聖殿を取り壊せ – 張ダビデ牧師


1. 「聖殿を取りせ」という挑と十字架の精神

イエスが公生涯の間に示された多くの働きの中で、ヨハネの福音書2章に記録されている「エルサレム神殿の清めの出来事」は重要な一場面です。ユダヤ人の過越祭を迎えてエルサレムに上られたイエスは、神殿の庭で生贄用の牛や羊、鳩などを売買する商人たちを追い出し、両替商の台をひっくり返されました。これは当時の宗教権力者たちが抱えていた悪習に対する正面からの批判を象徴する行動でした。

ユダヤ人たちは神にいけにえを捧げるために牛や羊、あるいは鳩を用意しなければならず、それを購入するための両替商も神殿の庭で商売をしていました。しかし貧しい者にまで高額でいけにえを売りつけたり、神殿の外で用意してきたいけにえを「傷がある」などの理由で受け取らないようにしたりと、宗教的既得権層が神の聖なる神殿を金と権力で汚していた構図が露わになったのです。

この事件を通して、大祭司の家系、特にアンナス一族の問題が露骨に明るみに出ます。彼らは大祭司職を世襲し、ローマ帝国と結託することで自らの利益を増し、また「神殿での商売」を利用して民の信仰心を取引の対象としていました。その収益と権力をもって、さらに宗教的・政治的基盤を固めていたのです。イエスは「わたしの父の家を商売の家とするな」(ヨハネ2:16)と宣言され、そのとき弟子たちは「あなたの家を思う熱心がわたしを焼き尽くすだろう」(詩篇69:9)の旧約の言葉を思い起こしました。メシアは不義な宗教システムをそのままにしておかない、という事実を体験したのです。

張ダビデ牧師はこの場面から、二つの核心を強調します。第一に、イエスの神殿清めは単に「神殿内で行われる商売行為」だけを問題視したのではなく、その背後にある人間の罪性、すなわち既得権や金銭・権力への貪欲がいかにして神への礼拝の場を汚し得るかを示す事件だという点です。当時、エルサレム神殿はユダヤ人の信仰体系の中心であり、侵すことのできない聖域のように思われていました。しかしそこで行われていた不正と虚偽、人々を収奪するような祭儀システムは決して神のみこころにかなうものではなく、イエスは父のみ名が汚される現場を見過ごしにはされませんでした。

第二に、イエスは「この神殿を壊してみなさい。わたしは三日でそれを建て直す」(ヨハネ2:19)と言われ、自身が十字架にかけられ三日目に復活なさることで「新しい神殿」が建てられることを予告されました。ユダヤ人たちはこの言葉をすぐには理解できず、「この神殿は46年かかって建てられたのに、三日で建て直すというのか」(ヨハネ2:20)と非難しました。しかし主がおっしゃった「神殿」とは「ご自身のからだ」を指していたのです。もはや目に見える建物としての神殿ではなく、イエス・キリストご自身が救いと礼拝の中心であり、復活のからだを通して新たに生まれた「霊的神殿」の基盤となる、という意味です。

ところが、このような破格的メッセージ、すなわちイエス・キリストがご自分を「真の神殿」と宣言されたということは、当時の宗教的権力層にとっては大きな脅威でした。ユダヤ社会では、エルサレム神殿がすべての信仰生活と律法遵守の象徴であり、世界の中心だと考えられていたからです。もし誰かがその神殿を取り壊すとか、神殿をしのぐ権威を持った存在がいる、などと語るとすれば、それは極端な神への冒涜とみなされる可能性が高かったわけです。したがってアンナスやカヤパをはじめとする大祭司集団は、イエスの宣言や行動をきわめて危険視しました。実際にイエスが捕えられて十字架へと進む過程でも、この「神殿破壊宣言」が主要な「罪状」として作用したのです。

