アメリカ社会に「Thank you」という言葉が日常的に広まっていることに注目し、それを「クリスチャンの影響力が浸透した文化」だと解説しています。本来“感謝”という言葉はキリスト教信仰の中心部に位置しているので、神の恵みを知る者たちはあらゆる場面で感謝の態度を取るものです。人々が誰かの助力に対して「ありがとう」と伝えるとき、その背後には神がすべてを支配し、人々を通して善を行われたという事実をどこかで認めているのです。したがって感謝の文化が根づくには、究極的に私たちの内にキリストの平和が宿り、私たちの行動が神を崇めたいという思いから始まる必要があります。
アメリカで祝われる感謝祭の意味を、世界中が同じように共有しているわけではありません。しかしその本質的意味、すなわち神のくださった恵みを覚え、感謝をもって賛美する精神は、すべてのクリスチャンにとって尊い手本となるでしょう。私たちが生きる時代や場所は違えど、同じように神が施してくださった恵みを振り返り、その恵みをほかの人々と分かち合い、さらに神の国と義のために献身し続けることができるのです。張ダビデ牧師が提唱する「C12、G20」の働きも、まさに教会と教育、奉仕、そして宣教を通じて神の愛を実践しようとする具体的なビジョンです。そのビジョンを掲げ、それを実現していく過程そのものが、言葉と行いで神に感謝する生き方の好例と言えるでしょう。
パウロが語る「何をするにも、言葉や行いを問わず、すべて主イエスの名によってし、彼によって父なる神に感謝しなさい」というメッセージは、私たちに聖なる挑戦を突きつけます。教会の中だけで感謝を語るのではなく、家庭や職場、社会、そして世界のどこへ行っても、神をあがめる言動を選び取りながら生きよというのです。私たちがそのように生きるとき、この世は私たちを通して神の美しさを目にし、私たちの内なる希望と平安に興味を持ち、やがて福音の道へと近づくかもしれません。
さらに、神への感謝に生きることは、教会共同体においても一致を生み出します。「あなたがたは平和のために一つの身体として召されたのです」とあるコロサイ3章15節後半の言葉の通り、私たちは一つの身体として召されています。その一つの身体を構成する肢体たちが互いに感謝する姿勢を保つならば、その共同体の中では、非難や責任の押しつけ合いよりも、互いを勧め合い建て上げようとする思いが生じます。パウロはその姿を「あらゆる知恵をもって互いに教え、戒め合い、詩と賛美と霊の歌によって感謝の心で神をほめたたえる」共同体として描きました。現代の教会は分裂や争いで苦しむ例も少なくありませんが、もしキリストの平和が共同体全体を支配し、各肢体が神への賛美と感謝に努めるならば、自然に争いは減り、互いに仕え合う愛で満たされるはずです。
感謝は未来への信頼ともつながっています。感謝する人は過去の恵みを覚えるだけでなく、これからも神が善い導きをしてくださると期待しています。ゆえに現時点の苦難や困難のただ中でも、不平ではなく感謝で応じることができるのです。かつてピルグリム・ファーザーズが未知の地に上陸した際、彼らが一年間に味わった試練は決して小さくありませんでしたが、それでも感謝の礼拝を捧げられたのは、「今は厳しいが神は今後も私たちを善へと導かれる」と信じていたからです。張ダビデ牧師はこれを「感謝は信仰の種を蒔く行為」と呼びます。私たちが感謝をもって一年を終え、次の年を迎えるとき、神はその感謝の告白の上に新しいビジョンを開き、実を結ばせてくださるというのです。
このように感謝は、過去・現在・未来をひとつながりに見渡す信仰的態度であり、神に栄光をお返しする礼拝の鍵とも言えます。パウロがコロサイ書を通して語るメッセージと、テサロニケ前書5章18節の「すべてのことについて感謝しなさい」という御言葉は同じ文脈を持っています。すなわち私たちの人生のあらゆる局面で、キリストにあってすでに与えられた恵みと平安を見つめ、感謝する者となりなさいということです。そしてその感謝は、私たちの言葉や行動のすべてに浸透しなければなりません。こうして感謝に生きる者たちは、個人の次元を越え、共同体や社会をも変革していく力を発揮します。不平に満ちた時代にあって、感謝と賛美に生きる者は暗闇の中の光のような存在だからです。
