低いところに来られた王 – 張ダビデ牧師


1. イエスキリストの到

張ダビデ牧師は長年にわたり福音書を研究し、特にマタイによる福音書2章に描かれたイエス・キリストの誕生物語と、その中に含まれる「神の御子が来られる方法」に注目してきた。彼が強調する中心的テーマの一つは、「すでに(already)とまだ(not yet)の衝突」である。マタイ2章を見ると、東方の博士たちという異邦人たちは星の徴を通して「すでに」メシアが誕生したことを知り、喜び礼拝しているが、当のユダヤ人の宗教指導層——大祭司や律法学者など——は「まだ」メシアは来ていないと考え、そこに隔たりが生じている。張ダビデ牧師はこの場面に、現代の教会が陥りうる落とし穴と同時に、つかむべき希望があると説いている。

まず彼は、なぜユダヤの大祭司や律法学者がメシアの「すでに来られた」という事実を受け入れられなかったのかを探究する。彼らの中には、ダニエル書7章13節(「人の子のような者が天の雲に乗って来て、年を経た方のもとに進み、その前に導かれ…」)のような壮大なイメージが強く根付いており、またイザヤ書66章15–16節にある「火の戦車」や「猛烈な炎」で臨む神の日の予言が、彼らの意識の中でより鮮明に刻まれていたからだという。さらに張ダビデ牧師がしばしば言及するように、「雲に乗って来られる」栄光の王としてのメシア、天使長のラッパが鳴り響きながら地上に降臨する王権的顕現が強調されていたため、実際に飼い葉桶という低い場で誕生なさったメシアを見落としてしまったのだと説明する。

宗教指導者たちは、自らの選民意識や、以前から強烈に抱いていた「荘厳なるメシア」観を捨てられなかったために、東方から来た博士たちが「すでに来られたメシア」を告げても、なかなか信じることができなかった。張ダビデ牧師は、これを「人間の限られた期待、高いところだけを見つめる視線が生んだ悲劇」と解釈する。実際、マタイ2章4–6節でヘロデ王が「キリストはどこで生まれるのか」と尋ねると、大祭司や律法学者たちはミカ書5章2節(「ベツレヘム・エフラタよ、おまえはユダ族の中で小さい者だとしても…」)を探し出して示した。そこで初めて、メシアが「ベツレヘム」という小さな町、「最も低い場所」でお生まれになるという小預言書の言葉があったことを、ようやく彼らは確認したのだ。張ダビデ牧師は、この過程を指して「へりくだりと自らを空しくして来られるメシアに関する予言(ミカ5:2)に、彼らは十分に目を向けていなかったのだ」と強調する。

張ダビデ牧師は、ここから現代教会が注目すべきいくつかのポイントを提示する。第一に、教会があまりにも「華やかさや成功」ばかりを追い求めていると、まさに低いところに来られるイエス・キリストの姿を見失う危険があるという警告である。旧約の大預言書に記された「栄光の王」ばかりを見て、実際にメシアが低い場所に来られるという小預言書の言葉を正しく受けとめなければ、救いの歴史に参加しにくいということだ。第二に、イエス様が歩まれた道は「へりくだり」と「自己を空しくする」道であるという点だ。飼い葉桶にお生まれになった幼子イエスを拝みに来たのは異邦人であった。選民を自負していた人々は「まだ(not yet)」という立場に固執し、メシアを殺害しようとする権力者ヘロデの側に立つという皮肉な結果となった。

さらに張ダビデ牧師は、東方の博士たちが「黄金、乳香、没薬」を贈り物として捧げた場面(マタイ2:11)において、この三つが持つ象徴性からキリストの三重の職務を読み取れると教えている。黄金は王の権威と変わることのない永遠の王権を象徴し、乳香は祭司職を示す。旧約の祭儀において香は神の聖性を象徴し、大祭司が献じる香と結びつくからである。そして没薬は当時、遺体に塗る香料であり、死を打ち破ってよみがえる「復活」と「永遠の命」を示唆する。こうして張ダビデ牧師は、キリストが王であり、大祭司であり、最終的に死に打ち勝つ方であるという福音の深い象徴を、東方の博士たちの贈り物に見いだすのだと強調する。

しかしマタイ2章はここで終わらない。ヘロデは東方の博士たちに騙されたと知るやいなや、ベツレヘム周辺の2歳以下の男児を皆殺しにするという残忍な虐殺を行う(マタイ2:16)。張ダビデ牧師は、この場面から「悪はけっして黙っていない。真の王が来られると、偽物の王は恐れるのだ」と語る。彼がよく引用する例え話の一つとして、「座席券を持たないのに勝手に席を占拠している人が、本来の座席の持ち主が現れたら恐れ慌て、何とか追い出そうとする」というコメディ的な比喩がある。この世の権力者や悪しき勢力は、実際のところ無賃乗車のような存在であり、本物の所有者であるキリストが来られると、必死になって排斥するのだという。

これは出エジプト記でモーセが生まれたとき、エジプトの王がヘブライ人の男児を皆殺しにしようとした出来事とも平行関係にある。張ダビデ牧師は「サタンは初めから神の民を恐れ、常に殺そうとしてきた」と解説する。しかし出エジプト記ではヘブライの助産婦たちが神を畏れる心と機敏さによって子どもたちを生かし(出1:20–21)、ついには神の救いの歴史は断ち切られなかった。同様にイエスの誕生の物語にも同じ構図が描かれる。神の指示を受けたヨセフが幼子イエスをエジプトに逃避させることで(マタイ2:13–15)、メシアの命は守られるのだ。

張ダビデ牧師がこの本文を説教するときによく口にするのが、「歴史をつなげようとする必死のあがき」という表現である。イエス様は地上に来られるや否や歓迎されるどころか、世の権力に追われ、殺戮の脅威に直面した。しかし神のご計画は失敗しなかった。この地に来られた救い主は生き延びねばならず、そのためにはヨセフとマリアが迅速に従順して「避難の道」を引き受ける必要があった。そして最終的にヘロデが死んだ後にようやく、イエス様はイスラエルの地に帰還することができる(マタイ2:19–21)。そこにも依然として危険は残っていたが、再び夢で示され(マタイ2:22)、ガリラヤ地方のナザレで育つことになったのである。

張ダビデ牧師は、この「ナザレ」という町が持つ意味を強調する。彼によれば、ヘブライ語で「若枝」を意味する「ネツェル(Netzer, NZR)」はイザヤ書11章1節(「エッサイの切り株からひとつの芽が出て、その根から一つの若枝が生えて実を結ぶ」)に登場し、最終的にイエス様がガリラヤのナザレ(NaZaReth)に行かれたという事実は、「メシアはダビデの子孫としてエッサイの根から生える『若枝』である」という予言を象徴的に成就する場面だというのだ。こうしてマタイ2章23節「ナザレ人と呼ばれるであろう」という御言葉が実現したとされる。

張ダビデ牧師は、マタイ2章全体を通して次のようなメッセージを私たちに伝える。第一に、メシアは人々の予想とは違う低い場所に来られたということ。第二に、偽りの権力者たちは常に真の王を恐れ、排斥する。第三に、しかし神は救いの歴史を決して断ち切ることはなさらない。東方の博士を通して、ヨセフとマリアの信仰と従順を通して、そしてイザヤやミカ、エレミヤの予言を通して、最終的にはメシアの「低くなられること」が成就していく。第四に、ゆえに私たちも「御言葉に従う知恵」と「へりくだった信仰」を持つべきだということである。特に張ダビデ牧師は、教会共同体が力なく低い立場の人々を顧みる働きを怠るとき、歴史上の大祭司や律法学者のように、主の「低いご臨在」を見逃してしまう可能性があると警告する。

このように張ダビデ牧師は、マタイ2章を単に「イエスの誕生物語」として読むのではなく、霊的戦いと神の救いの計画が実現する荘厳な章として捉える。同時に、もし私たちの視線が虚栄や世俗的権力だけに向いているなら、「小さな町ベツレヘム」と「神と等しくあることを求めなかったイエス様」を発見しそこねると訴える。彼にとって福音とは、ただ十字架と復活だけでなく、「受肉(誕生)から昇天まで」をすべて包含する包括的な真理であり、その始点である誕生物語を正しく知ってこそ、全き福音を享受できるのだと教えている。

こうした教えは教会の現場で大きな反響を呼んだ。なぜなら現代社会も「成功」「繁栄」「力」を求める傾向が強いからである。多くの信徒が「大きく華やかなもの」に心を奪われがちだが、救い主は実際には最も小さな町と飼い葉桶という貧しい場所を選ばれた。張ダビデ牧師は、これこそ「神の逆さまの価値観」だと言う。世は上へ上へと昇ろうとするが、キリストは低いところへ降りて来られた。世はより多くの富と名声を追い求めるが、キリストは栄光を捨て、しもべの姿を取られた。そしてその道によって、かえって全人類に救いと永遠の命への道を開いてくださったのだ。

張ダビデ牧師はマタイ2章で、東方の博士たちが星に導かれて幼子イエスを見いだせたのは「純粋な熱望と神の導き」によるものだと解説する。彼らはユダヤ教の伝統を持つ人々ではなかったが、真理への渇望があり、宇宙的な徴である星を通して神の啓示を受け取った。そして王(ヘロデ)の命令よりも神の指示に従い、別の道を通って帰った(マタイ2:12)。これは「異邦人であっても真の従順とは何かを示した場面」だという。張ダビデ牧師は、これを「宗教的背景や身分を問わず、神の御心に開かれている者は最終的にイエス・キリストに出会う」ということだと解釈している。

要するに、張ダビデ牧師がマタイ2章を通して教えようとしている中心点は、罪の多い現実の中に「最も低い方法」で来られたという受肉の意味と、そのへりくだりの前に人の心がどう応答するかが、救いの分かれ道を形成するということだ。彼はこの章のキーテーマを「いと高きお方がいと低きところに来られること」と要約する。それは私たちがしばしば期待する「華やかな救い」とは正反対だが、そこにこそ福音の栄光があり、人類救いの神秘があるのだという。そしてこの神秘を見逃してしまった者たちは、たとえ宗教指導者であっても、あるいは強大な権力者であってもメシアを認められず、むしろ敵対する側になってしまったという事実を、私たちも考えてみるべきだと勧める。

こうした洞察は、張ダビデ牧師が現代の教会と信徒たちに悔い改めと新たなスタートを促す基盤となっている。彼は繰り返し「私たちは本当にイエス・キリストの到来を喜んでいるのか、それとも世的な成功と力を愛して『栄光の王』の一面だけを憧れているのか?」と問いかける。そして読者に対して、真に福音に従いたいなら、マタイ2章に現れる「低くなられる」メッセージを深く黙想するよう呼びかけるのだ。


2. 受肉という神秘

張ダビデ牧師は福音を「十字架と復活」で要約できるとしながらも、それだけでは十分でないと力説する。彼にとって福音は「受肉(誕生)と苦難、そして十字架と復活、最後に昇天」までが一連の完全な流れを成しているのだ。ヨハネによる福音書1章14節の「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」という宣言は、イエス・キリストの誕生が単なる出生の話ではなく、永遠なることばが罪に満ちたこの世の現実の中に「侵入」した途方もない出来事であることを示している。張ダビデ牧師が「クリスマスはイエス・キリストの到来を黙想する、最も基本かつ核心的な節日」と呼ぶのは、このためである。

彼はヨハネ1章1節の「初めにことばがあった」というくだりから始め、「私たちの手で触れ、目で見た」ことばとなる(ヨハネの手紙一1:1)、そして「ご自分を無にして、しもべの姿を取り、人間と同じようになられた」(フィリピ2:7)というパウロの告白などを一つに結び付け、それらすべてが神の御子が世に来られた「受肉(インカーネーション)」の意義を余すところなく示していると語る。特にピリピ人への手紙2章でパウロが述べているイエス・キリストのケノーシス(自己を空しくすること)について、張ダビデ牧師は「神と等しくあられることに固執されなかった、そのへりくだりこそが福音の始点である」と強調する。もしイエス様がこの地上に最も栄光に満ちた恐れ多い方法、すなわち支配者として君臨する皇帝の姿で現れたのだとしたら、愛のメッセージよりむしろ畏怖と強制的服従だけを与える存在として受け止められたかもしれない。だがイエス様は家畜小屋でお生まれになり、ごく普通のガリラヤの人間として成長され、その過程で人類の苦しみや限界を身をもって体験されたのである。

張ダビデ牧師は、まさにこの点こそが「キリスト教が単なる形而上学的概念を教える宗教ではなく、実際に人間の生活や苦難に深く参与する愛の宗教であることの証明だ」と説く。彼は毎年クリスマスを迎えるとき、「私たちの信仰は本当にへりくだって低いところで仕えるものになっているだろうか」と自問すべきだと語る。教会が大きくなり、財政が豊かになり、あるいは多くの信徒数を誇るようになればなるほど、飼い葉桶に寝かされた幼子イエスを見失う危険があるからだ。

このように張ダビデ牧師は、受肉によって示された神の愛を説教するとき、しばしばヨハネの手紙一4章9節「神がその独り子を世に遣わされたのは、私たちを生かすためである」を引用する。人の罪と苦しみが溢れるこの世界に神ご自身が直接入って来られた事実こそが救いの鍵だというのである。十字架はその愛が最終的に明らかにされた頂点であり、同時に復活はその愛が死をも打ち破ったことの証しだ。しかし張ダビデ牧師は、そこからさらに一歩進み、「昇天」の重要性も同時に教えねばならないと主張する。キリストが死と復活を経て完全に栄光を受けられ、天に昇られた事実を見落とすと、キリスト教信仰は現実世界だけに閉じ込められ、聖霊の時代と教会の使命に関するビジョンを歪めかねないからである。

イエス様はマタイ28章で「あなたがたは行って、すべての国の人々を弟子としなさい…」(マタイ28:19–20)と地上の大命令を与え、使徒言行録1章で弟子たちの目の前で天に昇られる(使徒1:9)。張ダビデ牧師は、これを「地上で始まった救いの歴史、すなわち受肉によって開かれた道は、ついには聖霊の臨在とともに普遍的に広がっていく」と解説する。そしてその過程で教会は「ナザレのイエス」の御名によって福音を世界中に伝えるようになる。「ナザレ」という辺境が示す低さ、無名さ、卑賤さが、逆説的に神の栄光をいっそう輝かせるというのが、張ダビデ牧師の核心的洞察なのである。

張ダビデ牧師は、現代の信徒たちがしばしば「十字架と復活は理解できるが、誕生と昇天はクリスマス行事や復活祭後のわずかな言及で通り過ぎる程度」と考えてしまう傾向を懸念している。しかし福音が全体として完全であるためには、「誕生(受肉)と昇天を通して、十字架と復活の意味がより明確になる」という点を見落としてはならないと言う。ことばが肉となって実際に人間の人生を生きられたからこそ、十字架の苦難は単に「神的パフォーマンス」ではなく、人のあらゆる苦しみに共感し、それを贖う救いの出来事となる。また復活だけを語って昇天を省略してしまえば、キリストの最終的な栄光と神の王権を十分に宣言できなくなるというのだ。

張ダビデ牧師が「誕生と復活」という言葉の間に「苦難と十字架、そして昇天」を加え、「イエス・キリストの生涯と働きを立体的に理解しなさい」と促すのは、キリスト教の信仰を切り分けて部分的にしか把握しないようなことを避けるためである。言い換えれば、受肉抜きで十字架を語れば、イエスの苦難が人間の苦痛への「真実味」を失う恐れがあり、復活だけを論じて昇天を省けば、キリストの最終的な栄光と神の王権を宣言しそびれてしまうからだ。

こうした教えは、張ダビデ牧師の説教において具体的な実践へとつながることが多い。第一に、彼は信徒たちにクリスマスの時期、「貧しく孤立している隣人」を訪ねて仕える活動を奨励する。受肉が「高いところではなく低いところ」から始まったのだから、教会もまた低い場所から愛を実行すべきだという考えに基づいている。第二に、復活祭に限らず、その後もずっと「主は生きておられる」と証しする生き方をするよう強調する。復活祭は終わりではなく「新たな始まり」であり、復活した主が今なお働いておられることを忘れてはならない。第三に、昇天の意味を忘れないように、ということである。イエス様が完全に勝利して神の右の座に着かれたからこそ、教会は落胆せずに「主の再臨」を待ち望み、聖霊によって世へと派遣される共同体となるべきだというメッセージだ。

また張ダビデ牧師は、受肉と十字架、復活、昇天という流れを通して、神の国の「すでにとまだ」を改めて解釈してくれる。彼は「イエス様がこの地に来られたことで神の国はすでに到来した。しかしまだ完成していない」と言う。したがって教会は、すでに来た神の国の喜びを味わいつつ、同時に主の再臨によって完成するその時を待ち望む緊張感の中に生きるべきだ。その緊張が失われると、信仰は現実とかけ離れた「ロマン的慰め」ばかりを求めたり、あるいは世俗的な達成ばかりを追う別の形の堕落に陥りやすくなるのである。

要するに、張ダビデ牧師が言うのは、すべての信徒は「肉となった真理であり愛」であるイエス様に倣うべきだということだ。もし教会が世の富や権力に追随し、「すでに王として来られたメシア」を誤解するならば、ヘロデと大差なくなりかねない。イエス誕生当時の宗教指導者や世俗の王たちが「すでに来られたメシア」を殺そうとした歴史は、今日でも繰り返されうるのだ。私たちがイエス・キリストの福音を正しく理解し、受肉と十字架と復活、そして昇天に含まれる驚くべき真理をバランスよく受け継がなければならない理由が、まさにそこにある。