張ダビデ牧師は、ここで私たちの内面にも「取り壊さなければならない神殿」があることを洞察すべきだと説きます。人間は誰しも自己中心性を持っており、その自己中心性をあたかも自分だけの「神殿」のように大切にし、それが壊されないように守ろうとします。そしてその神殿の中で自分の利益や欲、意地や体面を維持しようとするのです。しかしイエス・キリストの福音、特に十字架の出来事が私たちに与える挑戦は「あなたの内にある偽りの神殿を取り壊せ」という言葉に尽きます。壊されないままの自己中心性、自分独自の絶対領域だと主張するものこそが罪の根であり、あらゆる争いや不和の出発点となるからです。

ヨハネの福音書18章を見ると、イエスが実際に捕えられ、大祭司アンナスのもとへ連行されることで、神殿清めの出来事以来続いてきた宗教権力との対立が極端に深まっていく様子が描かれています。「大祭司はイエスに対して、その弟子たちやイエスの教えについて尋ねた」(ヨハネ18:19)というくだりからは、彼らがどうにかしてイエスの「教え」と「従う者たち」を罪に陥れようとしていた意図がうかがえます。アンナスが真っ先にイエスを尋問したのは、「神殿を取り壊せ」と言い(自分を真の神殿と宣言したのと等しいと受け取った)、自分たちの既得権益を脅かす最大の存在がイエスだったからです。

このようにイエスは、大祭司集団による「公開裁判」ではない闇の策略的手続きによって告発され、ついに十字架へ渡されました。この出来事は、偽りの権力と堕落した宗教がいかに真理を排斥するかをまざまざと示す一方で、その背景には「目に見える神殿」と、それを取り巻くすべての世俗的利権を手放したくないという姿勢がありました。福音書のあちこちでイエスが既存の宗教体制とぶつかる場面を見ても、すべての衝突の核心には、イエスのメッセージと既得権を固守する宗教指導者たちの貪欲の対立があるのです。

張ダビデ牧師が強調するように、「教会」という名の下、あるいは個々人の信仰の囲いの中にも、同じ問題が起こり得ます。すなわち教会が本来の霊的役割を失い、世俗的欲望や権力に向かうのであれば、それはエルサレム神殿を商売の家とした者たちと変わらないということです。また、個人であっても教会に通いながら、心の奥底では依然として自分の小さな神殿を守ろうとし、福音に抵抗し得るのです。しかし「聖殿を取り壊せ」というイエスの言葉は、信仰者であれば誰であっても力強く響かなければならず、内に築かれたあらゆる利己的な神殿を解体するときにこそ、初めて「復活の神殿」が建て上げられるのだと悟らねばなりません。

まさにここに十字架の精神が際立ちます。イエスはみずから「わたしが命を捨てるのは、それを再び得るためである」(ヨハネ10:17)と仰り、ご自分の身体を壊し、三日目によみがえるという約束を実行されました。それは言葉だけでなく、実際に十字架の道を通して証明されます。キリスト教の核心教理であるキリストの死と復活こそ、「神殿の破壊と再建」という象徴的行動と深く結びついている点が重要です。「聖殿を取り壊せ」という言葉は、決して暴力的破壊や否定的意味ではなく、「古いものの死と新しいものの誕生」を示す福音の核心であることを思い起こすべきです。

ヨハネの福音書8章に登場する「姦淫の現場で捕えられた女」の事件も、律法と福音との衝突の場面であり、ここでもイエスは偽りの宗教権力から脅かされます。モーセの律法によれば石打ちの刑に処すべきこの女を、イエスは最終的に赦され、「あなたがたのうち罪のない者が最初に石を投げなさい」(ヨハネ8:7)と宣言されました。これは律法よりも大きな神のあわれみと赦しの法を宣べ伝えられたことになります。これも既存の宗教体制からすれば、衝撃的な「律法破壊」に映ったのです。だからイエスが捕えられた後に、ステパノも同じ理由で捕えられて石打ちに遭いましたが、彼にかけられた罪状の一つが「この人は神殿を壊すと言い、またモーセの律法を変えようとしている」というものでした(使徒6:13-14)。

