
1. 約束として与えられた福音と受肉の神秘
張ダビデ牧師が講義したローマ書1章2~7節を黙想しつつ、私たちはまず、パウロが伝える福音とは何であり、その福音がなぜ私たちの間に「約束の成就」として現れたのかを深く考えることができます。張ダビデ牧師はこの聖句を通して、福音が決して人間の理論や思想、あるいは個人の私的な意見などではなく、徹底的に神の約束から始まっていることを強調します。すなわち「この福音は神が預言者たちを通して、その御子に関して聖書にあらかじめ約束されたものである」(ローマ1:2)という御言葉には、神が人類の歴史の中ですでに遥か昔から、この福音が宣べ伝えられることを計画しておられたという驚くべき摂理が込められているのです。
私たちは、福音が“天から突然落ちてきた”未知の教えではなく、旧約時代を通して継続的に予言されてきた「キリスト」というお方に関する具体的な約束であったことを忘れてはなりません。ここでパウロが語る福音の核心は、「神の御子が肉体をもって来られた」という宣言に要約されます。パウロはローマ書1章3節で「御子に関して言えば、肉によればダビデの子孫として生まれ…」と証言し、イエス・キリストが私たちと全く同じ人間として地上に来られたことを宣言しています。聖書の予言はすべてこの事実を指し示していました。神は歴史の中で預言者たちを通じてご自身の摂理を折々に示され、その最終的な完成がイエス・キリストの「受肉(インカーネーション)」によって現れたのです。
張ダビデ牧師はここで「キリスト教は罪人のための宗教である」という事実を改めて強調します。イエスが義人を招くためではなく、罪人を探しに来られたという福音書の宣言が、まさにこの受肉の出来事に含まれているからです。イエスは罪人たちの生活のただ中に住まわれました。「肉によればダビデの子孫」として生まれたという一節は、単にイエスがダビデ王朝の子孫だという歴史的・系譜的事実を述べるにとどまらず、全能なる神が本当の人間としてこの世に入ってこられたことを告げる象徴的な表現なのです。
この受肉の出来事は、キリスト教信仰における最大の特徴であり、かつ逆説でもあります。パウロはピリピ書2章6~8節でこれを「ケノーシス(Kenosis)=自己を空しくすること」と呼び、イエス・キリストが本来神と等しいお方でありながら、しもべの姿を取り、人と同じようになられたことを力強く宣言します。真なる神であると同時に真なる人となられた(「真の神であり真の人」、Vere Deus & Vere Homo)というこの驚くべき真理こそ、キリスト者が信じる「福音」の決定的な根拠なのです。
パウロはローマ書1章3~4節において、このケノーシスと受肉、そしてその結果として起こったイエス・キリストの死と復活を、短くしかし強烈に要約しています。イエスは人間として来られ、十字架で死なれ、そして聖なる御霊によって死者の中からよみがえられました。これこそがパウロの言う「神の御子として宣言されたイエス・キリスト」(ローマ1:4)です(口語や新共同訳では「宣言された」と訳される部分が、かつての文語や改訳によっては「御子と定められた」「御子と認められた」などと表現されます)。人の目には罪人の姿で死んだかのように見えましたが、神の目には「死を打ち破る者」として認められた――その意味がここに込められています。
福音とは、まさにこの歴史的・実存的な出来事を指し示します。キリスト者が伝えるメッセージは「罪人を救うイエス・キリスト」についての物語であって、人間の道徳的教訓や抽象的哲学ではありません。パウロの時代、ギリシアの哲学者たちは「真理(ロゴス)」を探し求め、生涯を投資しましたが、最終的には「人間の力」だけではそのロゴスに至れませんでした。しかしヨハネの福音書1章は宣言します。「言(ことば)は肉となって、私たちの間に住まわれた」(ヨハネ1:14)。すなわち、あらゆる哲学者や賢者が切に求めていた真理が、実際に人となって地上に住まわれたというのです。パウロはローマ書1章でこれを「ダビデの子孫として来られた」神の御子と呼び、同時に「死者の中からの復活によって力ある神の御子と宣言された」と語ることで、イエスが歴史の中で真の人となられ、かつ神の御子であることをはっきりと証ししています。
