低いところに来られた王 – 張ダビデ牧師


1. イエスキリストの到

張ダビデ牧師は長年にわたり福音書を研究し、特にマタイによる福音書2章に描かれたイエス・キリストの誕生物語と、その中に含まれる「神の御子が来られる方法」に注目してきた。彼が強調する中心的テーマの一つは、「すでに(already)とまだ(not yet)の衝突」である。マタイ2章を見ると、東方の博士たちという異邦人たちは星の徴を通して「すでに」メシアが誕生したことを知り、喜び礼拝しているが、当のユダヤ人の宗教指導層——大祭司や律法学者など——は「まだ」メシアは来ていないと考え、そこに隔たりが生じている。張ダビデ牧師はこの場面に、現代の教会が陥りうる落とし穴と同時に、つかむべき希望があると説いている。

まず彼は、なぜユダヤの大祭司や律法学者がメシアの「すでに来られた」という事実を受け入れられなかったのかを探究する。彼らの中には、ダニエル書7章13節(「人の子のような者が天の雲に乗って来て、年を経た方のもとに進み、その前に導かれ…」)のような壮大なイメージが強く根付いており、またイザヤ書66章15–16節にある「火の戦車」や「猛烈な炎」で臨む神の日の予言が、彼らの意識の中でより鮮明に刻まれていたからだという。さらに張ダビデ牧師がしばしば言及するように、「雲に乗って来られる」栄光の王としてのメシア、天使長のラッパが鳴り響きながら地上に降臨する王権的顕現が強調されていたため、実際に飼い葉桶という低い場で誕生なさったメシアを見落としてしまったのだと説明する。

宗教指導者たちは、自らの選民意識や、以前から強烈に抱いていた「荘厳なるメシア」観を捨てられなかったために、東方から来た博士たちが「すでに来られたメシア」を告げても、なかなか信じることができなかった。張ダビデ牧師は、これを「人間の限られた期待、高いところだけを見つめる視線が生んだ悲劇」と解釈する。実際、マタイ2章4–6節でヘロデ王が「キリストはどこで生まれるのか」と尋ねると、大祭司や律法学者たちはミカ書5章2節(「ベツレヘム・エフラタよ、おまえはユダ族の中で小さい者だとしても…」)を探し出して示した。そこで初めて、メシアが「ベツレヘム」という小さな町、「最も低い場所」でお生まれになるという小預言書の言葉があったことを、ようやく彼らは確認したのだ。張ダビデ牧師は、この過程を指して「へりくだりと自らを空しくして来られるメシアに関する予言(ミカ5:2)に、彼らは十分に目を向けていなかったのだ」と強調する。

張ダビデ牧師は、ここから現代教会が注目すべきいくつかのポイントを提示する。第一に、教会があまりにも「華やかさや成功」ばかりを追い求めていると、まさに低いところに来られるイエス・キリストの姿を見失う危険があるという警告である。旧約の大預言書に記された「栄光の王」ばかりを見て、実際にメシアが低い場所に来られるという小預言書の言葉を正しく受けとめなければ、救いの歴史に参加しにくいということだ。第二に、イエス様が歩まれた道は「へりくだり」と「自己を空しくする」道であるという点だ。飼い葉桶にお生まれになった幼子イエスを拝みに来たのは異邦人であった。選民を自負していた人々は「まだ(not yet)」という立場に固執し、メシアを殺害しようとする権力者ヘロデの側に立つという皮肉な結果となった。

さらに張ダビデ牧師は、東方の博士たちが「黄金、乳香、没薬」を贈り物として捧げた場面(マタイ2:11)において、この三つが持つ象徴性からキリストの三重の職務を読み取れると教えている。黄金は王の権威と変わることのない永遠の王権を象徴し、乳香は祭司職を示す。旧約の祭儀において香は神の聖性を象徴し、大祭司が献じる香と結びつくからである。そして没薬は当時、遺体に塗る香料であり、死を打ち破ってよみがえる「復活」と「永遠の命」を示唆する。こうして張ダビデ牧師は、キリストが王であり、大祭司であり、最終的に死に打ち勝つ方であるという福音の深い象徴を、東方の博士たちの贈り物に見いだすのだと強調する。