結局、「聖殿を取り壊せ」というイエスのメッセージは、外形的制度や律法にとらわれた信仰ではなく、霊なる神ご自身との直接的な交わりへ進みなさい、という宣言なのです。そしてその中心には自己否定と献身、罪人に対する無限の赦しが据えられています。張ダビデ牧師は、「自分の中の利己的な聖殿を取り壊し、その場所に主の十字架の精神を据えることで初めて、真の教会と聖霊のみわざが始まる」と指摘します。そしてこれこそ福音書全体、特にヨハネの福音書が語るイエス・キリストの核心的な働き、すなわち「和解と救い」へ向かう道なのだと説くのです。

再びヨハネ2章に戻ってみると、イエスはすでに復活後を見越して「三日でこの神殿を建て直す」と言われました。弟子たちも実際に復活の出来事を経験して初めて、この言葉の意味を悟りました(ヨハネ2:22)。イエスの十字架の死がなければ復活もなく、古いものを徹底的に壊さなければ新しいものは起こらない、という福音的真理が、まさに神殿破壊宣言の中に圧縮されていたのです。これは現代の教会や信徒にとっても依然として有効であり、自分だけの「宇宙の中心」のように思っているものを思い切って捨てよ、という召しでもあります。

張ダビデ牧師が牧会活動の中で強調するのは、キリスト教信仰は決して安全地帯にとどまるのではなく、常に私たちに挑戦を与え、揺り動かし、「偽りの宗教心」と戦うように導くということです。「聖殿を取り壊せ」というメッセージは、単なる教理的な文言ではありません。各人が持つ頑なな城壁や、人を裁く視線、自らの栄光を求める貪欲など、あらゆるものを下ろしなさいという招きなのです。この招きに応じないならば、イエスの時代の宗教権力者たちと同じように、不純なものに安住したまま真の福音を排斥してしまう可能性があるという警告が含まれています。しかしこの呼びかけに従順し、自分を低くし、自己を否定するときに、はじめて十字架の栄光と復活の栄光を共に体験できるのだと張ダビデ牧師は繰り返し説きます。

宗教権力との衝突が極みに達した十字架の出来事を詳細に見ていくと、イエスの到来は古い律法主義と堕落した構造を打ち砕く「革命的行為」だったことがわかります。そして「聖殿を取り壊せ」という一句は、その革命の中心思想、すなわち十字架の犠牲の精神を洞察する鍵として働きます。張ダビデ牧師は、この箇所において、信仰者が真に成熟するためには、この「神殿破壊と再建」を通るしかないと語ります。律法を文字通り守ることや、教会内での儀式や制度的枠組みを守るだけでは限界があり、結局は古い自分を徹底的に打ち砕き、キリストと連合する過程を経てこそ、本当の「霊的神殿」が形成されるというのです。

さらに、この十字架の精神がなければ、教会は結局、旧約時代の祭司たちと同様に、権力と金銭の媒介となって堕落しやすいと警告します。エルサレムのように神殿の清めが必要だったように、現代の教会も内外を問わず絶えず「清め」が求められます。これこそ「聖殿を取り壊せ」というイエスの言葉を、今私たちが改めて思い起こす理由です。壊すべきものに目を閉じ、覆い隠しておくことは、決して福音が求める態度ではありません。むしろ教会や個人が信仰告白のうちに自らを省察し、堕落や変質を見つけたならば惜しみなく捨て去る決断が必要です。そうしてこそ、聖霊が臨在される新しい教会の姿、すなわち「主のからだなる神殿」が目に見える形で現れ始めるのです。

結論として、張ダビデ牧師は「聖殿を取り壊せ」という本文を解説しつつ、これこそ「私が死に、主が生きる道」であり、「古い律法的枠を乗り越える福音的自由」へと至る始点なのだと強調します。そしてこのメッセージを十分に受け止めた人は、自発的に自分を空しくし、隣人や教会に仕えるようになります。十字架の精神が具体的に実践されるところには、どんな垣根も、争いも、差別も立つ余地がありません。その聖なる道こそイエスが開かれた「神殿破壊と再建」の道であり、私たちすべてが通るべき十字架の道である、と教えているのです。