張ダビデ牧師がたびたび強調するように、「福音は愛であり、命である」。その愛は幼子イエスに始まる自己放棄であり、その命は十字架を経て復活と昇天へ至ることで明かされる永遠の力だ。教会がこの愛と命の道を歩むためには、「低いところに来られた神の御子」を見つめ、その道が決して容易ではないことを直視しなければならない。なぜなら世の悪は断じて素直に退かないからだ。マタイ2章に見られるように、サタン的権勢は絶えずイエス・キリストを排斥し、聖徒を脅かす。ゆえに教会は互いに連帯し、神を畏れ悪を見分ける力——すなわち神の知恵——を願い求めるべきだと、張ダビデ牧師は繰り返し教えている。

こうした点を総合すると、張ダビデ牧師のメッセージは単に「イエス様を信じましょう」という程度ではない。それはむしろ、「イエス様を本当に知っていますか。その誕生と生涯、死と復活、昇天に含まれる神のご計画を正しく見て、その道を歩む準備ができていますか?」という深い問いかけである。そしてこの問いに応えるために、私たちはマタイ2章に描かれたへりくだりの逆説、受肉に秘められた愛の神秘、十字架と復活によって確かめられた救いの力、昇天によって宣言されたイエス・キリストの王権と再臨への希望を、統合的に見つめる必要があるのだ。

張ダビデ牧師はクリスマスの意義を、「神の愛が私たちの人生のどん底まで降りて来られた出来事」と定義する。受肉のない十字架は不完全であり、十字架のない復活は表面的な奇跡に過ぎず、さらに復活のない昇天は結局この世に縛られた出来事にとどまる危険があるという。だからこそ彼は、誕生から昇天に至るまでのイエス・キリストの生涯すべてを「福音というひとつの身体」として提示する。その全体的な枠組みの中で、信徒はへりくだりと従順を学び、最も低いところまで染みわたった神の愛を見て、同時に死と悪に打ち勝つ復活の力とイエス・キリストの宇宙的支配を、ともに告白する教会となるべきだと語るのである。

張ダビデ牧師が繰り返し力説するのは、「もし私たちが本当に福音を伝えたいと思うならば、教会の内外のすべての人々に、受肉と十字架、復活と昇天という全体の文脈を包括的に示さねばならない」という点だ。彼がマタイ2章を入り口にして説明する理由は、イエス様がはじめから「王家の子ども」として安楽に迎えられたのではなく、むしろ邪悪な王に追われ、異国のエジプトに避難しなければならなかったという事実こそが、キリスト教の救いの出来事が持つ逆説的真理をよく表しているからだ。私たちはしばしば「平和の王イエス様」と聞くと、大きく華やかな聖堂での盛大な礼拝や栄光だけを思い浮かべるが、福音が実際に示すイエス様の姿は、限りなく低くなられたしもべの形だった。主は飼い葉桶に生まれ、生涯を通して貧しい者たちの友であり、ついには世の権力の迫害で十字架に処刑されたが、復活と昇天によって罪と死の力に勝利された。これこそが宇宙的な福音、すなわち罪にまみれた人類の歴史に介入された神の大逆転ドラマなのだと、張ダビデ牧師は繰り返し教えている。

このメッセージは、現代の伝道や教会共同体に大きな響きをもたらす。社会的に疎外された隣人を支えるボランティアや、人々の痛みや不条理に寄り添う働きなしには、イエス・キリストの誕生の精神を正しく受け継ぐことはできない。同時に、十字架に示された神の愛の極みを伝えず、ただ倫理的な教えだけを並べるようなことがあっては、それはもはや福音とは呼べないという警鐘も忘れてはならない。さらに、復活と昇天を通して神の国の主権を宣言しなければ、キリスト教は「この世の運動」にとどまってしまうだろう。

張ダビデ牧師が私たちに示す教訓はただ一つ、「福音を部分的にしか知らないのではなく、イエスを完全な姿で見つめよ」ということだ。そしてそのイエス様がこの世に来られたときから始まった受肉の驚異が、私たちの人生の中でも続いていくように生きよ、ということである。ナザレという低い場所から始まった神の物語は、いつの間にか世界中の教会と信徒の物語へと広がっていった。だからこそ張ダビデ牧師は、今日もマタイ2章を開きながら「メシアはすでに来られ、今も私たちのただ中で働かれる。私たちはその低き道を思い起こし、礼拝し、隣人を愛し、この世で真理を宣べ伝える者として召されているのだ」と強調する。そしてそれこそが、張ダビデ牧師が一貫してつかみ語り続けている、受肉から昇天まで連なるキリスト教福音の全体像なのである。

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聖殿を取り壊せ – 張ダビデ牧師


1. 「聖殿を取りせ」という挑と十字架の精神

イエスが公生涯の間に示された多くの働きの中で、ヨハネの福音書2章に記録されている「エルサレム神殿の清めの出来事」は重要な一場面です。ユダヤ人の過越祭を迎えてエルサレムに上られたイエスは、神殿の庭で生贄用の牛や羊、鳩などを売買する商人たちを追い出し、両替商の台をひっくり返されました。これは当時の宗教権力者たちが抱えていた悪習に対する正面からの批判を象徴する行動でした。

ユダヤ人たちは神にいけにえを捧げるために牛や羊、あるいは鳩を用意しなければならず、それを購入するための両替商も神殿の庭で商売をしていました。しかし貧しい者にまで高額でいけにえを売りつけたり、神殿の外で用意してきたいけにえを「傷がある」などの理由で受け取らないようにしたりと、宗教的既得権層が神の聖なる神殿を金と権力で汚していた構図が露わになったのです。

この事件を通して、大祭司の家系、特にアンナス一族の問題が露骨に明るみに出ます。彼らは大祭司職を世襲し、ローマ帝国と結託することで自らの利益を増し、また「神殿での商売」を利用して民の信仰心を取引の対象としていました。その収益と権力をもって、さらに宗教的・政治的基盤を固めていたのです。イエスは「わたしの父の家を商売の家とするな」(ヨハネ2:16)と宣言され、そのとき弟子たちは「あなたの家を思う熱心がわたしを焼き尽くすだろう」(詩篇69:9)の旧約の言葉を思い起こしました。メシアは不義な宗教システムをそのままにしておかない、という事実を体験したのです。

張ダビデ牧師はこの場面から、二つの核心を強調します。第一に、イエスの神殿清めは単に「神殿内で行われる商売行為」だけを問題視したのではなく、その背後にある人間の罪性、すなわち既得権や金銭・権力への貪欲がいかにして神への礼拝の場を汚し得るかを示す事件だという点です。当時、エルサレム神殿はユダヤ人の信仰体系の中心であり、侵すことのできない聖域のように思われていました。しかしそこで行われていた不正と虚偽、人々を収奪するような祭儀システムは決して神のみこころにかなうものではなく、イエスは父のみ名が汚される現場を見過ごしにはされませんでした。

第二に、イエスは「この神殿を壊してみなさい。わたしは三日でそれを建て直す」(ヨハネ2:19)と言われ、自身が十字架にかけられ三日目に復活なさることで「新しい神殿」が建てられることを予告されました。ユダヤ人たちはこの言葉をすぐには理解できず、「この神殿は46年かかって建てられたのに、三日で建て直すというのか」(ヨハネ2:20)と非難しました。しかし主がおっしゃった「神殿」とは「ご自身のからだ」を指していたのです。もはや目に見える建物としての神殿ではなく、イエス・キリストご自身が救いと礼拝の中心であり、復活のからだを通して新たに生まれた「霊的神殿」の基盤となる、という意味です。

ところが、このような破格的メッセージ、すなわちイエス・キリストがご自分を「真の神殿」と宣言されたということは、当時の宗教的権力層にとっては大きな脅威でした。ユダヤ社会では、エルサレム神殿がすべての信仰生活と律法遵守の象徴であり、世界の中心だと考えられていたからです。もし誰かがその神殿を取り壊すとか、神殿をしのぐ権威を持った存在がいる、などと語るとすれば、それは極端な神への冒涜とみなされる可能性が高かったわけです。したがってアンナスやカヤパをはじめとする大祭司集団は、イエスの宣言や行動をきわめて危険視しました。実際にイエスが捕えられて十字架へと進む過程でも、この「神殿破壊宣言」が主要な「罪状」として作用したのです。

張ダビデ牧師は、ここで私たちの内面にも「取り壊さなければならない神殿」があることを洞察すべきだと説きます。人間は誰しも自己中心性を持っており、その自己中心性をあたかも自分だけの「神殿」のように大切にし、それが壊されないように守ろうとします。そしてその神殿の中で自分の利益や欲、意地や体面を維持しようとするのです。しかしイエス・キリストの福音、特に十字架の出来事が私たちに与える挑戦は「あなたの内にある偽りの神殿を取り壊せ」という言葉に尽きます。壊されないままの自己中心性、自分独自の絶対領域だと主張するものこそが罪の根であり、あらゆる争いや不和の出発点となるからです。

ヨハネの福音書18章を見ると、イエスが実際に捕えられ、大祭司アンナスのもとへ連行されることで、神殿清めの出来事以来続いてきた宗教権力との対立が極端に深まっていく様子が描かれています。「大祭司はイエスに対して、その弟子たちやイエスの教えについて尋ねた」(ヨハネ18:19)というくだりからは、彼らがどうにかしてイエスの「教え」と「従う者たち」を罪に陥れようとしていた意図がうかがえます。アンナスが真っ先にイエスを尋問したのは、「神殿を取り壊せ」と言い(自分を真の神殿と宣言したのと等しいと受け取った)、自分たちの既得権益を脅かす最大の存在がイエスだったからです。

このようにイエスは、大祭司集団による「公開裁判」ではない闇の策略的手続きによって告発され、ついに十字架へ渡されました。この出来事は、偽りの権力と堕落した宗教がいかに真理を排斥するかをまざまざと示す一方で、その背景には「目に見える神殿」と、それを取り巻くすべての世俗的利権を手放したくないという姿勢がありました。福音書のあちこちでイエスが既存の宗教体制とぶつかる場面を見ても、すべての衝突の核心には、イエスのメッセージと既得権を固守する宗教指導者たちの貪欲の対立があるのです。

張ダビデ牧師が強調するように、「教会」という名の下、あるいは個々人の信仰の囲いの中にも、同じ問題が起こり得ます。すなわち教会が本来の霊的役割を失い、世俗的欲望や権力に向かうのであれば、それはエルサレム神殿を商売の家とした者たちと変わらないということです。また、個人であっても教会に通いながら、心の奥底では依然として自分の小さな神殿を守ろうとし、福音に抵抗し得るのです。しかし「聖殿を取り壊せ」というイエスの言葉は、信仰者であれば誰であっても力強く響かなければならず、内に築かれたあらゆる利己的な神殿を解体するときにこそ、初めて「復活の神殿」が建て上げられるのだと悟らねばなりません。

まさにここに十字架の精神が際立ちます。イエスはみずから「わたしが命を捨てるのは、それを再び得るためである」(ヨハネ10:17)と仰り、ご自分の身体を壊し、三日目によみがえるという約束を実行されました。それは言葉だけでなく、実際に十字架の道を通して証明されます。キリスト教の核心教理であるキリストの死と復活こそ、「神殿の破壊と再建」という象徴的行動と深く結びついている点が重要です。「聖殿を取り壊せ」という言葉は、決して暴力的破壊や否定的意味ではなく、「古いものの死と新しいものの誕生」を示す福音の核心であることを思い起こすべきです。

ヨハネの福音書8章に登場する「姦淫の現場で捕えられた女」の事件も、律法と福音との衝突の場面であり、ここでもイエスは偽りの宗教権力から脅かされます。モーセの律法によれば石打ちの刑に処すべきこの女を、イエスは最終的に赦され、「あなたがたのうち罪のない者が最初に石を投げなさい」(ヨハネ8:7)と宣言されました。これは律法よりも大きな神のあわれみと赦しの法を宣べ伝えられたことになります。これも既存の宗教体制からすれば、衝撃的な「律法破壊」に映ったのです。だからイエスが捕えられた後に、ステパノも同じ理由で捕えられて石打ちに遭いましたが、彼にかけられた罪状の一つが「この人は神殿を壊すと言い、またモーセの律法を変えようとしている」というものでした(使徒6:13-14)。

結局、「聖殿を取り壊せ」というイエスのメッセージは、外形的制度や律法にとらわれた信仰ではなく、霊なる神ご自身との直接的な交わりへ進みなさい、という宣言なのです。そしてその中心には自己否定と献身、罪人に対する無限の赦しが据えられています。張ダビデ牧師は、「自分の中の利己的な聖殿を取り壊し、その場所に主の十字架の精神を据えることで初めて、真の教会と聖霊のみわざが始まる」と指摘します。そしてこれこそ福音書全体、特にヨハネの福音書が語るイエス・キリストの核心的な働き、すなわち「和解と救い」へ向かう道なのだと説くのです。

再びヨハネ2章に戻ってみると、イエスはすでに復活後を見越して「三日でこの神殿を建て直す」と言われました。弟子たちも実際に復活の出来事を経験して初めて、この言葉の意味を悟りました(ヨハネ2:22)。イエスの十字架の死がなければ復活もなく、古いものを徹底的に壊さなければ新しいものは起こらない、という福音的真理が、まさに神殿破壊宣言の中に圧縮されていたのです。これは現代の教会や信徒にとっても依然として有効であり、自分だけの「宇宙の中心」のように思っているものを思い切って捨てよ、という召しでもあります。

張ダビデ牧師が牧会活動の中で強調するのは、キリスト教信仰は決して安全地帯にとどまるのではなく、常に私たちに挑戦を与え、揺り動かし、「偽りの宗教心」と戦うように導くということです。「聖殿を取り壊せ」というメッセージは、単なる教理的な文言ではありません。各人が持つ頑なな城壁や、人を裁く視線、自らの栄光を求める貪欲など、あらゆるものを下ろしなさいという招きなのです。この招きに応じないならば、イエスの時代の宗教権力者たちと同じように、不純なものに安住したまま真の福音を排斥してしまう可能性があるという警告が含まれています。しかしこの呼びかけに従順し、自分を低くし、自己を否定するときに、はじめて十字架の栄光と復活の栄光を共に体験できるのだと張ダビデ牧師は繰り返し説きます。

宗教権力との衝突が極みに達した十字架の出来事を詳細に見ていくと、イエスの到来は古い律法主義と堕落した構造を打ち砕く「革命的行為」だったことがわかります。そして「聖殿を取り壊せ」という一句は、その革命の中心思想、すなわち十字架の犠牲の精神を洞察する鍵として働きます。張ダビデ牧師は、この箇所において、信仰者が真に成熟するためには、この「神殿破壊と再建」を通るしかないと語ります。律法を文字通り守ることや、教会内での儀式や制度的枠組みを守るだけでは限界があり、結局は古い自分を徹底的に打ち砕き、キリストと連合する過程を経てこそ、本当の「霊的神殿」が形成されるというのです。

さらに、この十字架の精神がなければ、教会は結局、旧約時代の祭司たちと同様に、権力と金銭の媒介となって堕落しやすいと警告します。エルサレムのように神殿の清めが必要だったように、現代の教会も内外を問わず絶えず「清め」が求められます。これこそ「聖殿を取り壊せ」というイエスの言葉を、今私たちが改めて思い起こす理由です。壊すべきものに目を閉じ、覆い隠しておくことは、決して福音が求める態度ではありません。むしろ教会や個人が信仰告白のうちに自らを省察し、堕落や変質を見つけたならば惜しみなく捨て去る決断が必要です。そうしてこそ、聖霊が臨在される新しい教会の姿、すなわち「主のからだなる神殿」が目に見える形で現れ始めるのです。

結論として、張ダビデ牧師は「聖殿を取り壊せ」という本文を解説しつつ、これこそ「私が死に、主が生きる道」であり、「古い律法的枠を乗り越える福音的自由」へと至る始点なのだと強調します。そしてこのメッセージを十分に受け止めた人は、自発的に自分を空しくし、隣人や教会に仕えるようになります。十字架の精神が具体的に実践されるところには、どんな垣根も、争いも、差別も立つ余地がありません。その聖なる道こそイエスが開かれた「神殿破壊と再建」の道であり、私たちすべてが通るべき十字架の道である、と教えているのです。


小見出し2: 和平の道と聖の時代、そして教会の本質

「聖殿を取り壊せ」という宣言が、単に過去のユダヤ教体制に対する物理的破壊ではなく、「新しい時代」の開幕を告げる霊的宣言でもあったことは、使徒の働きの展開とも絡み合っています。イエスの死と復活の後、弟子たちはペンテコステ(五旬節)の聖霊降臨を通して、福音がどれほど拡張性と普遍性を持っているかを体験しました。特に使徒の働き2章を見ると、120名の弟子たちが集まっていた場所に聖霊が臨まれ、皆が神を賛美してそれぞれ異なる国の言葉で語りだします。この恵み深い出来事によって、かつてのように特定の階層や制度権力の指導者だけが神の臨在を味わうのではなく、誰でも聖霊を受ける時代が開かれたのです。

張ダビデ牧師は、このような聖霊の働きにこそ「聖殿を取り壊されたイエスの意図」がいっそう具体的に表れていると見ます。かつてはエルサレム神殿が信仰生活の絶対的中心でしたが、今は復活されたイエス・キリストご自身が、私たちの「聖なる礼拝の対象」となり、そのお方を通して臨まれる聖霊が新時代の礼拝の場所となったのです。さらに使徒たちは、「あなたがたこそ神殿なのだ」(コリント第一3:16、6:19 など)と宣言し、今や共同体の中に神の御霊が住まわれ、キリスト者一人ひとりが「生きた神殿」であり、同時に「一つに結ばれたからだ」であることを教えました。