張ダビデ牧師は、この福音の前に立つとき、私たちの知性や理性を超えた「恵み」が臨むのだと教えます。これは「無条件の愛(Unconditional Love)」と「全き贈り物(Surprising Gift)」とも言い換えられます。福音を知らずに生きていた罪人が、このメッセージを聞いて「自分のために低くなられたキリストの愛」を思い涙する――それがまさに恵みです。パウロ自身もこれを体験しました。かつては「教会を迫害し、キリスト者を残酷に弾圧していた罪人」だったにもかかわらず、彼を探し当てたイエス・キリストの愛に完全に打ちのめされたのです。彼はそこから直ちに福音の使徒となり、最も熱心に福音を叫び、教会を建て上げ、この「約束の福音」を伝えるために生涯を捧げました。
結局、福音は「救いのメッセージ」であり「歴史の完成」です。神がお送りくださった約束の御子イエスが人間として来られ、十字架と復活によって罪と死を打ち破ってくださいました。このことがすでに預言者たちによって約束され、実際に私たちの目の前に顕現した。それこそが福音であり、だからこそ福音は私たちの人生を覆します。さらに「あなたがたの心の中でキリストを主としなさい」(1ペテロ3:15)と生きる者は、必ずこの福音について問う世に対して答えを準備しなければなりません。その答えこそが「証」であり、「私が聞いた福音、私が出会ったキリスト」をそのまま伝えることです。
パウロが「私は十字架と復活以外に誇るものはない」と言うのも同じ文脈です。私たちの宣教や伝道は、自分の考えや知識を誇示する場ではありません。ひたすら「私のような罪人を生かしてくださったあの十字架の愛」と「私を新しい命へと呼び起こしてくださった復活の権能」を明かしするだけなのです。もし誰かが福音についてたずねてきたら、私たちは「キリストがいかに私の人生に入ってくださったのか」「どのように私を変えてくださったのか」「どのように永遠の希望を抱かせてくださったのか」を証言すればよいのです。パウロも自身の手紙の冒頭を「私は福音のために召された者です」という告白で始め、その福音が何であるか、そしてその福音のうちで自分が何者であるかを明かしました。
最終的に、「福音」は世に対抗する神秘的理論や寓話ではなく、神の預言者たちがずっと以前から予言してきてイエス・キリストのうちに成就した現実的な出来事です。そして福音とは、聖なる神が罪人である私たちを直接探しに来て救おうとされる「愛の物語」でもあります。張ダビデ牧師はこの受肉の愛の物語を通じ、「神の御子が自ら私たちの中に来られた」ということこそがキリスト教の核心であると強調します。主ご自身が私たちの中へ来られたからこそ、私たちは罪の鎖から解き放たれ、新たな希望と命を得るようになったのです。
さて、この福音が与えられたとき、私たちの態度は自然に「信じて従う」ことへとつながらなければなりません。これがパウロの言う「異邦人たちの間でも信仰の従順をもたらすために」(ローマ1:5)という言葉の意味です。かつては全く救いの契約の外にいた者たちが、今は神の恵みによって福音を聞き、その福音の力を体験するようになりました。そしてこの福音のうちで「信じて従う」者となった彼らは、過去とは全く違う生き方をするほかありません。罪の習慣に縛られていた過去から、イエス・キリストの十字架によって罪の赦しを受け、復活によって与えられた命の力に支えられながら、神に栄光を帰す新しい人生を始めるのです。