小見出し2: 和平の道と聖の時代、そして教会の本質

「聖殿を取り壊せ」という宣言が、単に過去のユダヤ教体制に対する物理的破壊ではなく、「新しい時代」の開幕を告げる霊的宣言でもあったことは、使徒の働きの展開とも絡み合っています。イエスの死と復活の後、弟子たちはペンテコステ(五旬節)の聖霊降臨を通して、福音がどれほど拡張性と普遍性を持っているかを体験しました。特に使徒の働き2章を見ると、120名の弟子たちが集まっていた場所に聖霊が臨まれ、皆が神を賛美してそれぞれ異なる国の言葉で語りだします。この恵み深い出来事によって、かつてのように特定の階層や制度権力の指導者だけが神の臨在を味わうのではなく、誰でも聖霊を受ける時代が開かれたのです。

張ダビデ牧師は、このような聖霊の働きにこそ「聖殿を取り壊されたイエスの意図」がいっそう具体的に表れていると見ます。かつてはエルサレム神殿が信仰生活の絶対的中心でしたが、今は復活されたイエス・キリストご自身が、私たちの「聖なる礼拝の対象」となり、そのお方を通して臨まれる聖霊が新時代の礼拝の場所となったのです。さらに使徒たちは、「あなたがたこそ神殿なのだ」(コリント第一3:16、6:19 など)と宣言し、今や共同体の中に神の御霊が住まわれ、キリスト者一人ひとりが「生きた神殿」であり、同時に「一つに結ばれたからだ」であることを教えました。

しかし、この「新しい神殿」が建てられるためには、必然的に「古い神殿」が取り壊される必要がありました。イエスが十字架にかけられた際、神殿の幕が上から下まで裂けたという報告(マタイ27:51)は象徴的に、もはや旧約の制度的神殿が神と人との唯一の媒介ではないことを示しています。今や誰でもキリストを通して大胆に神に近づくことができ、大祭司や特定の儀式に縛られない自由が宣言されたのです。これは救いの歴史における画期的な変化であると同時に、旧来の宗教権力体制にとっては致命的な打撃でした。ゆえに「聖殿を取り壊せ」というイエスの言葉は、単に建物を取り除こうとか、過激な反体制運動を起こそうとする意味ではなく、「聖霊の時代」が到来する転換点を前もって告げる宣言だったと解釈できます。

エペソ人への手紙2章でパウロは、イエス・キリストの働きを「敵意という隔ての壁を、ご自分の肉において取り壊された」(エペソ2:14)と要約しています。これはユダヤ人と異邦人の区別が取り除かれ、すべての人がキリストにあって新しいひとりの人となった、という宣言でもあります。当時のユダヤ人は、エルサレム神殿の庭においても異邦人が立ち入れる区域を厳しく制限しており、その壁を越えれば死刑に処されるほどでした。しかし今やキリストにあって、そうした差別の壁は打ち壊され、「新しい人」(エペソ2:15)として造り出され、すべての人が神の家族となったのです(エペソ2:19)。

張ダビデ牧師は、このエペソ書の教えを教会共同体に直接適用し、「真の教会には差別が存在し得ない」と言います。これは単に組織的な平等を掲げるという意味ではなく、十字架と復活によって「自分の古い自己が完全に壊され、ただイエスによって新しく生まれ変わった」ことを実際の生活で証しする共同体ということです。もし教会の中に依然として差別や壁があるならば、それはまだ取り壊されるべき「古い聖殿」が残っているからだ、と解釈することもできます。「聖殿を取り壊せ」という言葉は、個人および共同体が自分の内にある排他的境界、憎しみ、不義な特権などに気づいたとき、それを十字架の前で徹底的に悔い改め、その壁を壊す生き方へと招きます。