しかし、この「新しい神殿」が建てられるためには、必然的に「古い神殿」が取り壊される必要がありました。イエスが十字架にかけられた際、神殿の幕が上から下まで裂けたという報告(マタイ27:51)は象徴的に、もはや旧約の制度的神殿が神と人との唯一の媒介ではないことを示しています。今や誰でもキリストを通して大胆に神に近づくことができ、大祭司や特定の儀式に縛られない自由が宣言されたのです。これは救いの歴史における画期的な変化であると同時に、旧来の宗教権力体制にとっては致命的な打撃でした。ゆえに「聖殿を取り壊せ」というイエスの言葉は、単に建物を取り除こうとか、過激な反体制運動を起こそうとする意味ではなく、「聖霊の時代」が到来する転換点を前もって告げる宣言だったと解釈できます。

エペソ人への手紙2章でパウロは、イエス・キリストの働きを「敵意という隔ての壁を、ご自分の肉において取り壊された」(エペソ2:14)と要約しています。これはユダヤ人と異邦人の区別が取り除かれ、すべての人がキリストにあって新しいひとりの人となった、という宣言でもあります。当時のユダヤ人は、エルサレム神殿の庭においても異邦人が立ち入れる区域を厳しく制限しており、その壁を越えれば死刑に処されるほどでした。しかし今やキリストにあって、そうした差別の壁は打ち壊され、「新しい人」(エペソ2:15)として造り出され、すべての人が神の家族となったのです(エペソ2:19)。

張ダビデ牧師は、このエペソ書の教えを教会共同体に直接適用し、「真の教会には差別が存在し得ない」と言います。これは単に組織的な平等を掲げるという意味ではなく、十字架と復活によって「自分の古い自己が完全に壊され、ただイエスによって新しく生まれ変わった」ことを実際の生活で証しする共同体ということです。もし教会の中に依然として差別や壁があるならば、それはまだ取り壊されるべき「古い聖殿」が残っているからだ、と解釈することもできます。「聖殿を取り壊せ」という言葉は、個人および共同体が自分の内にある排他的境界、憎しみ、不義な特権などに気づいたとき、それを十字架の前で徹底的に悔い改め、その壁を壊す生き方へと招きます。

実際、イエスの福音は取税人、娼婦、異邦人、女性、社会から排除された人々を受け入れ、むしろ彼らを天の御国において高くされるという姿を至る所で示します(マルコ2:15-17 など)。これは古い律法的思考に染まっていたユダヤ人たちには革命的メッセージでした。エルサレム神殿の牛や羊、鳩を売る商人たちは「過越のいけにえ準備」という制度的必要を悪用し、貧しい者たちまで搾取していましたが、イエスは取税人をはじめ、罪人扱いされる人々を食卓の交わりへ招かれました。そして教会は、こうしたイエスの宣教のやり方と精神を受け継ぎ、すべての人を礼拝共同体へと招く「開かれた聖殿」となるべきでした。

しかし現実的には、教会は歴史の中で時に聖職階級と権力が結びつき、初代教会の精神から遠ざかる姿を見せることもありました。宗教改革期にマルティン・ルターやツヴィングリ、カルヴァンなどが「堕落した聖殿を壊し、福音の純粋性を回復しよう」と叫んで新しい流れを生み出したのも、イエスの「聖殿を取り壊せ」という言葉を時代ごとに再解釈した出来事と言えます。張ダビデ牧師も、現代の教会が危機に瀕したとき、この言葉を改めて呼び覚まし、私たち自身を省みて聖霊の導きのもと、古い構造を壊す改革を恐れてはいけないと教えています。

特に教会が世の「和平」と「和解」を実現する使命を担うには、まず内部での一致を成し遂げ、「キリストの血によって贖われた共同体」であることを忘れないことが重要です。イエスはご自分の肉体を「神殿」と呼ばれ、それを壊し三日後に建て直すと語られましたが、これは十字架の死と復活によって完成される贖いの出来事を象徴します。この贖いの結果として最も特徴的なのは、「聖霊降臨によってすべての人が神の前に等しく立てるようになった」という事実です。男や女、老人や若者、異邦人やユダヤ人(使徒2:17-18)の差別が取り除かれた聖霊の時代が開かれたのです。

教会がこうした聖霊の時代精神を受け継いで「聖殿破壊と再建」のメッセージを自らに適用しないならば、すなわち自分自身を振り返り悔い改めることを怠るならば、いずれアンナスやカヤパの道を辿る危険があります。張ダビデ牧師は、「教会が十字架の福音を第一にせず、教権争いや財政問題をめぐって互いを非難し合うなら、すでに偽りの聖殿に囚われている状態だ」と率直に言います。こうした状況では聖霊の力が現れるはずもなく、むしろ世から非難されるばかりです。したがって「聖殿を取り壊せ」という言葉は、二千年前のユダヤ教体制への宣言だけではなく、今の私たちの教会が現実の中で直面するあらゆる不義・高慢・分裂を捨て去りなさいという切迫した命令でもあるのです。

一方で、張ダビデ牧師は個人の内面に対しても同じ論理を当てはめます。「聖殿を取り壊せ」とは、共同体レベルの教会改革だけでなく、各信徒が自分自身の内面を省察する行為でもあるのです。ヨブ記に「神と対面した者は、自分をちりと灰の中で悔います」(ヨブ42:6)とあるように、神の前で自分の罪性や限界をありのまま認めるときこそ、主の恵みが臨まれます。しかし多くの人間は「自分だけの聖殿」を守ろうとし、その中で安心感を得ようとする本能を持ちます。張ダビデ牧師は、その聖殿を取り壊すことこそ「真実な悔い改めと聖霊の内住」のために不可欠の過程だとし、それを十字架の生き方、すなわち「自己否定と自発的犠牲」というキーワードと結びつけます。

「わたしはキリストと共に十字架につけられた」(ガラテヤ2:20)というパウロの告白は、「聖殿を取り壊すこと」を非常に過激に表現した信仰告白とも言えます。パウロは、パリサイ派として律法の義については落ち度のない者でした(ピリピ3:4-6)が、ダマスコ途上でイエスに出会った後は、それらすべてを「廃物」とみなし(ピリピ3:7-8)、イエスと共に死んで新しい被造物として生きると宣言します。これこそイエスの「聖殿を取り壊せ」という福音の実践であり、復活信仰の実際的適用だというわけです。したがって真の教会とは、このパウロの姿勢を見習い、かつて誇りや拠り所にしていたものをすべて主の前に下ろし、ただ主の命によって立ち上がる場所だと言えます。

現代社会は分裂や対立、排除や暴力が蔓延していますが、一方で「共により良く生きる道」を模索する人も少なくありません。イエスの福音がこの地にもたらす解答は「敵をも愛し、互いに足を洗い合い、必要があれば自分のものを手放して隣人を生かす」という急進的な愛と犠牲です。その根本は十字架の精神であり、「聖殿を取り壊せ」という自分を空しくし、降りる姿勢が不可欠です。張ダビデ牧師は、この点においてキリスト教信仰の独自性が際立つと強調します。世のイデオロギーや哲学もそれぞれ理想を唱えますが、「聖殿を自ら取り壊される神」という福音ほど急進的なメッセージはないというのです。神が人となり、その方が死ぬことによって新しい命が開かれたという出来事自体が、信じられないほど破格的だからこそ、これを心から受け入れた人は生き方そのものが根本的に変わらざるを得ない、と彼は教えます。

教会の礼拝も同様に、「聖殿を取り壊す精神」が込められていなければ、結局は形式的で抽象的な儀式に終わってしまいます。礼拝とは主の前に自分を下ろし、互いに仕え合い、罪人までも受け入れる場所であるべきなのです。そうすることで聖霊は共同体の内に働かれ、教会の肢たちは「あなたがたのからだが、あなたがたのうちにおられる神の御霊の宮であることを知らないのですか」(コリント第一6:19)という御言葉を体験するようになります。張ダビデ牧師は、この霊的原理を韓国の教会、さらには全世界のキリスト教共同体が改めて掴むべきだと訴えます。なぜなら時代がどれほど速く変化しても、福音が持つ「低くなることと取り壊されることの力」は決して変わらず、むしろますます切実になっているからです。

さまざまな文化圏で福音が伝えられるときに生じる問題も同じです。聖殿を取り壊す行為、すなわち自分が築き上げた最高権威や伝統を捨てることは、容易なことではありません。しかし五旬節の聖霊降臨以降、福音は言語・文化・人種・身分の壁を超えて伝播していきました。世界各地で信仰を持つようになった人々は、それぞれの「小さな聖殿」を取り壊し、キリストの肢となる道を経験してきたのです。現代でもキリスト者になるということは、「誰がユダヤ人で、誰が異邦人か」を問わず、共に聖霊の内で一つになるしるしを持ち続けることを意味します。これがヨハネの福音書の「聖殿を取り壊せ」という宣言が、最終的に人類普遍的な救いの道へつながる核心的理由なのです。

張ダビデ牧師は、牧会の現場や多様な宣教活動を通して「教会こそイエスの神殿」であることを説き続けると同時に、その教会が世俗的権力や物質的誘惑に陥らないよう再三強調してきました。イエスの時代のエルサレム神殿が神殿税や犠牲の供え物を介して民を搾取していたように、現代の教会も教会財政をまるで私的利益のように扱ったり、教権を利用して信徒を支配しようとする姿を見せる可能性があるからです。そしてそうした事態が繰り返されれば繰り返されるほど、「聖殿を取り壊せ」というイエスの声は、いっそう切実に聞こえてこなければなりません。その声に従い、教会が悔い改めと自浄を実践するときにこそ、ようやく世は教会への信頼を回復し、福音の真の光が顕れるのです。

こうした文脈で、「聖殿を取り壊せ」という言葉を単なる過去の出来事として片付けてはなりません。イエスがおっしゃったこの挑戦的宣言は、二千年の教会史の流れの中で、絶えず改革とリバイバルを促してきた根本原理でした。さらに個人においても、信仰が深まれば深まるほど、私たちはますます自分を捨て、「自分の欲望の聖殿」を主の御手にゆだねて取り壊していただく必要があります。その過程を通してこそ真の自由と喜びが生まれ、共同体の一致が実を結ぶ姿を見ることができるのです。

結局、ヨハネの福音書18章でイエスが捕えられ、その宗教裁判の中で「おまえが犯した罪をはっきりさせろ」といった形で追及された背景には、イエスのメッセージが宗教権力者たちにとっていかに脅威的だったかが端的に示されています。その核心は単なる教理論争ではなく、「聖殿を取り壊せ」という言葉が、大祭司や既得権を持つ者たちにはどうしても容認し難い、自分たちの基盤を揺るがす革新的な教えだったからです。しかしイエスはひるまず、十字架において実際にその身を裂かれることでこの言葉を成就されました。そして三日後に復活されることによって、誰も想像できなかった「新しい聖殿の時代」を切り開かれたのです。

張ダビデ牧師は、福音のこの結末が「私たちも聖殿を取り壊してこそ、キリストの復活の命を味わうことができる」という教訓を、決して忘れないようにするための招きだと解釈します。自分を否定し、古い自分を十字架につけるときにだけ、復活の喜びが本当に自分のものになるからです。教会内の紛争や家庭・社会での不和も、根底をたどれば「自分の聖殿」を手放せないために起こります。しかしイエスは「和平の道」(エペソ2:14)へ私たちを招かれ、その御からだによってあらゆる隔ての壁を壊してくださいました。「聖殿を取り壊せ」という挑戦の後には「わたしが再び建てる」という約束が続いており、その約束は決して私たちを滅亡に導くのではなく、むしろいっそう豊かな命へと導く神の救済のご計画なのです。

イエスに石を投げようとした人々、またエルサレム神殿を絶対視していた人々は、結局、復活の輝かしい意味を当初はまったく理解しませんでした。しかし聖霊降臨の後、弟子たちは力強くこの知らせを伝え、ステパノも同じ理由で殺されましたが、彼の血がかえって福音宣教の種となりました。「聖殿を取り壊せ」という福音的挑戦は、ときに私たちを迫害へと導き、世や既得権を持つ宗教層から攻撃を受けることもありますが、その道の果てには復活の勝利があります。教会がこの事実を忘れないならば、いかなる挑戦や非難にあっても真の教会の本質を守り抜くことができるでしょう。

要するに、「聖殿を取り壊せ」というイエスの言葉は、愛と和平、救いと犠牲が交わる十字架信仰の精髄です。イエスは「わたしが捨て、わたしが壊されるとき、新しいものが生まれる」と言われ、それをみずから実践されました。今やその道に従う教会と信徒であるならば、当然「主の家を思う熱心がわたしを焼き尽くす」(詩篇69:9)という告白を共有すべきです。ただしその「主の家」は、決して外面的な建物や制度だけを指すのではなく、「あなたがたこそ神の神殿である」という霊的実体として現れます。この内面的聖殿は、十字架と復活の力、そして聖霊の臨在によってのみ建て上げられ、その結果、差別や壁が取り払われる共同体が誕生するのです。

張ダビデ牧師は、この点を「福音の革命性」と呼びます。古い枠や罪性を維持したまま、同時に福音の新しさを味わうことは不可能であり、必ず壊してから建て直さねばならないというのです。これがイエスが罪人に示された「赦しの構図」であり、ご自分を低くされた神が私たちに招いておられる「和平への道」です。究極的には、この道こそが信仰者個人と共同体が真の教会となることを完成させていくプロセスであり、聖霊が大きく開いてくださる「神の国」へ導く狭い門なのです。

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受肉と十字架 – 張ダビデ牧師


1. 約束としてえられた福音と受肉の神秘

張ダビデ牧師が講義したローマ書1章2~7節を黙想しつつ、私たちはまず、パウロが伝える福音とは何であり、その福音がなぜ私たちの間に「約束の成就」として現れたのかを深く考えることができます。張ダビデ牧師はこの聖句を通して、福音が決して人間の理論や思想、あるいは個人の私的な意見などではなく、徹底的に神の約束から始まっていることを強調します。すなわち「この福音は神が預言者たちを通して、その御子に関して聖書にあらかじめ約束されたものである」(ローマ1:2)という御言葉には、神が人類の歴史の中ですでに遥か昔から、この福音が宣べ伝えられることを計画しておられたという驚くべき摂理が込められているのです。

私たちは、福音が“天から突然落ちてきた”未知の教えではなく、旧約時代を通して継続的に予言されてきた「キリスト」というお方に関する具体的な約束であったことを忘れてはなりません。ここでパウロが語る福音の核心は、「神の御子が肉体をもって来られた」という宣言に要約されます。パウロはローマ書1章3節で「御子に関して言えば、肉によればダビデの子孫として生まれ…」と証言し、イエス・キリストが私たちと全く同じ人間として地上に来られたことを宣言しています。聖書の予言はすべてこの事実を指し示していました。神は歴史の中で預言者たちを通じてご自身の摂理を折々に示され、その最終的な完成がイエス・キリストの「受肉(インカーネーション)」によって現れたのです。

張ダビデ牧師はここで「キリスト教は罪人のための宗教である」という事実を改めて強調します。イエスが義人を招くためではなく、罪人を探しに来られたという福音書の宣言が、まさにこの受肉の出来事に含まれているからです。イエスは罪人たちの生活のただ中に住まわれました。「肉によればダビデの子孫」として生まれたという一節は、単にイエスがダビデ王朝の子孫だという歴史的・系譜的事実を述べるにとどまらず、全能なる神が本当の人間としてこの世に入ってこられたことを告げる象徴的な表現なのです。

この受肉の出来事は、キリスト教信仰における最大の特徴であり、かつ逆説でもあります。パウロはピリピ書2章6~8節でこれを「ケノーシス(Kenosis)=自己を空しくすること」と呼び、イエス・キリストが本来神と等しいお方でありながら、しもべの姿を取り、人と同じようになられたことを力強く宣言します。真なる神であると同時に真なる人となられた(「真の神であり真の人」、Vere Deus & Vere Homo)というこの驚くべき真理こそ、キリスト者が信じる「福音」の決定的な根拠なのです。

パウロはローマ書1章3~4節において、このケノーシスと受肉、そしてその結果として起こったイエス・キリストの死と復活を、短くしかし強烈に要約しています。イエスは人間として来られ、十字架で死なれ、そして聖なる御霊によって死者の中からよみがえられました。これこそがパウロの言う「神の御子として宣言されたイエス・キリスト」(ローマ1:4)です(口語や新共同訳では「宣言された」と訳される部分が、かつての文語や改訳によっては「御子と定められた」「御子と認められた」などと表現されます)。人の目には罪人の姿で死んだかのように見えましたが、神の目には「死を打ち破る者」として認められた――その意味がここに込められています。

福音とは、まさにこの歴史的・実存的な出来事を指し示します。キリスト者が伝えるメッセージは「罪人を救うイエス・キリスト」についての物語であって、人間の道徳的教訓や抽象的哲学ではありません。パウロの時代、ギリシアの哲学者たちは「真理(ロゴス)」を探し求め、生涯を投資しましたが、最終的には「人間の力」だけではそのロゴスに至れませんでした。しかしヨハネの福音書1章は宣言します。「言(ことば)は肉となって、私たちの間に住まわれた」(ヨハネ1:14)。すなわち、あらゆる哲学者や賢者が切に求めていた真理が、実際に人となって地上に住まわれたというのです。パウロはローマ書1章でこれを「ダビデの子孫として来られた」神の御子と呼び、同時に「死者の中からの復活によって力ある神の御子と宣言された」と語ることで、イエスが歴史の中で真の人となられ、かつ神の御子であることをはっきりと証ししています。