しかしマタイ2章はここで終わらない。ヘロデは東方の博士たちに騙されたと知るやいなや、ベツレヘム周辺の2歳以下の男児を皆殺しにするという残忍な虐殺を行う(マタイ2:16)。張ダビデ牧師は、この場面から「悪はけっして黙っていない。真の王が来られると、偽物の王は恐れるのだ」と語る。彼がよく引用する例え話の一つとして、「座席券を持たないのに勝手に席を占拠している人が、本来の座席の持ち主が現れたら恐れ慌て、何とか追い出そうとする」というコメディ的な比喩がある。この世の権力者や悪しき勢力は、実際のところ無賃乗車のような存在であり、本物の所有者であるキリストが来られると、必死になって排斥するのだという。

これは出エジプト記でモーセが生まれたとき、エジプトの王がヘブライ人の男児を皆殺しにしようとした出来事とも平行関係にある。張ダビデ牧師は「サタンは初めから神の民を恐れ、常に殺そうとしてきた」と解説する。しかし出エジプト記ではヘブライの助産婦たちが神を畏れる心と機敏さによって子どもたちを生かし(出1:20–21)、ついには神の救いの歴史は断ち切られなかった。同様にイエスの誕生の物語にも同じ構図が描かれる。神の指示を受けたヨセフが幼子イエスをエジプトに逃避させることで(マタイ2:13–15)、メシアの命は守られるのだ。

張ダビデ牧師がこの本文を説教するときによく口にするのが、「歴史をつなげようとする必死のあがき」という表現である。イエス様は地上に来られるや否や歓迎されるどころか、世の権力に追われ、殺戮の脅威に直面した。しかし神のご計画は失敗しなかった。この地に来られた救い主は生き延びねばならず、そのためにはヨセフとマリアが迅速に従順して「避難の道」を引き受ける必要があった。そして最終的にヘロデが死んだ後にようやく、イエス様はイスラエルの地に帰還することができる(マタイ2:19–21)。そこにも依然として危険は残っていたが、再び夢で示され(マタイ2:22)、ガリラヤ地方のナザレで育つことになったのである。

張ダビデ牧師は、この「ナザレ」という町が持つ意味を強調する。彼によれば、ヘブライ語で「若枝」を意味する「ネツェル(Netzer, NZR)」はイザヤ書11章1節(「エッサイの切り株からひとつの芽が出て、その根から一つの若枝が生えて実を結ぶ」)に登場し、最終的にイエス様がガリラヤのナザレ(NaZaReth)に行かれたという事実は、「メシアはダビデの子孫としてエッサイの根から生える『若枝』である」という予言を象徴的に成就する場面だというのだ。こうしてマタイ2章23節「ナザレ人と呼ばれるであろう」という御言葉が実現したとされる。

張ダビデ牧師は、マタイ2章全体を通して次のようなメッセージを私たちに伝える。第一に、メシアは人々の予想とは違う低い場所に来られたということ。第二に、偽りの権力者たちは常に真の王を恐れ、排斥する。第三に、しかし神は救いの歴史を決して断ち切ることはなさらない。東方の博士を通して、ヨセフとマリアの信仰と従順を通して、そしてイザヤやミカ、エレミヤの予言を通して、最終的にはメシアの「低くなられること」が成就していく。第四に、ゆえに私たちも「御言葉に従う知恵」と「へりくだった信仰」を持つべきだということである。特に張ダビデ牧師は、教会共同体が力なく低い立場の人々を顧みる働きを怠るとき、歴史上の大祭司や律法学者のように、主の「低いご臨在」を見逃してしまう可能性があると警告する。

このように張ダビデ牧師は、マタイ2章を単に「イエスの誕生物語」として読むのではなく、霊的戦いと神の救いの計画が実現する荘厳な章として捉える。同時に、もし私たちの視線が虚栄や世俗的権力だけに向いているなら、「小さな町ベツレヘム」と「神と等しくあることを求めなかったイエス様」を発見しそこねると訴える。彼にとって福音とは、ただ十字架と復活だけでなく、「受肉(誕生)から昇天まで」をすべて包含する包括的な真理であり、その始点である誕生物語を正しく知ってこそ、全き福音を享受できるのだと教えている。

こうした教えは教会の現場で大きな反響を呼んだ。なぜなら現代社会も「成功」「繁栄」「力」を求める傾向が強いからである。多くの信徒が「大きく華やかなもの」に心を奪われがちだが、救い主は実際には最も小さな町と飼い葉桶という貧しい場所を選ばれた。張ダビデ牧師は、これこそ「神の逆さまの価値観」だと言う。世は上へ上へと昇ろうとするが、キリストは低いところへ降りて来られた。世はより多くの富と名声を追い求めるが、キリストは栄光を捨て、しもべの姿を取られた。そしてその道によって、かえって全人類に救いと永遠の命への道を開いてくださったのだ。