パウロがローマ教会の聖徒たちを「聖徒として召されたすべての人々」(ローマ1:7)と呼ぶことができたのも、この福音の力によるのです。巨大な文明であるローマ帝国のただ中で、キリスト者たちは世の支配理念や多神教的風潮と衝突しながらも、むしろ福音の価値を堅持し、大胆に福音を伝えました。その結果、人間の目からすれば取るに足りない少数集団に過ぎなかった教会共同体が歴史を動かしてきたのです。パウロがローマ書全体で福音の力と義、そしてその福音によって変えられた生き方を繰り返し伝えるのも、このためです。
受肉とは「言(ことば)である神」が人となられたという途方もない神秘であり、同時に私たちにとっては「絶望を突き破って入ってきた光明」です。完全なる真理であり永遠の光であられる神が、罪と闇に囚われた人間の中にみずから入ってくださったということは、それ自体が希望の宣言です。抽象的哲学や人間の思想でとどまりがちな領域を越えて、実際に私が出会い体験できる「人格的真理」となられたのです。これこそ受肉の偉大さです。ここから福音は、ただ耳で聞くだけの噂話ではなく、胸を突き動かす「生命力あるメッセージ」となります。
一方で、この受肉の出来事は私たちに「聖なる生き方への招き」というメッセージを投げかけます。イエスが私たちと同じ体を取られたということは、ただ私たちを救うために一時的に人間の衣を借りられたのではなく、私たち自身もキリストに倣う聖なる人格と生き方を歩む道を開いてくださったことを意味します。パウロが「聖徒として召されたすべての人々」(ローマ1:7)と呼ぶとき、それはすなわち「イエス・キリストが歩まれた道を共に歩む者」という意味です。聖書に登場する人物たちを見れば、彼らが決して罪や欠点のない完璧な人々でなかったことは明らかです。しかし彼らは神の救済史の中でキリストの恵みを身にまとい、イエスが示してくださったへりくだりと犠牲、そして復活の力を倣って、新しい命の道を歩みました。これが「聖徒」の本質です。
結局、大事なのは「受肉によって歴史に来られたイエス・キリスト」を知的に理解するだけで終わらず、その自己卑下と犠牲を「生き方」で示すことです。張ダビデ牧師が繰り返し説教で強調するのも、まさにこの点です。教会に所属していても、イエスの受肉と十字架、そして復活の現実的な意味を自分の人生に体現していなければ、それは結局「頭の知識」で終わる宗教行為にすぎません。真のキリスト者の福音証言は理論ではなく「私はイエスにこうして出会った。私の罪と死が、主の十字架と復活の中でどのように解決されたかを実際に経験した」という証しでなければならないのです。
私たちは世にあって、ときに疲れ、絶望することがあります。人間社会の不正や苦難、病や死はどんな時代にも存在してきました。しかし「ダビデの子孫として来られたイエス・キリスト」を仰ぐとき、その受肉において「神は本当に私たちを見捨てなかったのだ!」という愛の確証が与えられます。主が十字架につけられ復活された出来事のうちには、「最後まで私たちを離さない神の聖なる情熱」を確認することができるのです。パウロが「恵みと平安」(ローマ1:7)に言及し、その恵みがまさにこの愛から流れてくると語るとき、それは「どんなに私が弱く罪深くても、決して見捨てることのない神のご意志」がイエス・キリストの受肉と十字架・復活を通して鮮明になった、という意味なのです。
受肉に対する正しい理解は、「完全な福音理解」へ私たちを導きます。イエスを完全に神としてのみ考えれば、人間の痛みや誘惑を経験された事実を見逃してしまい、完全に人としてのみ考えれば、なぜ私たちがその方を礼拝し、その方が永遠の命の主権者であるのかを見失います。パウロはローマ書1章3~4節で「真の人」であるイエスと「真の神」であるイエスを同時に示すことで、キリスト教信仰の核心であるキリスト論の骨格を明確に示しています。イエスはダビデの子孫として来られた真の人であり、死からの復活によって神の御子として宣言された真の神です。この二つの軸が揺るがないとき、初めて福音が正しく理解され、伝えられるようになるのです。