張ダビデ牧師は、この福音の前に立つとき、私たちの知性や理性を超えた「恵み」が臨むのだと教えます。これは「無条件の愛(Unconditional Love)」と「全き贈り物(Surprising Gift)」とも言い換えられます。福音を知らずに生きていた罪人が、このメッセージを聞いて「自分のために低くなられたキリストの愛」を思い涙する――それがまさに恵みです。パウロ自身もこれを体験しました。かつては「教会を迫害し、キリスト者を残酷に弾圧していた罪人」だったにもかかわらず、彼を探し当てたイエス・キリストの愛に完全に打ちのめされたのです。彼はそこから直ちに福音の使徒となり、最も熱心に福音を叫び、教会を建て上げ、この「約束の福音」を伝えるために生涯を捧げました。

結局、福音は「救いのメッセージ」であり「歴史の完成」です。神がお送りくださった約束の御子イエスが人間として来られ、十字架と復活によって罪と死を打ち破ってくださいました。このことがすでに預言者たちによって約束され、実際に私たちの目の前に顕現した。それこそが福音であり、だからこそ福音は私たちの人生を覆します。さらに「あなたがたの心の中でキリストを主としなさい」(1ペテロ3:15)と生きる者は、必ずこの福音について問う世に対して答えを準備しなければなりません。その答えこそが「証」であり、「私が聞いた福音、私が出会ったキリスト」をそのまま伝えることです。

パウロが「私は十字架と復活以外に誇るものはない」と言うのも同じ文脈です。私たちの宣教や伝道は、自分の考えや知識を誇示する場ではありません。ひたすら「私のような罪人を生かしてくださったあの十字架の愛」と「私を新しい命へと呼び起こしてくださった復活の権能」を明かしするだけなのです。もし誰かが福音についてたずねてきたら、私たちは「キリストがいかに私の人生に入ってくださったのか」「どのように私を変えてくださったのか」「どのように永遠の希望を抱かせてくださったのか」を証言すればよいのです。パウロも自身の手紙の冒頭を「私は福音のために召された者です」という告白で始め、その福音が何であるか、そしてその福音のうちで自分が何者であるかを明かしました。

最終的に、「福音」は世に対抗する神秘的理論や寓話ではなく、神の預言者たちがずっと以前から予言してきてイエス・キリストのうちに成就した現実的な出来事です。そして福音とは、聖なる神が罪人である私たちを直接探しに来て救おうとされる「愛の物語」でもあります。張ダビデ牧師はこの受肉の愛の物語を通じ、「神の御子が自ら私たちの中に来られた」ということこそがキリスト教の核心であると強調します。主ご自身が私たちの中へ来られたからこそ、私たちは罪の鎖から解き放たれ、新たな希望と命を得るようになったのです。

さて、この福音が与えられたとき、私たちの態度は自然に「信じて従う」ことへとつながらなければなりません。これがパウロの言う「異邦人たちの間でも信仰の従順をもたらすために」(ローマ1:5)という言葉の意味です。かつては全く救いの契約の外にいた者たちが、今は神の恵みによって福音を聞き、その福音の力を体験するようになりました。そしてこの福音のうちで「信じて従う」者となった彼らは、過去とは全く違う生き方をするほかありません。罪の習慣に縛られていた過去から、イエス・キリストの十字架によって罪の赦しを受け、復活によって与えられた命の力に支えられながら、神に栄光を帰す新しい人生を始めるのです。

パウロがローマ教会の聖徒たちを「聖徒として召されたすべての人々」(ローマ1:7)と呼ぶことができたのも、この福音の力によるのです。巨大な文明であるローマ帝国のただ中で、キリスト者たちは世の支配理念や多神教的風潮と衝突しながらも、むしろ福音の価値を堅持し、大胆に福音を伝えました。その結果、人間の目からすれば取るに足りない少数集団に過ぎなかった教会共同体が歴史を動かしてきたのです。パウロがローマ書全体で福音の力と義、そしてその福音によって変えられた生き方を繰り返し伝えるのも、このためです。

受肉とは「言(ことば)である神」が人となられたという途方もない神秘であり、同時に私たちにとっては「絶望を突き破って入ってきた光明」です。完全なる真理であり永遠の光であられる神が、罪と闇に囚われた人間の中にみずから入ってくださったということは、それ自体が希望の宣言です。抽象的哲学や人間の思想でとどまりがちな領域を越えて、実際に私が出会い体験できる「人格的真理」となられたのです。これこそ受肉の偉大さです。ここから福音は、ただ耳で聞くだけの噂話ではなく、胸を突き動かす「生命力あるメッセージ」となります。

一方で、この受肉の出来事は私たちに「聖なる生き方への招き」というメッセージを投げかけます。イエスが私たちと同じ体を取られたということは、ただ私たちを救うために一時的に人間の衣を借りられたのではなく、私たち自身もキリストに倣う聖なる人格と生き方を歩む道を開いてくださったことを意味します。パウロが「聖徒として召されたすべての人々」(ローマ1:7)と呼ぶとき、それはすなわち「イエス・キリストが歩まれた道を共に歩む者」という意味です。聖書に登場する人物たちを見れば、彼らが決して罪や欠点のない完璧な人々でなかったことは明らかです。しかし彼らは神の救済史の中でキリストの恵みを身にまとい、イエスが示してくださったへりくだりと犠牲、そして復活の力を倣って、新しい命の道を歩みました。これが「聖徒」の本質です。

結局、大事なのは「受肉によって歴史に来られたイエス・キリスト」を知的に理解するだけで終わらず、その自己卑下と犠牲を「生き方」で示すことです。張ダビデ牧師が繰り返し説教で強調するのも、まさにこの点です。教会に所属していても、イエスの受肉と十字架、そして復活の現実的な意味を自分の人生に体現していなければ、それは結局「頭の知識」で終わる宗教行為にすぎません。真のキリスト者の福音証言は理論ではなく「私はイエスにこうして出会った。私の罪と死が、主の十字架と復活の中でどのように解決されたかを実際に経験した」という証しでなければならないのです。

私たちは世にあって、ときに疲れ、絶望することがあります。人間社会の不正や苦難、病や死はどんな時代にも存在してきました。しかし「ダビデの子孫として来られたイエス・キリスト」を仰ぐとき、その受肉において「神は本当に私たちを見捨てなかったのだ!」という愛の確証が与えられます。主が十字架につけられ復活された出来事のうちには、「最後まで私たちを離さない神の聖なる情熱」を確認することができるのです。パウロが「恵みと平安」(ローマ1:7)に言及し、その恵みがまさにこの愛から流れてくると語るとき、それは「どんなに私が弱く罪深くても、決して見捨てることのない神のご意志」がイエス・キリストの受肉と十字架・復活を通して鮮明になった、という意味なのです。

受肉に対する正しい理解は、「完全な福音理解」へ私たちを導きます。イエスを完全に神としてのみ考えれば、人間の痛みや誘惑を経験された事実を見逃してしまい、完全に人としてのみ考えれば、なぜ私たちがその方を礼拝し、その方が永遠の命の主権者であるのかを見失います。パウロはローマ書1章3~4節で「真の人」であるイエスと「真の神」であるイエスを同時に示すことで、キリスト教信仰の核心であるキリスト論の骨格を明確に示しています。イエスはダビデの子孫として来られた真の人であり、死からの復活によって神の御子として宣言された真の神です。この二つの軸が揺るがないとき、初めて福音が正しく理解され、伝えられるようになるのです。

したがって、ローマ書1章2~7節から私たちが汲み取る最終的なメッセージは、一つ目に「約束にしたがって来られたキリスト」ということであり、二つ目に「キリストが私たちと同じ肉を取って来られることで、罪人である私たちに命の門が開かれた」という事実です。この約束が成就される過程の中で、旧約の預言や預言者たちの警告と希望、さらにはイスラエルの歴史に続いてきた神の摂理は、すべて「キリストの受肉」のための準備であったことがわかります。さらに言えば、ローマの道路が整備される過程さえも福音伝播の準備として用いられた、とも言えるわけで、神のご計画は実に広範囲かつ緻密です。そのすべての結論は、歴史の中で「神の御子イエス・キリスト」が実際に来られたという点であり、それを信じて従う者たちに今、恵みと平安が与えられるのです。


2. 十字架と復活によって完成した福音の力

パウロがローマ書1章4節で「聖なる御霊によれば、死者の中からの復活によって、力ある神の御子として宣言された」と宣言するとき、ここに福音の二つ目の重要な柱がはっきりと現れます。すなわち「十字架と復活」です。張ダビデ牧師が説教でしばしば強調するように、福音は単に「イエスが来られた」という事実だけで終わりません。イエスの生涯、特に十字架の死と復活の出来事がなければ、福音は不完全なままなのです。

受肉は「神が私たちと共におられる」という宣言であり、十字架は「その神が私たちのために死なれた」という宣言であり、復活は「私たちのために死なれたその神が再び生きられた」という決定的な証拠です。パウロはこの復活の事実によって、イエスこそが真に「神の御子」であることが公に(力あるかたちで)証明されたのだと述べています。人間にとって最大の問題である罪と死の支配が、イエスの復活によって完全に無力化されたため、イエス・キリストを信じる者たちはキリストにあって「新しい命」を得るのです。

パウロはコリント第一の手紙15章で、「もし復活がないなら私たちの信仰も虚しく、私たちが宣べ伝えている教えも虚しい」と明確に語っています(1コリント15:14以下)。つまり、十字架の愛だけではまだ完成された福音とは言えず、必ず復活を通じて「罪の報いである死」が克服されなければならない。イエスは実際に歴史の中で死なれ、その肉体は墓に置かれましたが、「死の苦痛につながれていることができない」方でした(使徒2:24)。ゆえにイエス・キリストの復活は、イエスが「神の御子」であるというアイデンティティを最終的に“確定”する出来事なのです。

福音を信じるということは、その十字架と復活が「私」のためであるという事実を受け入れることです。「その愛が私を生かし、その復活が私に永遠の希望を与えた」という個人的体験が伴うとき、初めて福音は私の「命」となります。張ダビデ牧師はこの点を「自己告白」と呼び、「宣教とは自己弁証であり、自己証言であり、自己の証しである」と繰り返し語っています。つまり、自分が罪人であることを知り、イエス・キリストの十字架がその罪を赦したこと、そしてイエスの復活が私を新しい命へと導いたことを具体的に告白することが、宣教の始まりだというのです。

パウロ自身こそ、この真理を徹底的に経験しました。ダマスコ途上でイエスに出会って以来、彼は福音を伝えるために生涯を捧げました。彼が出会った「主」は、高い天から人間を見下ろす神的存在ではなく、十字架で殺された姿そのままであり、また彼が証言する「主」は、墓に閉じこめられた遺体ではなく、死を打ち破りよみがえられた方でした。だからこそパウロはローマ書1章4節でイエスについて、「死者の中から復活し、力ある神の御子と認められた」と宣言し、続けて「私たちの主イエス・キリストである」と最も完全な名を付けるのです。イエスは私たちの主、すなわち人生の主人であり、同時に旧約で預言されたメシア(キリスト)です。

ここで張ダビデ牧師は「ご自分を低くされたからこそ高くされているイエス」が、教会と信者に与えるメッセージの大きさを指摘します。世は高い地位や権力を追い求めることを成功とみなしますが、イエスは逆にご自分を徹底的に低くされ(ケノーシス)、最も惨めな形である十字架刑に処せられました。しかし復活と、父なる神の高めによって(ピリピ2:9以下)、私たちはイエスこそが真の「勝利者」であることを見ます。それは、その勝利が「愛の勝利」であり「犠牲の勝利」であることを意味します。結局、キリスト者の生き方とは、イエスのこの道をたどることなのです。

パウロが「この方によって私たちは恵みと使徒職を受けた」と告白する(ローマ1:5)のも同じ文脈です。イエスの十字架と復活によって、パウロ自身が全く変えられ、福音の使徒として派遣されたからです。そのためなら、投獄されても、鞭打たれても、命を失っても構わないとまで言い切るほど、パウロは福音の力を切実に体験し、その福音にすべてを懸ける者となったのです。

福音には「死を越える力」があります。これは世の権勢には与えられない解放です。死の恐怖の前で人間は無力ですが、「復活の初穂」となったイエス・キリストがその恐れの牢獄を打ち壊されたので、その方のうちにある者たちはもはや死を恐れる必要はありません(1コリント15:20以下)。パウロが「私は福音を恥じない」と宣言する(ローマ1:16)のも、福音こそが「すべて信じる者に救いをもたらす神の力」だからです。張ダビデ牧師はここで、信者が福音を自信をもって伝えられないのは、「十字架と復活の力の体験がはっきりしていないからだ」と指摘し、私たちは日々福音の核心である十字架と復活の前に立つべきだと説きます。

さらに「信じ従わせるために」(ローマ1:5)という表現が示す通り、福音を信じるとは最終的に従順へと結びつかねばなりません。イエスの十字架と復活を信じるなら、私はもはや自分のためだけに生きることはできません。私を救い、再び生かしてくださったのはイエスだからです。だから私たちの思いも言葉も行いも、その方の支配に委ねなければなりません。これこそ福音的従順の核心です。世的な目で見れば、自分の思い通りに生きようとする欲望を捨てることはあまりにも難しく映ります。しかし十字架と復活を真に信じる者であれば、最終的にイエスの御手に人生を委ね、その信仰は自ずと従順につながるのです。

パウロはローマ教会の聖徒たちに「神に愛され、聖徒として召されたすべての人々」(ローマ1:7)と呼びかけ、彼らに「私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安がありますように」と祝福します。ここで注目すべきは「私たちの父なる神」という表現です。かつては聖なる神を「父」と呼ぶこと自体がほとんど冒涜と考えられた時代がありました。しかし十字架と復活によって、イエスが「こう祈りなさい。天にいます私たちの父よ…」(マタイ6:9)と教えられたように、私たちは今や神を父と呼びうる関係となったのです。イエスをとおして義とされ、聖(きよ)められた(聖徒として召された)者たちにとって、神は父となり、私たちは子となりました。

このとき「恵みと平安」は、その子として召された者たちに与えられる霊的贈り物です。平安(シャローム)は旧約から神の民が最も切望してきた価値でした。しかしパウロはその平安がいかにして可能になるかを明確に語ります。それは「イエス・キリストの十字架と復活によって与えられる恵み」が前提となるのです。罪人は自力で平安を創り出せません。世が与える一時的な平安や、金銭や権力が保障する安定は長続きしません。しかしイエス・キリストの十字架と復活の恵みに入れられるとき、罪責感や死の恐れから解放される真の平安が魂に宿るのです。だからこそパウロは「恵みと平安」を一緒に結びつけて宣言するのです。

張ダビデ牧師は説教において、教会が単なる「私たちの宗教的趣味や集まり」の場ではなく、「十字架と復活の共同体」でなければならないと力説します。教会の中で真実の恵みと真の平安が分かち合われるためには、その構成員がイエス・キリストの死と復活を信じ、従う者たちである必要があるのです。十字架に自分が共に付けられて死んだことを信じ、復活によって新しい命に生きることを信じる共同体であれば、互いに対する赦しや愛、献身と仕え合いが自然に生まれます。しかしそうした信仰的基盤なくして「教会」という名前だけを掲げる集団は、対立や葛藤が生じた途端に世と何ら変わらない姿に陥りやすいのです。

結局「福音の完成」は、十字架と復活をとおしてもたらされる勝利であり、この勝利が私たちの生や共同体の中に現れるとき、私たちは真の教会となります。また、パウロが「私たちの主イエス・キリスト」と呼び、自分のあらゆるアイデンティティをその名のうちに置いたように、信者は「私の人生の中心はイエスである」と告白しながら歩む者たちです。もしその方がそこまで低くなり、犠牲を払い、命を与えてくださったのなら、私たちもまた隣人を仕え、この世を癒すために「犠牲とへりくだりの道」を選択すべきです。それこそが十字架の道であり、復活の命に従って生きる道なのです。

イエスの弟子として生きるということは、十字架と復活の延長線上で「自分を否み、主について行く生き方」(マタイ16:24)を意味します。これは自分の欲望や高慢を捨て、主の御心に従うことです。そうする中で、ついにはイエスが語られた「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い」(マタイ11:30)という言葉を実際に体験するようになるのです。外から見ると狭い道で険しい道に見えるかもしれませんが、本当の自由と喜びはまさにこの福音への従順にあるのです。

パウロが手紙の冒頭でローマ教会の聖徒たちに伝えたかった要旨は明確です。「イエス・キリストにあって与えられた約束の福音は、長い旧約の歴史の中ですでに予告され、受肉と十字架、そして復活によって完全に実現した。この福音によって私は使徒とされ、あなたがたもこの福音を聞いたのだから、ともに恵みと平安を分かち合おう。そしてその福音にふさわしい信仰と従順を捧げよう。」これがローマ書1章2~7節に込められたパウロの切なる挨拶であり、同時に教会の使命なのです。

張ダビデ牧師が強調するのも同じです。私たちは必ず福音のすべて、すなわち「来られた(受肉)」と「死なれた(十字架)」、そして「よみがえられた(復活)」を一つにまとめて伝えなければならないのだ、と。どれか一つだけを伝えたり、信じたりしてもだめで、三つのうち一つだけを強調するのも不十分です。イエスがこの地上に来られたという事実と十字架での死、そして復活によって勝利された神の御子であること――これを明確に証ししなければなりません。これこそ完全な福音であり、私たちを生かす喜ばしい知らせなのです。