張ダビデ牧師はマタイ2章で、東方の博士たちが星に導かれて幼子イエスを見いだせたのは「純粋な熱望と神の導き」によるものだと解説する。彼らはユダヤ教の伝統を持つ人々ではなかったが、真理への渇望があり、宇宙的な徴である星を通して神の啓示を受け取った。そして王(ヘロデ)の命令よりも神の指示に従い、別の道を通って帰った(マタイ2:12)。これは「異邦人であっても真の従順とは何かを示した場面」だという。張ダビデ牧師は、これを「宗教的背景や身分を問わず、神の御心に開かれている者は最終的にイエス・キリストに出会う」ということだと解釈している。

要するに、張ダビデ牧師がマタイ2章を通して教えようとしている中心点は、罪の多い現実の中に「最も低い方法」で来られたという受肉の意味と、そのへりくだりの前に人の心がどう応答するかが、救いの分かれ道を形成するということだ。彼はこの章のキーテーマを「いと高きお方がいと低きところに来られること」と要約する。それは私たちがしばしば期待する「華やかな救い」とは正反対だが、そこにこそ福音の栄光があり、人類救いの神秘があるのだという。そしてこの神秘を見逃してしまった者たちは、たとえ宗教指導者であっても、あるいは強大な権力者であってもメシアを認められず、むしろ敵対する側になってしまったという事実を、私たちも考えてみるべきだと勧める。

こうした洞察は、張ダビデ牧師が現代の教会と信徒たちに悔い改めと新たなスタートを促す基盤となっている。彼は繰り返し「私たちは本当にイエス・キリストの到来を喜んでいるのか、それとも世的な成功と力を愛して『栄光の王』の一面だけを憧れているのか?」と問いかける。そして読者に対して、真に福音に従いたいなら、マタイ2章に現れる「低くなられる」メッセージを深く黙想するよう呼びかけるのだ。


2. 受肉という神秘

張ダビデ牧師は福音を「十字架と復活」で要約できるとしながらも、それだけでは十分でないと力説する。彼にとって福音は「受肉(誕生)と苦難、そして十字架と復活、最後に昇天」までが一連の完全な流れを成しているのだ。ヨハネによる福音書1章14節の「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」という宣言は、イエス・キリストの誕生が単なる出生の話ではなく、永遠なることばが罪に満ちたこの世の現実の中に「侵入」した途方もない出来事であることを示している。張ダビデ牧師が「クリスマスはイエス・キリストの到来を黙想する、最も基本かつ核心的な節日」と呼ぶのは、このためである。

彼はヨハネ1章1節の「初めにことばがあった」というくだりから始め、「私たちの手で触れ、目で見た」ことばとなる(ヨハネの手紙一1:1)、そして「ご自分を無にして、しもべの姿を取り、人間と同じようになられた」(フィリピ2:7)というパウロの告白などを一つに結び付け、それらすべてが神の御子が世に来られた「受肉(インカーネーション)」の意義を余すところなく示していると語る。特にピリピ人への手紙2章でパウロが述べているイエス・キリストのケノーシス(自己を空しくすること)について、張ダビデ牧師は「神と等しくあられることに固執されなかった、そのへりくだりこそが福音の始点である」と強調する。もしイエス様がこの地上に最も栄光に満ちた恐れ多い方法、すなわち支配者として君臨する皇帝の姿で現れたのだとしたら、愛のメッセージよりむしろ畏怖と強制的服従だけを与える存在として受け止められたかもしれない。だがイエス様は家畜小屋でお生まれになり、ごく普通のガリラヤの人間として成長され、その過程で人類の苦しみや限界を身をもって体験されたのである。

張ダビデ牧師は、まさにこの点こそが「キリスト教が単なる形而上学的概念を教える宗教ではなく、実際に人間の生活や苦難に深く参与する愛の宗教であることの証明だ」と説く。彼は毎年クリスマスを迎えるとき、「私たちの信仰は本当にへりくだって低いところで仕えるものになっているだろうか」と自問すべきだと語る。教会が大きくなり、財政が豊かになり、あるいは多くの信徒数を誇るようになればなるほど、飼い葉桶に寝かされた幼子イエスを見失う危険があるからだ。