したがって、ローマ書1章2~7節から私たちが汲み取る最終的なメッセージは、一つ目に「約束にしたがって来られたキリスト」ということであり、二つ目に「キリストが私たちと同じ肉を取って来られることで、罪人である私たちに命の門が開かれた」という事実です。この約束が成就される過程の中で、旧約の預言や預言者たちの警告と希望、さらにはイスラエルの歴史に続いてきた神の摂理は、すべて「キリストの受肉」のための準備であったことがわかります。さらに言えば、ローマの道路が整備される過程さえも福音伝播の準備として用いられた、とも言えるわけで、神のご計画は実に広範囲かつ緻密です。そのすべての結論は、歴史の中で「神の御子イエス・キリスト」が実際に来られたという点であり、それを信じて従う者たちに今、恵みと平安が与えられるのです。
2. 十字架と復活によって完成した福音の力
パウロがローマ書1章4節で「聖なる御霊によれば、死者の中からの復活によって、力ある神の御子として宣言された」と宣言するとき、ここに福音の二つ目の重要な柱がはっきりと現れます。すなわち「十字架と復活」です。張ダビデ牧師が説教でしばしば強調するように、福音は単に「イエスが来られた」という事実だけで終わりません。イエスの生涯、特に十字架の死と復活の出来事がなければ、福音は不完全なままなのです。
受肉は「神が私たちと共におられる」という宣言であり、十字架は「その神が私たちのために死なれた」という宣言であり、復活は「私たちのために死なれたその神が再び生きられた」という決定的な証拠です。パウロはこの復活の事実によって、イエスこそが真に「神の御子」であることが公に(力あるかたちで)証明されたのだと述べています。人間にとって最大の問題である罪と死の支配が、イエスの復活によって完全に無力化されたため、イエス・キリストを信じる者たちはキリストにあって「新しい命」を得るのです。
パウロはコリント第一の手紙15章で、「もし復活がないなら私たちの信仰も虚しく、私たちが宣べ伝えている教えも虚しい」と明確に語っています(1コリント15:14以下)。つまり、十字架の愛だけではまだ完成された福音とは言えず、必ず復活を通じて「罪の報いである死」が克服されなければならない。イエスは実際に歴史の中で死なれ、その肉体は墓に置かれましたが、「死の苦痛につながれていることができない」方でした(使徒2:24)。ゆえにイエス・キリストの復活は、イエスが「神の御子」であるというアイデンティティを最終的に“確定”する出来事なのです。
福音を信じるということは、その十字架と復活が「私」のためであるという事実を受け入れることです。「その愛が私を生かし、その復活が私に永遠の希望を与えた」という個人的体験が伴うとき、初めて福音は私の「命」となります。張ダビデ牧師はこの点を「自己告白」と呼び、「宣教とは自己弁証であり、自己証言であり、自己の証しである」と繰り返し語っています。つまり、自分が罪人であることを知り、イエス・キリストの十字架がその罪を赦したこと、そしてイエスの復活が私を新しい命へと導いたことを具体的に告白することが、宣教の始まりだというのです。
パウロ自身こそ、この真理を徹底的に経験しました。ダマスコ途上でイエスに出会って以来、彼は福音を伝えるために生涯を捧げました。彼が出会った「主」は、高い天から人間を見下ろす神的存在ではなく、十字架で殺された姿そのままであり、また彼が証言する「主」は、墓に閉じこめられた遺体ではなく、死を打ち破りよみがえられた方でした。だからこそパウロはローマ書1章4節でイエスについて、「死者の中から復活し、力ある神の御子と認められた」と宣言し、続けて「私たちの主イエス・キリストである」と最も完全な名を付けるのです。イエスは私たちの主、すなわち人生の主人であり、同時に旧約で預言されたメシア(キリスト)です。