今日も世にはさまざまな声が渦巻いています。ある人は人間の理性や知識だけで十分だと言い、別の人は快楽や物質的豊かさが人生の目的だと宣言します。しかし最終的にいかなる手段でも解決し得ない根源的な問題は「罪」と「死」です。この問題に対する答えは十字架と復活の中にしかありません。一時、キリスト教を「罪人のための宗教」と呼んで嘲笑する人もいますが、実のところその言葉こそ、福音の真髄を示す表現です。イエスが「わたしは義人を招くためではなく、罪人を招くために来た」(マタイ9:13)と仰せられた通り、キリスト教は罪人たちのための宗教です。そしてその罪人が「私たち皆」であることに気づく瞬間、福音は最も美しい希望のメッセージとして迫ってきます。

パウロのローマ書は、この希望のメッセージを体系的に展開した「福音の大憲章」と呼ばれています。その序文からパウロは「この福音が私を変えた。今はあなたがたもこの福音によって召されている」と力強く語ります。かつて教会を迫害したパウロが、今や教会を建てる使徒に変えられたように、神の愛はどんな罪人も変えてしまう力を持っています。そしてその愛の力は十字架と復活から出てくるのです。

結論として、ローマ書1章2~7節は福音の本質を簡潔ながら力強く示しています。福音は人間の哲学ではなく神の約束であり、その約束はイエスの受肉と十字架、復活によって完成されました。イエスは真の人として低くなられ、死を打ち破ることで力ある神の御子と証明されました。その方を信じ、従う者たちには恵みと平安が与えられ、新しいアイデンティティ(聖徒、つまりきよめられた者)と使命が与えられます。パウロが自分を「福音のために召されたしもべ」と呼んだように、私たちも福音を聞いて変えられ、いまは世の人々に福音を伝える器となります。

張ダビデ牧師はこのすべての教えの上に、「福音とはつまり愛である」というメッセージを付け加えます。イエスのへりくだりと死、そして復活の意味は、罪人に対する神の愛なしには語れません。最終的に福音とは「神はそのひとり子をお与えになるほどに世を愛された」という事実に対する最も確かな証であり、そのひとり子の十字架と復活を通じて私たちに及んだ救いの喜びです。この福音を受け取った者は、必ずその喜びと感謝によって「従順の実」を結ぶようになります。そしてその生き方こそが「福音の生き方」です。

要するに、私たちが覚えておくべき核心は、第一に福音はすでに約束されていたことの成就であり、イエス・キリストの受肉によって歴史の中で成し遂げられたという点です。第二に、その福音は十字架と復活によって完成され、その力が私たちを罪と死から解放し、真の平安へ導くという事実です。パウロがはじめから終わりまで宣べ伝える福音とは、この「神の御子イエス・キリスト」が私たちにもたらす永遠の救いのご計画であり、この福音は私たちの人生と世界を変え得る力を秘めています。

ローマ書の冒頭におけるパウロのあいさつは、単なる書簡の作法ではありません。それはすべての聖徒に与えられる祝福であり、同時に要請でもあります。「福音を信じて恵みと平安を味わいなさい。そして福音のために召された者としてふさわしく生きなさい。」これこそ張ダビデ牧師が説教で繰り返し強調する要点です。私たちは福音を聞いて、その福音の真理を理解したところで終わってはなりません。福音が私たちの中で生きて働くように、日々イエスの十字架を思い起こし、その復活の命を人生のあらゆる面で実践していく必要があります。そうすることで初めて教会は真の福音共同体となり、信徒個人も「聖徒として召された者」という呼び名にふさわしい生を歩むのです。

最終的に、私たちは「イエスがキリストである」ことを常に告白しなければなりません。この告白にはイエスの来臨(受肉)・死(十字架)・再び生きられたこと(復活)がすべて凝縮されています。パウロはこの事実をローマの聖徒たちに確信させ、「あなたがたも、彼らのうちからイエス・キリストのものとなるように召された人々」(ローマ1:6)と呼びます。教会は「イエス・キリストのもの」として召された人々の集まりであるがゆえに、その御名のため(ローマ1:5)世へ出て福音を伝えるのです。これが私たちが「聖徒として生きる理由」であり、福音が私たちに与える最も力強い使命です。

願わくは、ローマ書1章2~7節の御言葉を黙想するすべての人が、「イエス・キリストが私たちと同じ肉を取って来られた」という受肉の恵みと、「死を打ち破ってよみがえられ、神の御子として宣言された」という救いの力とを、心の奥底に刻むことができますように。そうして罪のくびきから解き放たれ、イエス・キリストにあって与えられる真の自由と喜び、そして従順の恵みを味わうことができますように。そしてこの福音の生き方を通じ、互いに愛し仕え合い、世に主の光を輝かす共同体を築いていくことができますようにと祈ります。

これは張ダビデ牧師が説教と宣教活動を通して常に目指していることでもあります。キリスト者であれば誰でも、この福音――すなわち受肉から十字架と復活へと至るイエス・キリストの全人格と働きを自らの人生に映し出すべきです。そうすることで初めて、パウロが「恵みと平安がありますように」と叫んだあの挨拶を現実に体験できるのです。「罪人」から「聖徒」へ、「絶望」から「希望」へと変えられるこの道のりこそ福音の真髄であり、ここに「キリスト教は罪人の宗教である」という言葉の真の意味が生き生きと息づくのです。

最終的に、福音の道のりは、私たち一人ひとりに対する神の召しに対する応答でもあります。あなたはイエスの十字架と復活をどのように受け入れているでしょうか。あるいは頭でしか知らず、まだ心では受け入れられていないでしょうか。パウロが証言し、張ダビデ牧師をはじめ無数の信仰の先人たちが繰り返し証ししてきたのは、「福音は実体である」という事実です。この現実を人生で体験し、その体験をほかの人々に証して、彼らもまた神の子どもへと新生するよう助けることこそ、教会の存在意義であり、信徒の告白です。

どうか私たちが今日この御言葉を握り、「約束の成就」として来られたイエスの受肉、そして「死を突き破った」イエスの十字架と復活をより深く黙想できますように。パウロが「福音によって私は召された」と叫んだように、私たちも「福音のために召された者」であることを忘れないようにしましょう。この召しに応答し、与えられた恵みと平安を味わい、全世界に福音を伝える聖なる通路とされることを心から願います。

そうして生きる人々が集う場所――そこが真の教会なのです。教会のしるしは十字架、教会の命は復活、そして教会の使命は「福音を伝えること」です。受肉によって罪人を探しに来られ、十字架によってその罪人を救い、復活によって永遠の命へと導かれる神をほめたたえながら、私たちがこの福音の物語とともに、今日も生きる者となるよう祈ります。

あわせて、ローマ書を学び続ける中で、パウロが「この福音によって私は召された」と告白した深い理由を、さらに完全に悟ることができるよう願います。それはパウロだけに当てはまる話ではありません。すべてのキリスト者は最終的に「福音ゆえに召された」のです。そしてその福音を通して罪人から義人へ、死から命へと移された存在なのです。この召しに感謝し、日常のすべての場面で福音が現実の力として働くように目を覚ましていましょう。

以上、ローマ書1章2~7節の黙想を基に、約束として与えられた福音と受肉の神秘、そして十字架と復活によって完成された福音の力をまとめてきました。張ダビデ牧師が多くの説教を通じて繰り返し強調してきたように、福音は私たちにとって「約束された愛の出来事」であり「命をもたらす力」であると明確に認識すべきです。そして私たちの言葉と生活のすべてによってこの福音を証しし、異邦人の中でも、また身近な隣人に対しても「信じ従うようにする」聖なる器として用いられることを心から願います。父なる神と主イエス・キリストがお与えくださる恵みと平安が、この福音を握るすべての人に満ちますように。

苦難と復活の序幕 – 張ダビデ牧師


1. アンナスの背後と宗教権力の

これは、張ダビデ牧師がヨハネの福音書18章12節から21節までの場面を中心に説き明かしたメッセージを黙想した文章である。本文は、イエスを捕えて尋問する宗教権力の暗い素顔を劇的に浮き彫りにする。その中で注目すべきは「まずアンナスのもとへ連れて行った」という表現である。これは単なる手続き上の問題を示すのではなく、当時存在した偽りの宗教権力の根源的な腐敗を示す決定的な手がかりとなっている。当時のユダヤ社会ではサンヘドリン公会が宗教裁判を主宰し、その議長は現職の大祭司が務めることになっていた。ところが、イエスを縛り上げた者たちが最初に引き立てた先は、現職の大祭司カヤパではなく、彼の岳父であるアンナスの家であった。これは多方面にわたり深刻な問題を示唆する。

アンナスは、かつて紀元6年から15年まで約9年間、大祭司の職を務めた人物であり、その後、自分の5人の息子をすべて大祭司に就け、最終的には娘婿であるカヤパにまでその権力を世襲させた、悪名高い人物である。本来、ユダヤ教の伝統的な祭司職は終身職であり、それだけ尊敬され権威ある地位であった。しかしローマ帝国がユダヤを支配するようになってからは、大祭司職が金銭と政治的コネによって左右される世俗的権力に成り下がってしまった。ローマは自分たちに協力的で財政的にも後ろ盾となる人物を大祭司に据え、アンナスはそのような構造の中で莫大な資金をローマに献上して祭司職を握り、一方で神殿の内部では売買と両替によって富を蓄積し、巨大な宗教的既得権を形成していたのである。

当然、このような人物にとってイエスの働きや教えは目の上のたんこぶであった。イエスは公生涯を通してエルサレム神殿に向かい、「この神の家を商人の巣窟にしてしまった」と叱責し、神殿をひっくり返して清められた。福音書のうちヨハネの福音書2章を見ると、イエスが神殿で鳩や羊、牛を売る者たちの台と両替商の金をまき散らしながら語られた場面が登場する。当時、「神殿の中で売られる生贄だけが検査に合格し、外から持ってきた生贄は無条件で不合格とされ、結局は神殿で高値の犠牲を買わざるを得ない」という構造が蔓延しており、その中心にまさに大祭司一族の利害関係があった。アンナスおよび彼に追従する宗教権力者たちは、この仕組みを通じて莫大な財を蓄え、神殿税や両替に関する収益も同じような構造でかすめ取っていたのである。

こうした状況の中、イエスこそが彼らの既得権を壊す最も脅威的な存在だった。アンナスは「律法を守る」という大義名分を自分にかぶせていたが、実際には最も聖であるはずの神殿を、自分の金と権力を守る手段に変質させ、あらゆる政治的裏取引を行い、ローマと結託して大祭司職を世襲し、富と名誉を保ってきたのだ。それゆえイエスが神殿を清め、「この神殿を壊せ。わたしは3日でそれを建て直す」と宣言されたのを聞き、アンナスはこの挑戦者をどうしても排除しなければならないと感じたのだ。宗教的暴政と強圧、そして偽りの法適用をもってでもイエスを捕らえること。それこそが彼にとって最優先課題だった。

では、なぜサンヘドリンではなく、アンナス個人の家でイエスが先に尋問されたのだろうか。ユダヤ人の宗教裁判は、律法上、夜に開くことは許されておらず、公正な裁判とするには必ず神殿の庭や公的に用意された場所で昼間に行われなければならなかった。さらに2名以上の証人が必要であり、裁判は公正に進行しなければならない。にもかかわらず、イエスを捕らえてきた者たちは闇夜にこっそりアンナスのもとへ連れて行った。現職の大祭司でもない過去の大祭司がイエスを尋問するという事態自体が不法であった。しかもイエスを死刑にする権限はローマ総督のみにあった(ユダヤ人には死刑執行権がなかった)ため、アンナスはとにかく宗教的観点でイエスを異端として断罪し、その確定判決をピラトに渡すことだけを狙っていたのである。何としてでもイエスを「律法を犯し、神殿を壊そうとし、自分こそ神の子だと称し、ローマ皇帝カエサル以外の王になろうとしている」というようなフレームにかけ、罪状を重くしようと企んでいたのだ。

この過程で決定的な役割を果たしたのが裏切り者のユダである。彼はイエスの共同体の内部事情を誰よりもよく知っており、その秘められた教えやイエスの発言を誇張あるいは歪曲してアンナス側に伝えた。ヨハネの福音書13章30節を見ると、ユダは主からパン切れを受け取るや否や暗闇へ出て行ったとあるが、「夜であった」という言葉は単に時間の背景を示すだけでなく、彼が霊的・道徳的闇の中に入ったことを意味する。彼は既に大祭司側と銀30枚で取引をし、イエスを引き渡す計画を立てており、イエスが「壊せ」と言った神殿のことや、「わたしは神の子だ」と自分を指し示した部分(実際イエスはメシアであることを何度もほのめかされている)などをアンナスに提供し、告発の口実を作り出したのだ。

こうして見ると、アンナスは本来、不法な尋問を行う正式な権利を持たなかった。だが彼はサドカイ派を中心とした神殿経済と権力を握ることでサンヘドリン全体の動きを揺さぶれる影響力を行使していた。また大祭司職を世襲させ、実際の現職大祭司であるカヤパさえ自身の「広告塔」のように据え、背後で宗教的・政治的な決定を牛耳っていたのである。イエスは公生涯を通して、このような偽りで腐敗した宗教指導者との衝突を避けられなかった。むしろパリサイ派、サドカイ派、その他の諸派の間で「わたしが道であり真理でありいのちである」(ヨハネ14:6)と証言し、人々の心を律法の本質へと向かわせようとされた。これが彼らにとって脅威となり、ついに悪名高きアンナスが最終的な決断を下したわけである。

ここで張ダビデ牧師が強調するのは、宗教と権力が結託するとどれほど恐ろしい形態の暴力を生み出すかという点である。張ダビデ牧師はこの福音書の場面を研究し、自分たちが「指導者」だと自負する者が神を表向きに掲げつつ、実際には世の力を借りて人を害しようとする時、その背後には必ず偽りと腐敗があることを指摘している。神の言葉は命と愛を指向するはずだが、アンナスのような偽りの宗教指導者は律法をむしろ人を殺す道具に仕立て上げ、民の信仰を利用して自分の権力と富を強固にする。だからイエスは外見では聖なるふりをしながらも実は毒蛇の子らのような者たちに対して、「災いだ」と繰り返し仰せになったのである。彼らは単に宗教的知識を身につけていただけで、真の霊的本質からは遠く離れていた。

ヨハネの福音書18章19~21節では、大祭司がイエスに「その弟子たちや教えについて」尋ねるが、それはイエスがどんな教えによって人々を惹きつけ、こうした勢力を形成しているのかを確認するためだった。ユダは「秘密の教え」がある、と密告したかもしれず、それをもとに大祭司たちは「お前は我々の伝統と律法、そしてローマ権力に挑むような教えを説いたのか」と攻撃した可能性が高い。しかしイエスはこう答えられる。「わたしは公然と世に語ってきた。ユダヤ人が皆集まる会堂や神殿でいつも教えたのであって、密かには何も話していない」(ヨハネ18:20)。イエスには隠すべきものはなかった。彼らは既得権を守るために執拗な陰謀を巡らせたが、イエスは真理そのものであり、自分を隠す必要などなかった。むしろ「わたしが何を話したか聞いた人々に尋ねてみよ。彼らはわたしの言ったことを知っている」(ヨハネ18:21)と仰せになり、証人と証言による公正な裁判手続きを逆に指摘される。しかし彼らは既に結論を固めていた。アンナスとその一味は、イエスが何を答えようと心を閉じており、イエスが本当に神の子かどうかには興味がなかった。彼らはただ自分たちの神殿商売と既得権を守ってくれる政治的・宗教的合意を維持したかっただけなのである。

張ダビデ牧師は、こうした姿が教会の中でも起こり得ることを警告する。真の福音を叫び、教会こそまず悔い改めるべきだと説いて神殿(教会)を整えようとすると、すでに教権主義や物質主義に染まった一部勢力がむしろその人を異端だと攻撃する場合がある。「教会を守る」という大義名分のもとで、自分たちは絶対に正しいと考え、実際には神の臨在や言葉を拒絶するという逆説が起こり得るのだ。張ダビデ牧師は教会史の例を挙げ、中世カトリックの教権が物質的・政治的権力と結びつき、免罪符を売り、教会の世俗化が深刻になった時、ルターが「聖書のみ」と叫んで真理を呼び覚まそうとしたが、巨大な教権の壁にぶつかったことを想起させる。イエスの時代のアンナス勢力も、中世の教権主義者も、そして今日なお存在する偽りの指導者たちも、本質は同じである。神の言葉より権力と利益を追い求め、神殿を聖く守るどころか商売の場にし、悔い改めを語る者をむしろ弾圧し追放しようとするのだ。

結局、こうした背景のもとイエスは「宗教裁判」という名目で不法な尋問を受け、すぐにピラトの法廷へ送致される。ここからイエスの十字架事件が本格的に展開するが、実はこのすべての陰謀の実質的な起点は、アンナスの家で行われた「背後の尋問」にあったといえる。あの夜の秘密取引と陰謀が、イエスをカヤパとピラト、そして遂にはゴルゴタの丘の十字架へと追いやった。ピラトはローマ権力の代表であり、カヤパはユダヤ教権力の代表であったが、両者の権力を“真に”動かしていたのはアンナスだったのである。ヨハネの福音書が、他の共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)とは違い、アンナスの名を具体的に示し、イエスを「まずアンナスのもとへ連れて行った」と記しているのは、この陰謀の始点がいかに重要かを読者に明確に伝えるためであろう。