このように張ダビデ牧師は、受肉によって示された神の愛を説教するとき、しばしばヨハネの手紙一4章9節「神がその独り子を世に遣わされたのは、私たちを生かすためである」を引用する。人の罪と苦しみが溢れるこの世界に神ご自身が直接入って来られた事実こそが救いの鍵だというのである。十字架はその愛が最終的に明らかにされた頂点であり、同時に復活はその愛が死をも打ち破ったことの証しだ。しかし張ダビデ牧師は、そこからさらに一歩進み、「昇天」の重要性も同時に教えねばならないと主張する。キリストが死と復活を経て完全に栄光を受けられ、天に昇られた事実を見落とすと、キリスト教信仰は現実世界だけに閉じ込められ、聖霊の時代と教会の使命に関するビジョンを歪めかねないからである。

イエス様はマタイ28章で「あなたがたは行って、すべての国の人々を弟子としなさい…」(マタイ28:19–20)と地上の大命令を与え、使徒言行録1章で弟子たちの目の前で天に昇られる(使徒1:9)。張ダビデ牧師は、これを「地上で始まった救いの歴史、すなわち受肉によって開かれた道は、ついには聖霊の臨在とともに普遍的に広がっていく」と解説する。そしてその過程で教会は「ナザレのイエス」の御名によって福音を世界中に伝えるようになる。「ナザレ」という辺境が示す低さ、無名さ、卑賤さが、逆説的に神の栄光をいっそう輝かせるというのが、張ダビデ牧師の核心的洞察なのである。

張ダビデ牧師は、現代の信徒たちがしばしば「十字架と復活は理解できるが、誕生と昇天はクリスマス行事や復活祭後のわずかな言及で通り過ぎる程度」と考えてしまう傾向を懸念している。しかし福音が全体として完全であるためには、「誕生(受肉)と昇天を通して、十字架と復活の意味がより明確になる」という点を見落としてはならないと言う。ことばが肉となって実際に人間の人生を生きられたからこそ、十字架の苦難は単に「神的パフォーマンス」ではなく、人のあらゆる苦しみに共感し、それを贖う救いの出来事となる。また復活だけを語って昇天を省略してしまえば、キリストの最終的な栄光と神の王権を十分に宣言できなくなるというのだ。

張ダビデ牧師が「誕生と復活」という言葉の間に「苦難と十字架、そして昇天」を加え、「イエス・キリストの生涯と働きを立体的に理解しなさい」と促すのは、キリスト教の信仰を切り分けて部分的にしか把握しないようなことを避けるためである。言い換えれば、受肉抜きで十字架を語れば、イエスの苦難が人間の苦痛への「真実味」を失う恐れがあり、復活だけを論じて昇天を省けば、キリストの最終的な栄光と神の王権を宣言しそびれてしまうからだ。

こうした教えは、張ダビデ牧師の説教において具体的な実践へとつながることが多い。第一に、彼は信徒たちにクリスマスの時期、「貧しく孤立している隣人」を訪ねて仕える活動を奨励する。受肉が「高いところではなく低いところ」から始まったのだから、教会もまた低い場所から愛を実行すべきだという考えに基づいている。第二に、復活祭に限らず、その後もずっと「主は生きておられる」と証しする生き方をするよう強調する。復活祭は終わりではなく「新たな始まり」であり、復活した主が今なお働いておられることを忘れてはならない。第三に、昇天の意味を忘れないように、ということである。イエス様が完全に勝利して神の右の座に着かれたからこそ、教会は落胆せずに「主の再臨」を待ち望み、聖霊によって世へと派遣される共同体となるべきだというメッセージだ。

また張ダビデ牧師は、受肉と十字架、復活、昇天という流れを通して、神の国の「すでにとまだ」を改めて解釈してくれる。彼は「イエス様がこの地に来られたことで神の国はすでに到来した。しかしまだ完成していない」と言う。したがって教会は、すでに来た神の国の喜びを味わいつつ、同時に主の再臨によって完成するその時を待ち望む緊張感の中に生きるべきだ。その緊張が失われると、信仰は現実とかけ離れた「ロマン的慰め」ばかりを求めたり、あるいは世俗的な達成ばかりを追う別の形の堕落に陥りやすくなるのである。

要するに、張ダビデ牧師が言うのは、すべての信徒は「肉となった真理であり愛」であるイエス様に倣うべきだということだ。もし教会が世の富や権力に追随し、「すでに王として来られたメシア」を誤解するならば、ヘロデと大差なくなりかねない。イエス誕生当時の宗教指導者や世俗の王たちが「すでに来られたメシア」を殺そうとした歴史は、今日でも繰り返されうるのだ。私たちがイエス・キリストの福音を正しく理解し、受肉と十字架と復活、そして昇天に含まれる驚くべき真理をバランスよく受け継がなければならない理由が、まさにそこにある。