実際、イエスの福音は取税人、娼婦、異邦人、女性、社会から排除された人々を受け入れ、むしろ彼らを天の御国において高くされるという姿を至る所で示します(マルコ2:15-17 など)。これは古い律法的思考に染まっていたユダヤ人たちには革命的メッセージでした。エルサレム神殿の牛や羊、鳩を売る商人たちは「過越のいけにえ準備」という制度的必要を悪用し、貧しい者たちまで搾取していましたが、イエスは取税人をはじめ、罪人扱いされる人々を食卓の交わりへ招かれました。そして教会は、こうしたイエスの宣教のやり方と精神を受け継ぎ、すべての人を礼拝共同体へと招く「開かれた聖殿」となるべきでした。

しかし現実的には、教会は歴史の中で時に聖職階級と権力が結びつき、初代教会の精神から遠ざかる姿を見せることもありました。宗教改革期にマルティン・ルターやツヴィングリ、カルヴァンなどが「堕落した聖殿を壊し、福音の純粋性を回復しよう」と叫んで新しい流れを生み出したのも、イエスの「聖殿を取り壊せ」という言葉を時代ごとに再解釈した出来事と言えます。張ダビデ牧師も、現代の教会が危機に瀕したとき、この言葉を改めて呼び覚まし、私たち自身を省みて聖霊の導きのもと、古い構造を壊す改革を恐れてはいけないと教えています。

特に教会が世の「和平」と「和解」を実現する使命を担うには、まず内部での一致を成し遂げ、「キリストの血によって贖われた共同体」であることを忘れないことが重要です。イエスはご自分の肉体を「神殿」と呼ばれ、それを壊し三日後に建て直すと語られましたが、これは十字架の死と復活によって完成される贖いの出来事を象徴します。この贖いの結果として最も特徴的なのは、「聖霊降臨によってすべての人が神の前に等しく立てるようになった」という事実です。男や女、老人や若者、異邦人やユダヤ人(使徒2:17-18)の差別が取り除かれた聖霊の時代が開かれたのです。

教会がこうした聖霊の時代精神を受け継いで「聖殿破壊と再建」のメッセージを自らに適用しないならば、すなわち自分自身を振り返り悔い改めることを怠るならば、いずれアンナスやカヤパの道を辿る危険があります。張ダビデ牧師は、「教会が十字架の福音を第一にせず、教権争いや財政問題をめぐって互いを非難し合うなら、すでに偽りの聖殿に囚われている状態だ」と率直に言います。こうした状況では聖霊の力が現れるはずもなく、むしろ世から非難されるばかりです。したがって「聖殿を取り壊せ」という言葉は、二千年前のユダヤ教体制への宣言だけではなく、今の私たちの教会が現実の中で直面するあらゆる不義・高慢・分裂を捨て去りなさいという切迫した命令でもあるのです。

一方で、張ダビデ牧師は個人の内面に対しても同じ論理を当てはめます。「聖殿を取り壊せ」とは、共同体レベルの教会改革だけでなく、各信徒が自分自身の内面を省察する行為でもあるのです。ヨブ記に「神と対面した者は、自分をちりと灰の中で悔います」(ヨブ42:6)とあるように、神の前で自分の罪性や限界をありのまま認めるときこそ、主の恵みが臨まれます。しかし多くの人間は「自分だけの聖殿」を守ろうとし、その中で安心感を得ようとする本能を持ちます。張ダビデ牧師は、その聖殿を取り壊すことこそ「真実な悔い改めと聖霊の内住」のために不可欠の過程だとし、それを十字架の生き方、すなわち「自己否定と自発的犠牲」というキーワードと結びつけます。