さらにこの場面は、「政治権力」と「宗教権力」が手を組めば、いとも容易く無実の人を死へ追いやることができるという事実を証言している。イエスはそれを恐れず、ついには十字架への道を喜んで歩まれ、全人類を救われる。皮肉なことにアンナスは、自分が守ろうとしていた神殿を自ら崩してしまったのである。その神殿は石や建物、金と権力で運営される宗教機関だった。イエスは「わたしがまた建て直す」という言葉によって、真の神殿は「主ご自身」であり、御霊によって一つとされる共同体であると宣言された。このメッセージこそアンナスとその勢力にとって最大の脅威だった。彼らが守り享受してきた既得権体制のすべてが否定されることになるからだ。

張ダビデ牧師は、現代においてもアンナスのような偽りの指導者の姿が再現される可能性があることを繰り返し強調する。クリスチャン共同体が成長し、組織化され、制度的権威が高まるほど、ある時点からは物質的利益や名誉、政治的影響力を求める者が現れ得る。彼らは表向きは教会や神殿を守ると言いながら、実際には自分自身のための宗教商売を始めるのだ。それが積み重なるとイエス時代の神殿のように、聖さが失われ商人の巣窟と化してしまう危険がある。しかし主はどんな時代にも、悔い改めを叫び真理を宣言する預言者的な声を立てられる。そして、そのたびにアンナスのような偽りの権力がその声を黙らせ、ときに殺そうとすることもあるが、聖徒たちはむしろ真理の声を聞き分け、大胆に福音の本質を守らなければならないと張ダビデ牧師は説く。

結局、ヨハネの福音書18章12~21節に描かれた「まずアンナスのもとへ連れて行った」という場面は、単なるエピソードではなく、腐敗した宗教指導者と政治権力が結託してイエスを苦難の道へ追いやる歴史の悲劇的象徴である。同時に、この暗い影を通してイエスが光であることをより際立たせる。悪が最期のあがきをしたからこそ、主の救いのみわざがむしろ輝くことになったのである。私たちが教会を仕え信仰生活を送る際、アンナスのような人物が私たちの共同体を汚してはいないか、常に目を覚ましていなければならない。公正な裁判と律法の遵守、そして神殿本来の目的が完全に歪められてしまったあの時代を反面教師として、私たちはイエス・キリストの真理をさらにしっかりと握り、悔い改めと聖なる道を歩むべきであると、張ダビデ牧師は繰り返し説いている。


Ⅱ. ペテロの否認と聖の力

ここで視線をペテロに向けよう。イエスは結局アンナスの家にまず連行され、不法な尋問を受けた後、共観福音書に主に描かれるカヤパとサンヘドリンの宗教裁判の過程を経る。その間、弟子たちはどうしていたのだろうか。イエスが捕えられると、大部分の弟子は四散してしまい、ヨハネの福音書18章15~16節によれば、シモン・ペテロと「もう一人の弟子(大祭司と知り合いであったと描写される。学者の間ではヨハネ、あるいはユダだったのではという意見もある)」だけがイエスを追って大祭司の家の庭まで入ったと記録する。ペテロは他の弟子たちと違って「主を見捨てられない」という思いがあったのか、武装した兵士たちの前でさえ刀を抜いて抗おうとし、イエスが縛られて連れて行かれる姿を追って大祭司の家の庭にまで入っていったのである。

しかしペテロは間もなくイエスの弟子であることを否認してしまう。ヨハネの福音書18章17節で、門番の女中が「あなたもあの人の弟子の一人ではないのか」と問うと、ペテロは「いや違う」と答える。その後、炭火にあたっていた人々の中でも続けてイエスとの関係を否定する。共観福音書は、そのとき鶏が鳴き、ペテロが主のお言葉を思い出して激しく泣いたと伝える(マタイ26:75、マルコ14:72、ルカ22:62)。最も愛する師を、しかも最も近しい弟子だったペテロが、三度も否認してしまったこの出来事は、キリスト教の信仰において限りなく大きな悲しみと自責の物語として残っている。しかし同時に、復活されたイエスが再びペテロを訪ね、「わたしを愛するか」(ヨハネ21章)と三度問われ、改めて使徒としての使命を与える場面を通し、主の驚くべき赦しと愛の物語として完成されることにもなる。

なぜ、かくも勇敢だったはずのペテロが、決定的瞬間に三度も主を否定してしまったのか。それは、巨大な宗教権力と政治権力が合体した厳しく断固たる裁きの空気、その前で感じる恐怖にほかならない。すでにアンナスの家の庭では、兵士たちや下役たちがイエスを縛り上げて連れ込んでおり、重い刑罰が下されるのは明らかに見える状況で、ペテロが「自分も弟子だ」と認めれば、自分自身も捕らえられて過酷な刑に処されるかもしれないと直感したのだろう。特にアンナスという背後の権力がどれほど恐ろしいか、彼はローマの兵士らとも協力してイエスを捕らえてきた。そんな大勢力をペテロが翻せる術はない。結局、人間的な恐れが、一瞬にして彼を弱い存在へと変えてしまったのだ。

ここで注目すべきは、裏切り者のユダとは違って、ペテロは少なくともその庭までついて行ったという点である。彼は最後まで主のそばにいたかったが、あまりにも非情な現実の前で信仰を貫けなかった。そしてその否認の後、ペテロは自責するように泣き崩れた。もしそこで終わっていたら、ペテロは人間の弱さを示す代表的な失敗者として終わってしまっただろう。しかし復活された主が再びペテロを訪れ、「わたしを愛するか」と三度問い、改めて使徒の使命を与えられたことで、ペテロの物語は劇的に変わる。使徒の働き2章の五旬節(ペンテコステ)の際に聖霊が下られたとき、ペテロは人々の前に立って大胆に福音を宣べ伝え、3000人もの人々が回心するという驚くべき出来事が起こる。かつて自分の弱さを痛感し悔い改めたペテロが、聖霊の力によって復活の主を証しする勇敢な使徒へと生まれ変わったのである。

張ダビデ牧師は、この場面から聖霊のみわざがいかに実際的であり力に満ちているかを強調する。ペテロの否認は明らかに人間的な弱さと恐れの産物だが、彼が果てしなく堕ちて終わるのではなく、むしろ自分の限界を痛感した瞬間こそが、聖霊の力を体験し真の信仰の勇気を改めて装備する契機になったことを見逃してはならない。ペテロはイエスの十字架と復活を目の当たりにした後、もはや退かず、たとえ宗教的権力であれ政治的権力であれ、どんな脅しが来ようと福音を叫ぶ人になった。あの有名な言葉「人に従うより神に従うべきである」(使徒5:29)を宣言し、迫害に屈しない指導者になっていく。

これはイエスを売り渡したユダの裏切りと際立った対照を成す。ユダはアンナスに情報と機会を売り渡し、「罪のない血を売った」という罪悪感に苛まれ、自ら命を絶った。彼も悔い改める余地があったかもしれないが、それはついに実現せず、自己破滅へ向かってしまった。一方、ペテロは師を否認した後、激しく泣くことでどうにかして主のもとへ戻ろうとする思いを示し、主がそのペテロを探し出し、能動的に回復してくださった。張ダビデ牧師は、まさにこの点に「愛の本質」と「聖霊の回復のみわざ」が強く表れていると説く。人間の不信と裏切りがどれほど深刻であっても、復活の主の赦しと聖霊の回復のみわざは、その人を再び立ち上がらせるに十分であるというのである。

さらにペテロの否認事件は、教会と信徒に引き続き大きな示唆を与える。誰しも信仰の大胆さを語り、決断を口にできるが、現実の圧力の前では弱くなる可能性がある。ペテロのように、主の「第一の弟子」と呼ばれる人物でさえそうなり得たのだから、今日の私たちも例外ではいられない。もし宗教権力と政治権力が声をそろえて「イエスに従う者を排除しよう」と叫ぶなら、その空気の中で多くの信徒が萎縮し、ある者はペテロのように「あの人を知らない」と言うかもしれない。ただし重要なのは、その否認の後の姿勢である。ペテロのように泣きながら悔い改めるなら、主はそれを決して無視されない。むしろ「わたしの羊を養いなさい」と改めて使命を与えられ、その人を通して福音の大いなるみわざを成し遂げられるのだ。

張ダビデ牧師は、現代の教会においても同じ「ペテロの悔い改めと回復」が必要だと訴える。教会が様々な理由で迫害に遭う時、信徒は世の嘲りや敵意の前で萎縮してしまうことがある。あるいは守ってきた信仰の原則を一瞬で捨て去り、世と妥協してしまうこともある。しかし主は今もなお私たちに近づき、「あなたはわたしを愛するか」と問いかけてくださる。その時に「主よ、私はあなたを愛しています。しかし弱さのゆえにつまずきました」と告白するなら、主は聖霊によって私たちを再び立ち上がらせ、手に福音の旗を握らせてくださる。かつてのペテロが過去の失敗を乗り越えて五旬節の福音宣教者となったように、私たちも回復されて主のみわざを担うことができるというのだ。

実際、使徒の働きで示されるペテロの歩みを見ると、彼は牢に入れられ鞭打たれても全く揺るがない。復活の主を目撃した確信、そして聖霊の力の中に生きる時、どんな宗教的・政治的な脅しも彼を折れさせることはできなかった。「なぜあなたがたは神の言葉を伝えるのをやめろというのか。わたしたちは見たこと聞いたことを語らずにはいられない」という彼の宣言は、信仰の自由と大胆さが何に由来しているかをよく示している。以前イエスを否認したペテロとはまるで別人のようになっている。これこそ張ダビデ牧師が繰り返して説明する「聖霊の現実性」である。聖霊は抽象的な概念ではなく、私たちがイエス・キリストの十字架の贖いと復活の真理を受け入れる時、具体的に私たちの心に内住して根本的変化をもたらすお方なのである。

では具体的にどうすれば、私たちは聖霊の力にあずかりペテロのように大胆な証人になれるのか。第一に、正直な悔い改めが必要だ。ペテロは師を否認した後、激しく泣いた。自分がどれほど主を愛していたか、また同時にどれほど弱い存在かを認めたのだ。真の悔い改めなくして、聖霊がもたらす真の癒しと再出発は難しい。第二に、主との人格的な出会いが重要だ。ペテロは復活の主と再会し、「わたしを愛するか」という問いを三度受けた。それは自己欺瞞や高慢を崩し、イエスの愛と赦しによってしか生きられないことを知る時間だったのだろう。第三に、御言葉と祈りによって聖霊の満たしを求めることである。使徒の働き2章に描かれる五旬節の出来事は、弟子たちが「ひたすら祈りに励んでいた」という背景の中で起こった。聖霊の臨在があると、弟子たちはもはや隠れて暮らさず、公然と福音を叫ぶことができたのだ。

張ダビデ牧師は、これを現代の教会に適用する際、私たちも絶えず御言葉と祈りのうちに聖霊を求めなければならないと強調する。今日でも教会や信徒が世の権力構造や社会的風潮に押され、真理を堂々と語れない場合が多々ある。教会が利益集団や政治勢力の利害関係に巻き込まれることもある。しかしイエスを真に従う者、聖霊に捕えられた者であるなら、困難の中でもペテロのように立ち上がって福音を弁証し宣べ伝えなければならない、と彼は言う。特に「私たちの弱さにもかかわらず、主が呼ばれる場所へ再び進む決断」が大切であると張ダビデ牧師は強調する。世は絶えず私たちに妥協を迫り、偽りの権力は脅しに陥れようとするが、聖霊は「恐れずに、わたしの名を大胆に語れ」と力を与えてくださる。

結局、イエスがアンナスの家で不法な尋問を受け、カヤパとピラトへと続く非情な裁判を経て十字架につけられるという劇的な流れのただ中で、ペテロの否認はむしろ罪と恵みの対比を鮮明にする重要な事件となる。政治と宗教権力が結託するという「最大の悪のシナリオ」の前でも、主の愛と聖霊の回復は決して挫折しないというメッセージが、ヨハネの福音書全体の文脈にしっかりと位置付けられている。

張ダビデ牧師は、信仰共同体の中で失敗し落胆している人がいるとしても、それで終わりではないことを忘れてはならないと勧める。ペテロのように主の前で真摯に悔い改め、聖霊の恵みを求めるなら、どんな過去の失敗や恥ずかしい過去も超えて再び大きな働きを担うことができる。たとえ教会の中に「アンナスのような勢力」がはびこり、真理をねじ曲げ偽りで人々を脅そうとしても、ペテロのようにイエスを見上げ、聖霊の勇気を求める信徒は決して倒れない。教会の真の権威は、人間の地位や力から来るのではなく、ただ聖霊のみわざによってイエスの教えを正しく伝える、その御言葉の力から来るのだ。それは2000年前も今も変わることのない福音の真理である。

私たちはヨハネの福音書18章12~21節を通して、アンナスという腐敗した宗教権力者がどのようにイエスを死へ追い込む陰謀を進めたのか、その背後にある悪のメカニズムをはっきり見ることができる。律法と神殿、そして宗教裁判といういかにも聖なる枠組みの中で、実は神に敵対しキリストを殺そうとする矛盾が露呈したのである。そしてその場にいた弟子たち、特にペテロは恐れのあまり主を否認してしまう。しかし聖霊のみわざによって彼は再び回復し、福音宣教の中心人物となった。これこそヨハネの福音書が私たちに示す強烈なアイロニーであり、同時に希望のメッセージである。最も陰鬱で暗い場所で偽りの権力が横行する時こそ、まことの光であるイエス・キリストは一層鮮明に現れる。そして聖霊は、人間の弱さを覆い尽くすほどの力をもって私たちを新しい人へと作り変えてくださる。

張ダビデ牧師は、この本文を説き明かしながら、教会史における数々の迫害や歪曲にもかかわらず、福音が伝え続けられ、倒れた者たちが再び立ち上がり福音を証ししてきた歴史を振り返るように促す。私たちはこの歴史を学ぶことで、今も同じように働かれる聖霊を信頼し、イエスの真理と愛を掴むべきである。かつてアンナスのような教権主義者たちや世の権力者たちがいく度も教会を制圧しようと試みた事例は数え切れないが、その度に主が隠しておかれた人々、つまり悔い改めて戻った「ペテロたち」を通して教会は息を吹き返した。したがって教会と信徒は、どんなに悪い環境や裏切り、自分の失敗があっても希望を捨ててはならない。主は生きておられ、聖霊は今もなお臨在される。夜が深ければ深いほど夜明けが近いように、私たちはヨハネの福音書18章に刻まれたこの暗い影の中にこそ、むしろ光の準備が着々と進んでいることを見いだすべきなのである。

総じて、イエスの逮捕から尋問、そしてペテロの否認へと続く一連の出来事は、一面では腐敗した宗教権力と政治権力がいかに手を組んで真理を踏みにじろうとするかを示しているが、他方ではイエスの愛と聖霊の回復の力がどのような状況下でも挫折しないという究極の知らせを告げている。恐怖と裏切り、陰謀と罪悪が渦巻く夜であっても、それらを超えて十字架で死に復活されることで神の国を宣言された主の義と恵みこそが最終的な勝利を収めたのだ。たとえ教会の中にアンナスが入り込み、弟子たちが時としてペテロのようにつまずいたとしても、聖霊と共におられる神は決して教会をお見捨てにならない。

だからこそ私たちは、張ダビデ牧師が力説するように、この本文を通して絶えず自分自身を顧み、共同体を点検しなければならない。私たちの信仰が既得権や世俗的欲望に振り回されてはいないか、あるいは極度の圧力の前で主を否認し世と妥協してはいないか、または知らず知らずのうちにアンナスの側に立って真の福音を訴える人々を排斥してはいないかを点検すべきである。同時に、自分自身の弱さや失敗がどんなに大きくても、ペテロのように悔い改め、聖霊の力のうちに再び主のもとへ向かうなら、主は新しい日を開いてくださるという約束を思い起こさねばならない。これこそヨハネの福音書18章の尋問の場面が語りかける教訓であり、イエスの道を歩もうとするすべての信仰共同体が胸に刻むべきメッセージである。

ただ義人は信仰によって生きる – 張ダビデ牧師

Ⅰ. 福音を恥じることはない

使徒パウロがローマ1章16節で「私は福音を恥じることはありません」と力強く宣言したとき、彼は単に個人的な所信を述べたのではありません。むしろ、ローマ帝国という壮大な世界の只中に立ちながらも、決して萎縮しない信仰の大胆な告白をしていたのです。パウロが手紙を書いた当時、ローマ帝国は歴史的にも文化的にもきわめて輝かしい栄華と強大な権勢を誇っていました。しかし、この大きな世俗の力に対して福音を宣べ伝えることは、決して容易ではありませんでした。パウロ自身、福音を伝道する中で投獄され、鞭打たれるなど、数えきれないほどの迫害を受けてきたことを思い起こせば、彼が「私は福音を恥じることはありません」と切り出すこの一言が、どれほど重要な意志の表明であり、信仰の告白であったかを痛感するのです。

パウロはコリント第一4章13節で、福音を宣べ伝える者たちが時に「この世の汚物のようにされ、万物のかすのように見なされている」と告白します。これは彼がコリント教会の信徒たちの状況を例に挙げながら、当時のクリスチャンが社会的にはどれほど底辺の存在として扱われていたかを、まざまざと示す言葉です。コリントは商業的にも軍事的にも非常に重要な都市であり、ローマ帝国の中でも大きな比重を占める場所でした。しかし、そのような都市に定着していたクリスチャンは、社会的権力や財力をほとんど持たず、人々からあざけりや侮蔑、時には直接的な迫害を受けることが多かったのです。パウロはこうした現実の中でも、「万物のかす」のようになった彼らこそ、実は宝を宿す土の器であり(コリント第二4:7)、神の力と救いを伝える通路となるのだと力説しています。