張ダビデ牧師がたびたび強調するように、「福音は愛であり、命である」。その愛は幼子イエスに始まる自己放棄であり、その命は十字架を経て復活と昇天へ至ることで明かされる永遠の力だ。教会がこの愛と命の道を歩むためには、「低いところに来られた神の御子」を見つめ、その道が決して容易ではないことを直視しなければならない。なぜなら世の悪は断じて素直に退かないからだ。マタイ2章に見られるように、サタン的権勢は絶えずイエス・キリストを排斥し、聖徒を脅かす。ゆえに教会は互いに連帯し、神を畏れ悪を見分ける力——すなわち神の知恵——を願い求めるべきだと、張ダビデ牧師は繰り返し教えている。

こうした点を総合すると、張ダビデ牧師のメッセージは単に「イエス様を信じましょう」という程度ではない。それはむしろ、「イエス様を本当に知っていますか。その誕生と生涯、死と復活、昇天に含まれる神のご計画を正しく見て、その道を歩む準備ができていますか?」という深い問いかけである。そしてこの問いに応えるために、私たちはマタイ2章に描かれたへりくだりの逆説、受肉に秘められた愛の神秘、十字架と復活によって確かめられた救いの力、昇天によって宣言されたイエス・キリストの王権と再臨への希望を、統合的に見つめる必要があるのだ。

張ダビデ牧師はクリスマスの意義を、「神の愛が私たちの人生のどん底まで降りて来られた出来事」と定義する。受肉のない十字架は不完全であり、十字架のない復活は表面的な奇跡に過ぎず、さらに復活のない昇天は結局この世に縛られた出来事にとどまる危険があるという。だからこそ彼は、誕生から昇天に至るまでのイエス・キリストの生涯すべてを「福音というひとつの身体」として提示する。その全体的な枠組みの中で、信徒はへりくだりと従順を学び、最も低いところまで染みわたった神の愛を見て、同時に死と悪に打ち勝つ復活の力とイエス・キリストの宇宙的支配を、ともに告白する教会となるべきだと語るのである。

張ダビデ牧師が繰り返し力説するのは、「もし私たちが本当に福音を伝えたいと思うならば、教会の内外のすべての人々に、受肉と十字架、復活と昇天という全体の文脈を包括的に示さねばならない」という点だ。彼がマタイ2章を入り口にして説明する理由は、イエス様がはじめから「王家の子ども」として安楽に迎えられたのではなく、むしろ邪悪な王に追われ、異国のエジプトに避難しなければならなかったという事実こそが、キリスト教の救いの出来事が持つ逆説的真理をよく表しているからだ。私たちはしばしば「平和の王イエス様」と聞くと、大きく華やかな聖堂での盛大な礼拝や栄光だけを思い浮かべるが、福音が実際に示すイエス様の姿は、限りなく低くなられたしもべの形だった。主は飼い葉桶に生まれ、生涯を通して貧しい者たちの友であり、ついには世の権力の迫害で十字架に処刑されたが、復活と昇天によって罪と死の力に勝利された。これこそが宇宙的な福音、すなわち罪にまみれた人類の歴史に介入された神の大逆転ドラマなのだと、張ダビデ牧師は繰り返し教えている。

このメッセージは、現代の伝道や教会共同体に大きな響きをもたらす。社会的に疎外された隣人を支えるボランティアや、人々の痛みや不条理に寄り添う働きなしには、イエス・キリストの誕生の精神を正しく受け継ぐことはできない。同時に、十字架に示された神の愛の極みを伝えず、ただ倫理的な教えだけを並べるようなことがあっては、それはもはや福音とは呼べないという警鐘も忘れてはならない。さらに、復活と昇天を通して神の国の主権を宣言しなければ、キリスト教は「この世の運動」にとどまってしまうだろう。

張ダビデ牧師が私たちに示す教訓はただ一つ、「福音を部分的にしか知らないのではなく、イエスを完全な姿で見つめよ」ということだ。そしてそのイエス様がこの世に来られたときから始まった受肉の驚異が、私たちの人生の中でも続いていくように生きよ、ということである。ナザレという低い場所から始まった神の物語は、いつの間にか世界中の教会と信徒の物語へと広がっていった。だからこそ張ダビデ牧師は、今日もマタイ2章を開きながら「メシアはすでに来られ、今も私たちのただ中で働かれる。私たちはその低き道を思い起こし、礼拝し、隣人を愛し、この世で真理を宣べ伝える者として召されているのだ」と強調する。そしてそれこそが、張ダビデ牧師が一貫してつかみ語り続けている、受肉から昇天まで連なるキリスト教福音の全体像なのである。

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