ここで張ダビデ牧師は「ご自分を低くされたからこそ高くされているイエス」が、教会と信者に与えるメッセージの大きさを指摘します。世は高い地位や権力を追い求めることを成功とみなしますが、イエスは逆にご自分を徹底的に低くされ(ケノーシス)、最も惨めな形である十字架刑に処せられました。しかし復活と、父なる神の高めによって(ピリピ2:9以下)、私たちはイエスこそが真の「勝利者」であることを見ます。それは、その勝利が「愛の勝利」であり「犠牲の勝利」であることを意味します。結局、キリスト者の生き方とは、イエスのこの道をたどることなのです。
パウロが「この方によって私たちは恵みと使徒職を受けた」と告白する(ローマ1:5)のも同じ文脈です。イエスの十字架と復活によって、パウロ自身が全く変えられ、福音の使徒として派遣されたからです。そのためなら、投獄されても、鞭打たれても、命を失っても構わないとまで言い切るほど、パウロは福音の力を切実に体験し、その福音にすべてを懸ける者となったのです。
福音には「死を越える力」があります。これは世の権勢には与えられない解放です。死の恐怖の前で人間は無力ですが、「復活の初穂」となったイエス・キリストがその恐れの牢獄を打ち壊されたので、その方のうちにある者たちはもはや死を恐れる必要はありません(1コリント15:20以下)。パウロが「私は福音を恥じない」と宣言する(ローマ1:16)のも、福音こそが「すべて信じる者に救いをもたらす神の力」だからです。張ダビデ牧師はここで、信者が福音を自信をもって伝えられないのは、「十字架と復活の力の体験がはっきりしていないからだ」と指摘し、私たちは日々福音の核心である十字架と復活の前に立つべきだと説きます。
さらに「信じ従わせるために」(ローマ1:5)という表現が示す通り、福音を信じるとは最終的に従順へと結びつかねばなりません。イエスの十字架と復活を信じるなら、私はもはや自分のためだけに生きることはできません。私を救い、再び生かしてくださったのはイエスだからです。だから私たちの思いも言葉も行いも、その方の支配に委ねなければなりません。これこそ福音的従順の核心です。世的な目で見れば、自分の思い通りに生きようとする欲望を捨てることはあまりにも難しく映ります。しかし十字架と復活を真に信じる者であれば、最終的にイエスの御手に人生を委ね、その信仰は自ずと従順につながるのです。
パウロはローマ教会の聖徒たちに「神に愛され、聖徒として召されたすべての人々」(ローマ1:7)と呼びかけ、彼らに「私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安がありますように」と祝福します。ここで注目すべきは「私たちの父なる神」という表現です。かつては聖なる神を「父」と呼ぶこと自体がほとんど冒涜と考えられた時代がありました。しかし十字架と復活によって、イエスが「こう祈りなさい。天にいます私たちの父よ…」(マタイ6:9)と教えられたように、私たちは今や神を父と呼びうる関係となったのです。イエスをとおして義とされ、聖(きよ)められた(聖徒として召された)者たちにとって、神は父となり、私たちは子となりました。
このとき「恵みと平安」は、その子として召された者たちに与えられる霊的贈り物です。平安(シャローム)は旧約から神の民が最も切望してきた価値でした。しかしパウロはその平安がいかにして可能になるかを明確に語ります。それは「イエス・キリストの十字架と復活によって与えられる恵み」が前提となるのです。罪人は自力で平安を創り出せません。世が与える一時的な平安や、金銭や権力が保障する安定は長続きしません。しかしイエス・キリストの十字架と復活の恵みに入れられるとき、罪責感や死の恐れから解放される真の平安が魂に宿るのです。だからこそパウロは「恵みと平安」を一緒に結びつけて宣言するのです。