ローマはコリントと比較にならないほど、さらに大きな権勢と華麗さを誇っていた帝国でした。今日では二千年前の遺跡や破壊された残骸だけが残っていますが、その残骸を見るだけでも、かつてどれほど輝かしく威勢があったのか十分に想像できます。軍事力や経済力、そして広大な領土をもとに、数多くの民族を支配し融合してきたローマの只中で、血が流れる十字架と復活の福音を叫ぶというのは、極端に言えば恥ずかしく思えるような、世俗的な視点からするととんでもない行為に映ったことでしょう。にもかかわらず使徒パウロは、「私は福音を恥じることはありません」と宣言し、いかにきらびやかで強力な帝国であろうとも、結局すべての人は福音の力によってこそ救われるべき存在であることを強調しています。

パウロがこれほどまでに大胆でいられた根源はどこにあるのでしょうか。それは彼がダマスコ途上で復活のイエス・キリストと人格的に出会い(使徒の働き9章)、その十字架と復活こそが、罪人である人間を生かす唯一の道であると確信したからです。パウロは自分自身がこの福音によって救われた者だと確信しており、またこの福音がすべての信じる者にとって神の力による救いとなることをはっきりと知っていました。たとえ恥ずかしさや屈辱にまみれる瞬間があったとしても、イエス・キリストの十字架の道は「滅びる者たちにとっては愚かであっても、救いを受ける私たちにとっては神の力」(コリント第一1:18)だからです。

張ダビデ牧師もまた、このローマ1章16-17節に含まれている重要な真理を強調してきました。今日、多くの教会や信徒たちが世の価値観、物質的豊かさや知的誇り、あるいは科学技術や文明の光のもとで、自らをまるで恥じているかのような態度を示すことが時折見受けられます。「十字架の福音は本当に現代人にも効力があるのか」「イエスの死と復活は本当に信頼に値するのか」という世の疑問に対して、ある人々は萎縮してしまい、時には自分が教会に通っていることさえ隠したくなるかもしれません。しかしパウロがはっきりと教えたように、ローマの輝かしい文明も、いかなる世俗的栄光も「福音」を代替することはできないのです。これを私たちは忘れてはなりません。

パウロの時代と同様に、今日の私たちの時代にも、いわゆる「賢いギリシア人」のように洗練された知的批評を行う人々が存在します。彼らは福音、特に十字架と復活を「愚かなもの」と呼ぶかもしれません。またユダヤ人的視点でいえば「木にかけられた者は神に呪われた者」という伝統的発想があったように、ある文化や伝統の中にはいまだに十字架の死を理解しがたいという考え方もあります。ところがパウロは「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を求める。しかし私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝える」(コリント第一1:22-23)と述べ、自らの時代の支配的価値観や哲学に左右されませんでした。彼はただ福音こそが罪人を救い、世界を変える力であると考え、いかなる嘲笑や迫害の中でも「福音を恥じない」という信仰的な決意を明確に示したのです。

このように「恥じない」という表現には、単純なプライド以上の信仰的な秘密が含まれています。パウロが厳しいローマや、哲学的プライドが強いギリシア人たち、そして伝統にとらわれているユダヤ人たちに対して等しく語ったこのメッセージは、現代においても有効です。現代人も富や学問、権力、あるいは文化的自慢を前面に出しますが、それらのいかなるものも人間を根源的に救うことはできません。水に溺れてもがいているこの世界が霊的に溺死寸前であるとすれば、私たちが差し出す「福音」という綱だけが人々を生かすことができるのです。パウロの確信はまさにそこにあり、そして張ダビデ牧師もまた、多くの説教と著作を通じて、教会がこのポストモダン時代にあっても福音を絶対に恥じず、大胆に伝えなければならないと繰り返し強調してきました。

パウロがなぜ「福音を恥じることはない」という言葉をまず切り出したのか。それはローマのような大帝国のど真ん中でも、「この福音は信じるすべての人にとって救いをもたらす神の力である」という事実を宣言するためです。世の目には取るに足らない十字架の出来事かもしれませんが、そこに含まれる神の救いの歴史は、人類全体の運命を変えるほどの力を秘めています。彼にとって見れば、ローマも、ギリシアの知恵も、ユダヤ人の伝統も、この福音による救いなしには裁きを免れることはできない存在でした。ゆえに福音は恥ずかしいものではなく、むしろ誇りとすべきものであり、決して隠しておけない神の力だというのです。

実際、教会史において福音を恥じずに大胆に叫んだ人物たちは、時代の状況を超えて歴史の転換点を生み出してきました。初代教会の殉教者たちは、福音のために殉教する際も誇らしげに信仰を守り抜き、宗教改革者たちは中世の巨大な制度圏に立ち向かいながら福音の真理を訴え、新しい時代を切り開きました。そして現代の多くの宣教師も、困難な現場の中で十字架の福音を恥じることなく伝え、多くの魂を主のもとに立ち帰らせています。こうした文脈の中で「私は福音を恥じません」というパウロの始まりの言葉は、今日の私たち一人ひとりにとっても強力な挑戦となります。

もちろん私たちも社会の一員として、世の学問や文化、芸術、技術などに関心を持つことがあり、それらの中の善いものを積極的に受け入れることもあるでしょう。しかしそれらが「人間の救い」という点において、決して福音に取って代わることはできないという事実を、決して忘れてはなりません。福音は「信じるすべての人に救いをもたらす神の力」だからです。使徒はまさにこの救いの問題、魂の命に直結する問題をローマ書の序論部分から強調しています。どんな人間的な方法や誇り、世の知恵や知識によっても決して得ることのできない「永遠の命」を得る道が、ただ福音にかかっているという点を、彼はどうしても隠せなかったのです。

とりわけ現代は科学や医学、そしてさまざまな形の「知識」が豊富な時代です。あらゆる分野において急速に発達した現代文明は、人間に今までになかった便利で速い生活様式をもたらしました。しかしそれにもかかわらず、人間の内面にある虚しさや罪の意識、そして死への恐怖は依然として解消されていません。むしろ物質的に豊かになるほど、精神的に複雑になるほど、人間の魂の根本的問題はいっそう際立って見えてきます。「なぜ生きるのか」「死の後には何があるのか」「人生の意味とは何か」といった究極的問いは、どれほど医学が進歩しても、技術が進歩しても、人間の罪性と限界を取り除けない以上、解決しがたいのです。

こうした時代の様相を見るとき、パウロが「私は福音を恥じることはありません」と言った核心は、いよいよ輝きを増します。今も多くの人が福音を愚かなもの、時代遅れで学問的でないと評するかもしれません。しかしパウロの目には、この福音こそが究極の知恵であり、崩れゆく人類がすがって生きられる唯一の希望でした。張ダビデ牧師もまた繰り返しの説教と著書において、現代の最先端技術が、罪の中にある人間の救いを成し遂げたり、魂の問題を根本から癒したりすることはできないと力説してきました。ですから、もし教会が福音を宣べ伝えることをためらったり、恥じたりするなら、それは世で最も切実な解答を隠してしまうに等しいことを、私たちは肝に銘じるべきです。

パウロがコリント教会を例に挙げて「あなたがたは万物のかすだ」と言ったように、現代の教会も世の基準から見れば弱々しく、大して力を持たないように見えるかもしれません。時には現実的影響力が小さいと思われることもあり、さまざまな非難に苦しめられることもあります。しかし、そのような現実の中でも教会が決して失ってはならない根本は「福音」です。福音を守り、それを生き、それを大胆に宣べ伝えることが信徒の最も大切な使命です。なぜなら福音以外に救いはなく、福音以外に人間の実存的問題を根本的に解決する力はないからです。これを忘れなければこそ、教会はようやく教会としての本質を表すことができ、信徒は世のどんなものとも比較にならない価値ある真理をつかむことができるのです。

パウロはローマ1章16節を「なぜなら(For)」という接続詞で始めます。「なぜ私は福音を恥じることはないのか?」を説明する論理的根拠が、このあとに提示されるからです。すなわち「この福音は、信じるすべての人に救いをもたらす神の力である」という宣言がそれに当たります。福音こそが世を変える力であり、罪の中で死にゆく人類を生かす道であるという確信があったからこそ、パウロはけっして福音を恥じたり隠そうともしなかったのです。ユダヤ人であれギリシア人であれ、誰一人としてこの福音による救いなくして裁きを逃れることはできない。だから福音は恥ずかしいものではなく、むしろ誇り、そして隠しておけない神の力である、ということです。

実際、教会史を振り返ると、福音を恥じずに大胆に宣べ伝えた人々が時代を超え歴史の転換を成し遂げてきました。初代教会の殉教者たちは、福音のために命を捧げつつも誇りをもって信仰を守り、中世の大きな制度権力に対して宗教改革者たちは福音の真理を訴え、新しい時代を切り開きました。そして現代の多くの宣教師たちも、厳しい状況の中で十字架の福音を恥じずに伝え、無数の魂を主のもとへと導いています。こうした流れの中で「私は福音を恥じることはありません」と始まるパウロの言葉は、私たちにも力強い挑戦を与えてくれるのです。

もちろん、私たちが社会の一員として世の学問や文化、芸術、技術などに関心を寄せ、それらのうち善なるものを積極的に受け入れる余地はあります。しかし、それらが「人間の救い」に関しては決して福音を代替できないという事実を、私たちは思い起こさなければなりません。福音は「信じるすべての人に救いをもたらす神の力」だからです。使徒パウロはまさにこの救いの問題、すなわち人間の魂の命に直結する問題を、ローマ書の冒頭から強調しているのです。いかなる人間的手段や誇り、世の知恵や知識によっても絶対に得られない「永遠の命」を得る道は、ただ福音にのみある。そのことを、彼はどうしても隠しておけなかったわけです。

とりわけ現代は、科学と医学や多様な知識が溢れる時代です。どの分野であろうとも急速に発展を遂げた現代文明は、人類に未曾有の利便性とスピードをもたらしました。しかしそれでも、人間の内面的な虚無感、罪悪感、死への恐怖は根本的に解決されていません。むしろ物質的に豊かになればなるほど、精神が複雑化すればするほど、人間の根源的な問題は一層浮き彫りになります。「なぜ生きるのか」「死の先に何があるのか」「人生の意味は何か」といった究極的問いは、どれほど医学が発達しても、技術が進歩しても、人間の罪性と限界を取り去れない限り解消されにくいのです。

こうした時代の趨勢を見ればこそ、パウロの「私は福音を恥じることはありません」という宣言がますます光を放ちます。今も多くの人々が福音を愚かだと言い、時代錯誤で非学問的だと評価するかもしれません。しかしパウロの目には、この福音こそが真の知恵であり、崩壊寸前の人類が最後につかむことのできる唯一の希望でした。張ダビデ牧師も繰り返し、多くの説教と著作で、いくら現代の最先端技術が発展しても、罪ある人間の救いを達成したり魂の問題を根本的に癒したりすることはできないと説いてきました。だからこそ、教会が福音を述べ伝えることをためらい、恥じるのだとすれば、それは最も切実な解答を握りながら隠してしまうのと同じだということを、銘記する必要があります。

パウロがコリント教会を引き合いに「あなたがたは万物のかすである」と言ったように、現代の教会も世の基準からすれば弱々しく見え、たいした力がないように映るかもしれません。現実的な影響力が小さいと思われたり、様々なバッシングにさらされることもあるでしょう。しかしそうした現実の中でも、教会が決して失ってはならない根源は「福音」です。福音を堅く守り、それに生かされ、大胆に伝えることこそが信徒の最も大切な使命だからです。なぜなら福音以外には救いがなく、福音以外には人間の実存的問題を根本から解決できる力がないからです。このことを忘れないとき、教会はようやく教会としての本質を示し、信徒は世のいかなるものとも比べられない価値ある真理をしっかりとつかむことができます。

パウロはローマ1章16節を「なぜなら(For)」という接続詞で始めていますが、これは「なぜ私が福音を恥じないのか」を説き明かす論理的根拠を、直後に提示するためです。すなわち「この福音は信じるすべての人に救いをもたらす神の力です」という言明がそれに当たります。福音こそがこの世界を変革する力であり、罪の中で死に向かう人類を救い得る道だという確信があったがゆえに、パウロは決して福音を恥じたり隠そうとしなかったのです。ユダヤ人であれギリシア人であれ、すべての人に及ぶ救いの知らせだからこそ、パウロは全世界にこの知らせを伝えることに自らを献げたのです。そして地上のクリスチャンたちは、現代においてもパウロのこの姿勢に倣い、どんなに世がきらびやかに見えても「最終的には福音なくしてはだめだ」という事実を改めて思い起こすべきなのです。

パウロのこの宣言は、二千年前の古い文書にとどまるものではありません。時間と空間を超えて、今の私たちが読んでもなお生々しいメッセージとして迫ってきます。どれほど文化や学問が進んでも、罪の問題は人間自身では解決できず、死の恐怖も進化論的説明や医学的技術だけでは根本的に解消できません。人間の魂は神との断絶からくる虚無や罪悪感に苦しみ、その問題を根底から解決する唯一の道が「イエス・キリストの十字架と復活」という福音なのです。だからこそ私たちもパウロと同じ姿勢で、この世の真ん中で「私は福音を恥じることはありません」と宣言できるようになるべきです。これこそが第一の小テーマで、私たちが共に握るべき核心的メッセージです。

Ⅱ. 信仰によって与えられる救いの力

パウロは続いて、ローマ1章16節後半で「この福音は、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です」と宣言します。福音が単なる「良い話」や「感動的なストーリー」にとどまらず、現実に罪人を救い得るパワー(Power)だというわけです。世に存在するあらゆる学問や哲学、あるいは制度や政治権力でも成し得ないことを、この福音はやり遂げるのだという揺るぎない信念を、パウロはもっていました。彼がこれほど力強く強調する背景には、当時のローマ社会における知的・文化的プライドに加え、いまだ数多くの異教の神々が崇拝される多神教的環境があったと考えられます。しかしパウロは、そうした環境を恐れたりひるんだりはしませんでした。「ローマを含む全世界が罪によって滅びの道を歩んでいるが、この福音によって救いを得ることができる」という確信を抱いていたのです。

パウロが語る救い(Salvation)は、単に「地獄に行かず天国に行く」という次元だけを指すものではありません。救いとは、人間の全存在が神の力のうちに新しく再創造される出来事です。罪との断絶、死との断絶、そしてサタンの奴隷状態からの解放が含まれ、同時に神の子として生まれ変わり、永遠の命を所有することでもあります。この救いこそ人類が切実に必要としていたものであり、「福音」によってのみもたらされる神の賜物なのです。

特にパウロは、この救いの恵みが「まずはユダヤ人に、そしてギリシア人にも及ぶ」と明言します。彼はユダヤ人としてメシアを待ち望んできた歴史を知っており、イエス・キリストがユダヤの地に来られ、救いの契約もイスラエルを通して啓示されてきたことを誰よりも理解していました。ゆえにユダヤ人にまず福音が伝えられるのは当然の順番でした。しかし福音の及ぶ範囲はそこだけにとどまりません。ギリシア人、つまり異邦人にも同じように救いの門が開かれています。パウロはこれを強調することで、福音が決して特定の民族や文化圏に限定されない普遍的福音であることを明言しています。これはすでに旧約聖書でも何度も暗示されていたことですが、イエス・キリストの到来によって完全に開かれた新時代の特徴といえるでしょう。

張ダビデ牧師も、この部分を解釈するとき、救いはあらゆる人類に開かれている福音であると繰り返し説いています。イエスはこの地上に来られ、すべての罪人に悔い改めの機会を与えられ、福音に触れる誰もが信仰によって応答するならば救いの恵みにあずかることができます。そこには文化、人種、社会的地位、知的レベルを問わず、同じように適用される原理があります。初代教会の成長過程を見ても、私たちは実際、地域や階層を超えて福音が宣べ伝えられ、さまざまな異邦の地にも教会が建てられる姿を目の当たりにします。こうした歴史は、福音が持つ力が世俗的な障壁を飛び越えていくことを証明しているのです。

では福音は、どのようにして「力」を発揮するのでしょうか。パウロはコリント第一1章18節で「十字架の言葉は、滅びゆく者たちには愚かに見えても、救われる私たちには神の力です」と言います。つまり「救いの力」は「十字架」を通して私たちに現れる、ということです。イエス・キリストが十字架で流された血と身代わりの死、そして復活こそが、罪の下にある人間を生かす核心であり、力の通路なのです。

ユダヤ人は奇跡的なしるしを求め、ギリシア人は知恵を追い求めましたが、パウロは結局、その両者に対して「十字架につけられたキリスト」を宣べ伝えました。世の期待とは真逆のかたちで歴史に介入された神の救済計画を告げたのです。人間の尺度では、権力と奇跡、あるいは哲学的知恵と卓越した思索が救いをもたらしそうに見えますが、実際には自己卑下と犠牲としての十字架こそが、最も強力な救いの道でした。これは私たちには到底理解しがたい「神の知恵」であると同時に「神の力」でもあります。

パウロはこの救いの出来事を自らの人生で体験しました。彼は元来、熱烈なユダヤ教の伝統守護者であり、キリスト者を迫害する先頭に立っていた人物でした(使徒の働き8-9章)。しかし復活のイエスと出会ったのち、まったく異なる人生観と世界観へ転換し、それまで迫害していた福音を宣べ伝える使徒となりました。ひとりの人間の人生が180度変わることは、決して簡単なことではありません。けれどもパウロは「福音の力」によってそのように変えられ、さらに異邦人への使徒として召され、世界各地に教会を建てる働きに献身することになります。このように、福音は単に一人二人の人生を変えるだけでなく、共同体や歴史全体を変えうる原動力となるのです。