「わたしはキリストと共に十字架につけられた」(ガラテヤ2:20)というパウロの告白は、「聖殿を取り壊すこと」を非常に過激に表現した信仰告白とも言えます。パウロは、パリサイ派として律法の義については落ち度のない者でした(ピリピ3:4-6)が、ダマスコ途上でイエスに出会った後は、それらすべてを「廃物」とみなし(ピリピ3:7-8)、イエスと共に死んで新しい被造物として生きると宣言します。これこそイエスの「聖殿を取り壊せ」という福音の実践であり、復活信仰の実際的適用だというわけです。したがって真の教会とは、このパウロの姿勢を見習い、かつて誇りや拠り所にしていたものをすべて主の前に下ろし、ただ主の命によって立ち上がる場所だと言えます。

現代社会は分裂や対立、排除や暴力が蔓延していますが、一方で「共により良く生きる道」を模索する人も少なくありません。イエスの福音がこの地にもたらす解答は「敵をも愛し、互いに足を洗い合い、必要があれば自分のものを手放して隣人を生かす」という急進的な愛と犠牲です。その根本は十字架の精神であり、「聖殿を取り壊せ」という自分を空しくし、降りる姿勢が不可欠です。張ダビデ牧師は、この点においてキリスト教信仰の独自性が際立つと強調します。世のイデオロギーや哲学もそれぞれ理想を唱えますが、「聖殿を自ら取り壊される神」という福音ほど急進的なメッセージはないというのです。神が人となり、その方が死ぬことによって新しい命が開かれたという出来事自体が、信じられないほど破格的だからこそ、これを心から受け入れた人は生き方そのものが根本的に変わらざるを得ない、と彼は教えます。

教会の礼拝も同様に、「聖殿を取り壊す精神」が込められていなければ、結局は形式的で抽象的な儀式に終わってしまいます。礼拝とは主の前に自分を下ろし、互いに仕え合い、罪人までも受け入れる場所であるべきなのです。そうすることで聖霊は共同体の内に働かれ、教会の肢たちは「あなたがたのからだが、あなたがたのうちにおられる神の御霊の宮であることを知らないのですか」(コリント第一6:19)という御言葉を体験するようになります。張ダビデ牧師は、この霊的原理を韓国の教会、さらには全世界のキリスト教共同体が改めて掴むべきだと訴えます。なぜなら時代がどれほど速く変化しても、福音が持つ「低くなることと取り壊されることの力」は決して変わらず、むしろますます切実になっているからです。

さまざまな文化圏で福音が伝えられるときに生じる問題も同じです。聖殿を取り壊す行為、すなわち自分が築き上げた最高権威や伝統を捨てることは、容易なことではありません。しかし五旬節の聖霊降臨以降、福音は言語・文化・人種・身分の壁を超えて伝播していきました。世界各地で信仰を持つようになった人々は、それぞれの「小さな聖殿」を取り壊し、キリストの肢となる道を経験してきたのです。現代でもキリスト者になるということは、「誰がユダヤ人で、誰が異邦人か」を問わず、共に聖霊の内で一つになるしるしを持ち続けることを意味します。これがヨハネの福音書の「聖殿を取り壊せ」という宣言が、最終的に人類普遍的な救いの道へつながる核心的理由なのです。

張ダビデ牧師は、牧会の現場や多様な宣教活動を通して「教会こそイエスの神殿」であることを説き続けると同時に、その教会が世俗的権力や物質的誘惑に陥らないよう再三強調してきました。イエスの時代のエルサレム神殿が神殿税や犠牲の供え物を介して民を搾取していたように、現代の教会も教会財政をまるで私的利益のように扱ったり、教権を利用して信徒を支配しようとする姿を見せる可能性があるからです。そしてそうした事態が繰り返されれば繰り返されるほど、「聖殿を取り壊せ」というイエスの声は、いっそう切実に聞こえてこなければなりません。その声に従い、教会が悔い改めと自浄を実践するときにこそ、ようやく世は教会への信頼を回復し、福音の真の光が顕れるのです。