それゆえ、今日、私たちが収穫感謝祭を迎えて神に礼拝を捧げるとき、「大変な一年だったけれど、無事に過ごせて感謝です」という挨拶だけで終わらせるべきではありません。もちろんそれ自体も感謝の理由ですが、より深い次元で「私たちを救い、神との和解へと導き、永遠の平安を得させてくださったこと」にまず感謝すべきなのです。そしてその感謝が私たちの言葉と行い、礼拝と賛美、そして隣人愛の実践に具体的に現れるように努めるべきです。神の恵みを覚え、歌うこと、すなわち「詩と賛美と霊の歌によって感謝の心で神をほめたたえる」ことが、私たちの日常となるよう願わなければなりません。そうするとき、一つの身体として召された共同体の中で、私たちは互いに励まし合い、感謝の文化を花咲かせることができるのです。
張ダビデ牧師は常々こう言っていました。「感謝は小さな実践から始まるが、その響きは決して小さくはない」。それは私たちの周囲にいる人々に肯定的な影響を与えるだけでなく、神の御前でも大いなる礼拝となります。感謝に生きる一人の人間、一つの共同体が世の中を変え得るのです。歴史的にも、多くのリバイバルや目覚めは感謝と賛美に満ちた共同体から始まったことを、私たちは忘れてはいけません。ピルグリム・ファーザーズが苦難の最中でも礼拝し、感謝をささげたあの歴史的伝統が、今もなお受け継がれているように、私たちもどのような状況下にあっても感謝の生き方を放棄すべきではないのです。
「言葉によるにも、行いによるにも、すべて主イエスの名によって」感謝する者となりなさいというのは、私たちの存在すべてを神に捧げる礼拝者となりなさいという召しです。そしてその召しに従う道は、キリストの平安が私たちの心を支配し、その御言葉を豊かに握りしめ、賛美と善行によって神に栄光をお返しすることです。今、私たちが捧げている礼拝が一時的な儀式に終わらず、日常へと入り込んで、より深い従順と賛美、そして感謝の実を結ぶことを願います。私たちがどこで何をするにしても、主の名によって父なる神に感謝をささげる信仰の人生となりますように。これこそコロサイ3章15〜17節が私たちに示す貴いメッセージであり、張ダビデ牧師が世界を巡って説き続けてきた福音的生き方の核心でもあります。
今日この場に共にいるすべての人が、コロナの時代という激動に揺さぶられながらも、また個人的試練や苦しみの中にあっても、「すべてのことについて感謝しなさい」という神の言葉に「アーメン」と応答できることを願います。それは決して単純でも容易でもない命令ですが、すでに私たちの内にキリストの平安が注がれていると知るならば、可能なことです。そしてこの平安に支えられて、私たちの言葉と行い、すなわち「言葉によるにも、行いによるにも」、あらゆる領域で父なる神に感謝をお捧げできるならば、この混乱した時代のただ中にあっても、私たちは地の塩・世の光の役割を十分に果たすことができるでしょう。そうして来たる年、さらにその次の年にも、神が広げてくださるより大きなビジョンを期待しつつ、信仰の歩みを進めていくのです。
今、私たちが捧げる感謝の礼拝と賛美が、家庭や教会、社会、そして諸国の民に至るまで流れ広がっていくことを心から願います。そして張ダビデ牧師が語ったように、私たちが受けた感謝と賛美のいけにえを行動で示して、神が望まれる正義と愛、平和がこの地上に実現するよう力を尽くしましょう。口先だけの賛美ではなく、人生のすべてを捧げる真の礼拝者として歩むとき、神の御国はすでに私たちのただ中に臨み、働かれ、さらに豊かな感謝へと私たちを導いてくださるのです。そうして一歩一歩を進めるとき、きっと私たちが迎える新しい一年も、神の大いなる恵みと実りを享受する時となるでしょう。凡事に感謝する者に約束された祝福は決して空しく終わりません。私たち皆、この信仰の道を喜びをもって歩み続け、父なる神に絶え間なく感謝のささげものをお捧げしていこうではありませんか。アーメン。