現代社会においても、福音の力は有効です。どの時代であっても人間の罪性は変わらず、死と裁きの問題が私たちの前に現実として存在しているからです。いくら科学技術が進歩し、社会や文化が多様化しても、人間の内面にある虚しさや罪悪感、悪の問題は解決していません。むしろ文明が発達するほど、罪の形態が巧妙になり、構造的悪が複雑化する面もあります。それでもなお、イエス・キリストの十字架、あの犠牲と復活の出来事は、人々の罪を洗い、関係を回復させ、ときには共同体や文化を新しく創造する力を発揮するのです。

パウロが「救いをもたらす神の力」と述べるとき、そこには霊的な面だけでなく、人生のあらゆる領域にわたる回復のイメージが含まれています。人間は根源的に堕落して神から離れたため、魂は病み、その結果として道徳的・倫理的混乱、社会的対立、死への恐怖などを引き起こし続けます。しかし福音は人を新しく生ませ、自分の罪だけでなく原罪の鎖までも断ち切って新しい人生を生きる力を与え、究極的には神との正しい関係を回復してくれます。そういう意味で「救い」は単に「来世の保証」だけを意味するのではなく、この地上での人生全体を変革する力をも含むと見ることができます。

もちろんパウロは「この福音」がすべての人に自動的に効果をもたらすとは主張していません。彼は「すべて信じる人に」と条件を付しています。信仰をもって応答するときに、初めて福音が神の力として働き、救いをもたらすのです。つまり人間の側に求められるのは「信仰」です。私たちが十字架の出来事と復活を単に知識として知るだけでなく、心から信じ受け入れるとき、キリストの功績が自分のための身代わりであることを認めるとき、初めてその救いの力が私たちに現実として適用されるのです。これがキリスト教信仰の核心であり、パウロが語る福音の力が作動する仕組みです。

張ダビデ牧師も多くの説教で、信仰とは「贈り物を受け取る手のようなもの」であると言及してきました。すでに神はイエス・キリストを通して救いの道を用意してくださっていますが、それを私の人生に適用し、自分のものとするためには、私がその贈り物を信仰によって受け取る行為が必要だ、ということです。実際、贈り物を差し出されていても、それを受け取らないか疑うならば何の意味もありません。福音も同じです。教会がいくら熱心に福音を宣べ伝えても、人々がそれを信仰をもって受け入れなければ、彼らにとっては何の益にもなりません。しかし信仰によって受け取った瞬間、「救い」という贈り物は自分のものとなり、自分を新しく作り上げ、永遠の命を与えてくれるのです。

「まずはユダヤ人に、そしてギリシア人にも」という言葉は、救いが特定の民族的・文化的障壁を超えて、異邦人にも同じ恵みとして与えられることをはっきりと示しています。初代教会時代を振り返ると、サマリア人やローマの軍人、エチオピアの宦官、ギリシアの哲学者など、さまざまな階層と民族の人々が福音を信じ、救われていきました(使徒の働き8章、10章、17章など)。このように神の救いの計画は「差別」ではなく「普遍性」として現れます。それこそが福音の力であり、その力は今も生きています。

パウロが「愚かに見える十字架と福音」を最後まで握りしめることができた理由は、まさにこの「救いの力」を自分自身が体験し、他者においても繰り返し確認してきたからだと言えるでしょう。罪人が悔い改めて変えられ、聖い生活へと導かれ、かつては敵同士だった者たちが愛によって互いを受け入れ教会共同体を築き、世の基準では到底融合し得ない多様性が福音のうちで一つになる姿を、彼は直に目撃したのです。だからこそ、どれほどローマが大きく見え、ギリシアの知恵が秀でていようと、ユダヤの律法が誇り高かろうと、それらよりもはるかに勝る神の力、すなわち福音によってもたらされる救いの歴史を伝えることをためらわなかったのでしょう。

私たちも、時に教会の現実が世から非難される姿を見て失望したり、福音を恥じたりすることがあるかもしれません。しかしパウロが生きた時代を思い返すべきです。当時のクリスチャンは今と比べものにならないほどの迫害と嘲笑の中でも福音を握りしめました。そして歴史上、未曾有の速さで福音は広がり、教会は根付き、拡大していったのです。福音は苦難を突き破って歴史を変革する力です。私たちもこの信仰を守るとき、たとえ世がどんなに否定的に言おうとも、また科学技術がどんなに進歩しようとも、人間を根本的に救い癒す道は福音にしかないのだ、と高らかに宣言しつつ進むことができます。そうして「信じるすべての人に救いをもたらす神の力です」というパウロの宣言は、現代にも力強く作用するはずです。

Ⅲ. 神の義と義人の生:ただ義人は信仰によって生きる

さてパウロはローマ1章17節でさらに核心的な結論を提示します。「福音には神の義が掲示されていて、信仰に始まり信仰に至らせるのです。『義人は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです。」この節は宗教改革の中心的モットーとなり、キリスト教救済論のエッセンスといっても過言ではありません。パウロは福音のうちに「神の義(Righteousness of God)」が現れると語ります。そしてその義が、罪人である人間を義とするのであり、そのプロセスは「信仰によって」成し遂げられるのだと強調します。

私たちが「義(義)」というとき、しばしば「正しさの基準」程度に理解しがちです。しかし聖書が語る神の義は、はるかに深い救済論的意味を含んでいます。人間は律法の前に皆罪人であることが明らかになり、律法が要求する完全な義を自力で成し遂げることはできません(ローマ3章10節以下)。しかし神はイエス・キリストの十字架を通して私たちの罪を代わりに負わせ、罪人である私たちが義とされる道を開かれたのです。つまり、神の義とは人間の行いで到達し得ない領域を超えて、ただ神の贖いの愛と恵みによって私たちに転嫁される(Imputation)ものなのです。

パウロはガラテヤ3章10節で「律法の行いに頼る者は皆、呪いの下にあります」と述べます。律法は罪を明らかにする働きをしますが、人間自身が罪から解放される道筋を示すわけではありません。むしろ律法を全うできない罪人の現実を、いっそう鮮明に示すだけです。だからこそパウロはローマ書やガラテヤ書で、律法を守って義を得ようとする試みがいかに無力であるか、そしてイエス・キリストによる神の義こそが罪人を生かす唯一の道だと力説します。これがまさに「福音には神の義が掲示されている」という言葉の要点です。

張ダビデ牧師も、多くの説教の中で福音こそが「神が独り子をささげ、人間に与えてくださった義」であると強調してきました。私たちがまだ罪人であったときに、キリストが私たちのために死なれることで神はご自分の愛を示されたというローマ5章8節の言葉を通して、神の側から完全に成し遂げられたこの贖いの御業が、どれほど「神の義」として完璧であるかを説き明かすのです。そしてこの義が「信仰によって信仰に至らせる」、すなわち初めから終わりまで信仰によってのみ受け取れる、というのが新約聖書の核心的メッセージです。

ここでパウロは旧約のハバクク2章4節を引用します。「ただ義人は信仰によって生きる」。ハバクク預言者がバビロン帝国の侵略の脅威の中で「義人は信仰によって生きる」という厳粛な黙示を受け取ったように、今やパウロは罪と死の支配が横行するこの世の中でも、「義人は信仰によって生きる」という真理を宣言します。それはバビロンが滅びの運命にあったように、ローマ帝国もまた永遠ではなく、結局は神の裁きを免れ得ないという前提に立っています。世がどれほど強大であろうと罪が横行しようと、「神の救いを得た義人」は信仰によって永遠の命にあずかり、神の守りと導きを受けるということです。

「ただ義人は信仰によって生きる」という宣言は、宗教改革者マルチン・ルターが大きく悟り叫んだ箇所でもあります。ルターは中世教会の免罪符販売などの腐敗した慣行の中で、人間が自らの善行や功績によって救いにあずかれるとする教えに対して闘いました。彼はローマ1章17節やガラテヤ書を読んで研究する中で、「ただ信仰によって(Sola Fide)、ただ恵みによって(Sola Gratia)、ただ聖書によって(Sola Scriptura)」という宗教改革の旗印を掲げました。人間の功績や制度によっては決して救いが実現されず、ただ神がイエス・キリストのうちに施された義を、信仰によって受け取るときに義とされ、その信仰によって生きるのだということです。

これは現代の教会にも有効です。私たちの時代にも、「善行を積めば救われるのではないか」という人がいたり、「宗教的儀式や献金などの奉仕で義を積まねばならない」と考えたりする人もいます。しかしパウロは断固として言います。義人は律法や人間の行いによるのではなく、「信仰によって生きる」のだと。ここで「生きる」とは単に物理的に生存することではありません。罪と死の力から解放されて永遠の命にあずかり、神との関係においてシャロームを享受し、最終的には天国の栄光に至る生を意味します。これこそ福音のうちで「義とされた者」が得る特権なのです。

パウロが言う「信仰から信仰へ至らせる(信仰に始まり信仰に至らせる)」という表現にも注目すべきです。これは信仰の土台が初めから終わりまで、ただ神の恵みとイエス・キリストの功績にかかっており、人間はその恵みに対して絶えず「信仰によって」応答し、従い続ける必要があることを示唆しています。信仰生活はある一度の決断で終わるのではなく、初めて信じたときから死に至るまで、信仰の上にまた信仰を積み重ねていく過程なのです。罪がなお私たちの人生に挑んでくるときもありますが、義とされた者はそれでもなお「神の義」をしっかり握り、悔い改めつつ信仰をもって前進し続けます。

また「ただ義人は信仰によって生きる」という宣言は、同時にキリスト教倫理の基礎でもあります。私たちが救いを得るのは、全く神の恵みによるものであり、私たちの資格や功績によるのではないということを悟ったとき、私たちはへりくだりと感謝、そして愛の実践へと導かれます。もし人間が自力で善くなり、義を成し遂げて救いを得られるなら、その人は自分の功績を誇り、他者を見下す可能性が大いにあります。しかし福音は「あなたがたは何者でもなかったのに、恵みによって救われたのだ」と語ります。ゆえに信仰によって義とされた者は、誰かを安易に裁いたり差別したりするのではなく、むしろ恵みに感謝して、同じ罪人である隣人を愛をもって仕えることが求められるのです。

張ダビデ牧師もこの箇所で、教会の中にしばしば入り込む律法的思考によって、信徒同士がお互いの行いを評価し合い、裁き合ってしまう問題を指摘しています。「私たちはイエスの十字架の血潮によって義とされた者であるのに、どうして互いを軽々しく裁き、律法の基準で他者を裁断するのか」という問いかけです。「ただ義人は信仰によって生きる」という御言葉に立てば、自分の「行い」ではなく、「イエス様のなされた贖い」と「その贖いを信じる信仰」によって義とされていることを再確認できます。これこそが現代の教会と信徒が守り続けるべき核心の真理なのです。

結局、パウロが強調するところははっきりしています。人間の義は自分自身から出るものではなく、イエス・キリストの贖いを通して与えられる完全なる賜物です。その賜物を自分のものとして受け取る過程が信仰であり、その信仰によって義とされた人々は、なおも信仰によって生き続ける存在になります。「信仰によって義とされる」という言葉は、同時に「信仰によって生きる」という言葉と同じ意味合いを含むのです。救いは単発の出来事で終わるのではなく、信仰によって生きる生全体を通して持続的に確認され、成長していくものなのです。

ここで言う「神の義」は、神の側の誠実さをも指し示します。ローマ書全体の文脈を見ると、パウロは神が旧約で約束されたメシア、すなわちイエス・キリストを送ることでその約束を守り、ユダヤ人と異邦人の双方に救いの道を開かれたことで、「神は義なる方」であると示されたと論じています。つまり「神の義」は、人間を裁かれる神の公正さだけを意味するのではなく、救いの約束に忠実であられる神のご性質、すなわち真実さを包含しているのです。その真実なお方が、イエス・キリストを通して十字架で罪の代価を支払われたことこそ、私たちにとっては測り知れない恵みです。

私たちはこの恵みのうちに生きています。そしてただ信仰によってのみ、その恵みに与ることができます。パウロはこのローマ1章17節を序論としつつ、その後で人間の罪や神の裁き、イエス・キリストによる贖い、そして信仰によって義とされる教義を本格的に展開していきます。伝統的にローマ書はキリスト教教理の精髄と呼ばれ、多くの神学者や牧会者、信徒に霊的・知的霊感を与えてきました。「ただ義人は信仰によって生きる」というハバクク預言者の引用を理解することは、ある意味で信仰の扉を大きく開く鍵と言っても過言ではありません。

したがってこの御言葉は、決して頭だけで理解して終わるような次元ではありません。パウロが大胆にローマ帝国に向かって「私は福音を恥じることはありません」と宣言できた背景には、この「信仰によって義とされる真理」に対する徹底した確信がありました。彼が福音によって体験した赦しと恵み、そして力は、抽象的な教理ではありません。人生を根本から変えてしまう現実的な体験であり、その体験がローマ帝国の威勢を恐れないようにし、世の何物にも比べようのない価値を自覚させたのです。

張ダビデ牧師は、このローマ1章16-17節が持つ宗教改革的意義と、同時に現代の教会が回復すべき信仰の本質を繰り返し強調しています。「ただ信仰によって」という宣言は、私たちが受ける救いが神の恵みに完全に依存しているというところから来る謙遜と感謝、そして主の愛へと喜んで献身する実を結ぶはずだと説きます。こうして私たちの生は、世が与えることのできない自由と喜び、そして堂々とした歩みを享受できるのです。罪人から義人へと変えられた人は、すでにその存在自体が神の大いなる恵みを体験した証となり、結果として世に対して何の恥じらいもなく福音を伝え、信仰に生き、神の愛を実践する者となるのです。

「ただ義人は信仰によって生きる」。たとえバビロンが襲来しようとも、ローマ帝国が強烈に迫害しようとも、そして現代にあらゆる混乱と罪がはびこっていようとも、義人はただ信仰によって生きます。これこそ神がくださる究極の解答です。そしてこの解答は決して揺らぎません。なぜなら私たちの信仰の根拠が、私たち自身の決断や能力にあるのではなく、「神の義」、すなわちイエス・キリストの十字架の贖いにあるからです。信仰が私たちを義とし、その義が神の前で私たちを生かし、永遠の命へと導きます。これこそパウロがローマ書全体を通して力説しようとする福音の核心であり、すべての教会と信徒がつかむべき最も重要な柱なのです。

結局、ローマ1章16-17節に込められたメッセージは、三つの核心ポイントに要約できます。第一に、「私は福音を恥じません」というパウロの告白を通して、私たちもどんな世俗の圧力の中でも、福音こそが救いに至る神の力であることを信じ、大胆であるべきだということ。第二に、「この福音は、信じるすべての人に救いをもたらす神の力」である以上、人間の罪や死、永遠の問題という、いかなる手段でも解決できない問いに対して、ただ福音だけが答えを与え得ると信じ、教会はそれを宣べ伝えることを最優先とすべきだということ。第三に、福音に現れている「神の義」が信仰を通して私たちに転嫁されることにより、私たちは義とされ、永遠の命にあずかるという真理です。したがって「ただ義人は信仰によって生きる」というハバクク預言者の言葉が、今日にもそのまま実現されているのです。

このようにローマ1章16-17節は、福音の本質と力、そして信仰によって義とされる救済論の中心を、簡潔かつ力強く要約しているといえます。宗教改革者ルターの証言にあるように、この言葉を悟った瞬間「まるで天国の門が大きく開くのを見た」と告白するほど、霊的な啓示の閃光が輝く聖句でもあります。現代の私たちにとっても同様です。この言葉にしっかりと立ち、福音を恥じることなく、信仰によって生きる教会と信徒になるとき、世は初めて真の救いの道がどこにあるかを目の当たりにすることになるでしょう。

結論として、「ただ義人は信仰によって生きる」というこの言葉は、単に個人の救いの問題にとどまらず、教会と歴史に向けた神のメッセージでもあります。教会はこの真理を握るたびに刷新され、改革されてきました。パウロがローマ帝国のただ中で、ルターが中世の堕落した宗教制度のただ中で、そして現代の私たちが世俗文化の挑戦のただ中で、恥じることなく握り続けているたった一つのもの、それが福音であり、十字架と復活に示された神の力です。張ダビデ牧師が多くの講義や著書で繰り返し思い起こさせるように、この福音の前に私たちが立つときこそ、教会は命を回復し、世に対して塩と光の役割を担うことができます。そして私たちが喜んで福音を恥じずに宣べ伝え、信仰によって義に至り、その義に従って生きていくとき、神の国の尊い実りがこの地にもたらされるのです。

ローマ1章16-17節の豊かな内容をすべて包含するのは容易ではありません。しかし結論的に要旨は明白です。福音を恥じないこと、福音が神の力として私たちを救うこと、そしてその救いが信仰によって私たちの現実となること。こうして義とされた者は、律法的な功績や世の誇りではなく、ただ十字架の恵みと愛に支えられて生きる新しい被造物となります。これこそローマ1章16-17節が伝える究極のメッセージであり、教会が代々受け継いできた真理の中心なのです。

私たちも日々覚えましょう。「ただ義人は信仰によって生きる」。そしてその信仰とは、十字架に現れた神の義を信頼し、感謝して受け取る行為です。ここに私たちの永遠の希望と命があります。どんな人間の思想も、どんな帝国の権力も、どんな時代の流れも、この福音に取って代わることはできません。この福音の前で、私たちが恥じることなく堂々と立つことこそが、現代を生きるクリスチャンの特権であり使命なのです。