こうした文脈で、「聖殿を取り壊せ」という言葉を単なる過去の出来事として片付けてはなりません。イエスがおっしゃったこの挑戦的宣言は、二千年の教会史の流れの中で、絶えず改革とリバイバルを促してきた根本原理でした。さらに個人においても、信仰が深まれば深まるほど、私たちはますます自分を捨て、「自分の欲望の聖殿」を主の御手にゆだねて取り壊していただく必要があります。その過程を通してこそ真の自由と喜びが生まれ、共同体の一致が実を結ぶ姿を見ることができるのです。

結局、ヨハネの福音書18章でイエスが捕えられ、その宗教裁判の中で「おまえが犯した罪をはっきりさせろ」といった形で追及された背景には、イエスのメッセージが宗教権力者たちにとっていかに脅威的だったかが端的に示されています。その核心は単なる教理論争ではなく、「聖殿を取り壊せ」という言葉が、大祭司や既得権を持つ者たちにはどうしても容認し難い、自分たちの基盤を揺るがす革新的な教えだったからです。しかしイエスはひるまず、十字架において実際にその身を裂かれることでこの言葉を成就されました。そして三日後に復活されることによって、誰も想像できなかった「新しい聖殿の時代」を切り開かれたのです。

張ダビデ牧師は、福音のこの結末が「私たちも聖殿を取り壊してこそ、キリストの復活の命を味わうことができる」という教訓を、決して忘れないようにするための招きだと解釈します。自分を否定し、古い自分を十字架につけるときにだけ、復活の喜びが本当に自分のものになるからです。教会内の紛争や家庭・社会での不和も、根底をたどれば「自分の聖殿」を手放せないために起こります。しかしイエスは「和平の道」(エペソ2:14)へ私たちを招かれ、その御からだによってあらゆる隔ての壁を壊してくださいました。「聖殿を取り壊せ」という挑戦の後には「わたしが再び建てる」という約束が続いており、その約束は決して私たちを滅亡に導くのではなく、むしろいっそう豊かな命へと導く神の救済のご計画なのです。

イエスに石を投げようとした人々、またエルサレム神殿を絶対視していた人々は、結局、復活の輝かしい意味を当初はまったく理解しませんでした。しかし聖霊降臨の後、弟子たちは力強くこの知らせを伝え、ステパノも同じ理由で殺されましたが、彼の血がかえって福音宣教の種となりました。「聖殿を取り壊せ」という福音的挑戦は、ときに私たちを迫害へと導き、世や既得権を持つ宗教層から攻撃を受けることもありますが、その道の果てには復活の勝利があります。教会がこの事実を忘れないならば、いかなる挑戦や非難にあっても真の教会の本質を守り抜くことができるでしょう。

要するに、「聖殿を取り壊せ」というイエスの言葉は、愛と和平、救いと犠牲が交わる十字架信仰の精髄です。イエスは「わたしが捨て、わたしが壊されるとき、新しいものが生まれる」と言われ、それをみずから実践されました。今やその道に従う教会と信徒であるならば、当然「主の家を思う熱心がわたしを焼き尽くす」(詩篇69:9)という告白を共有すべきです。ただしその「主の家」は、決して外面的な建物や制度だけを指すのではなく、「あなたがたこそ神の神殿である」という霊的実体として現れます。この内面的聖殿は、十字架と復活の力、そして聖霊の臨在によってのみ建て上げられ、その結果、差別や壁が取り払われる共同体が誕生するのです。

張ダビデ牧師は、この点を「福音の革命性」と呼びます。古い枠や罪性を維持したまま、同時に福音の新しさを味わうことは不可能であり、必ず壊してから建て直さねばならないというのです。これがイエスが罪人に示された「赦しの構図」であり、ご自分を低くされた神が私たちに招いておられる「和平への道」です。究極的には、この道こそが信仰者個人と共同体が真の教会となることを完成させていくプロセスであり、聖霊が大きく開いてくださる「神の国」へ導く狭い門なのです。

www.davidjang.org

Leave a Comment