張ダビデ牧師は説教において、教会が単なる「私たちの宗教的趣味や集まり」の場ではなく、「十字架と復活の共同体」でなければならないと力説します。教会の中で真実の恵みと真の平安が分かち合われるためには、その構成員がイエス・キリストの死と復活を信じ、従う者たちである必要があるのです。十字架に自分が共に付けられて死んだことを信じ、復活によって新しい命に生きることを信じる共同体であれば、互いに対する赦しや愛、献身と仕え合いが自然に生まれます。しかしそうした信仰的基盤なくして「教会」という名前だけを掲げる集団は、対立や葛藤が生じた途端に世と何ら変わらない姿に陥りやすいのです。
結局「福音の完成」は、十字架と復活をとおしてもたらされる勝利であり、この勝利が私たちの生や共同体の中に現れるとき、私たちは真の教会となります。また、パウロが「私たちの主イエス・キリスト」と呼び、自分のあらゆるアイデンティティをその名のうちに置いたように、信者は「私の人生の中心はイエスである」と告白しながら歩む者たちです。もしその方がそこまで低くなり、犠牲を払い、命を与えてくださったのなら、私たちもまた隣人を仕え、この世を癒すために「犠牲とへりくだりの道」を選択すべきです。それこそが十字架の道であり、復活の命に従って生きる道なのです。
イエスの弟子として生きるということは、十字架と復活の延長線上で「自分を否み、主について行く生き方」(マタイ16:24)を意味します。これは自分の欲望や高慢を捨て、主の御心に従うことです。そうする中で、ついにはイエスが語られた「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い」(マタイ11:30)という言葉を実際に体験するようになるのです。外から見ると狭い道で険しい道に見えるかもしれませんが、本当の自由と喜びはまさにこの福音への従順にあるのです。
パウロが手紙の冒頭でローマ教会の聖徒たちに伝えたかった要旨は明確です。「イエス・キリストにあって与えられた約束の福音は、長い旧約の歴史の中ですでに予告され、受肉と十字架、そして復活によって完全に実現した。この福音によって私は使徒とされ、あなたがたもこの福音を聞いたのだから、ともに恵みと平安を分かち合おう。そしてその福音にふさわしい信仰と従順を捧げよう。」これがローマ書1章2~7節に込められたパウロの切なる挨拶であり、同時に教会の使命なのです。
張ダビデ牧師が強調するのも同じです。私たちは必ず福音のすべて、すなわち「来られた(受肉)」と「死なれた(十字架)」、そして「よみがえられた(復活)」を一つにまとめて伝えなければならないのだ、と。どれか一つだけを伝えたり、信じたりしてもだめで、三つのうち一つだけを強調するのも不十分です。イエスがこの地上に来られたという事実と十字架での死、そして復活によって勝利された神の御子であること――これを明確に証ししなければなりません。これこそ完全な福音であり、私たちを生かす喜ばしい知らせなのです。
今日も世にはさまざまな声が渦巻いています。ある人は人間の理性や知識だけで十分だと言い、別の人は快楽や物質的豊かさが人生の目的だと宣言します。しかし最終的にいかなる手段でも解決し得ない根源的な問題は「罪」と「死」です。この問題に対する答えは十字架と復活の中にしかありません。一時、キリスト教を「罪人のための宗教」と呼んで嘲笑する人もいますが、実のところその言葉こそ、福音の真髄を示す表現です。イエスが「わたしは義人を招くためではなく、罪人を招くために来た」(マタイ9:13)と仰せられた通り、キリスト教は罪人たちのための宗教です。そしてその罪人が「私たち皆」であることに気づく瞬間、福音は最も美しい希望のメッセージとして迫ってきます。
パウロのローマ書は、この希望のメッセージを体系的に展開した「福音の大憲章」と呼ばれています。その序文からパウロは「この福音が私を変えた。今はあなたがたもこの福音によって召されている」と力強く語ります。かつて教会を迫害したパウロが、今や教会を建てる使徒に変えられたように、神の愛はどんな罪人も変えてしまう力を持っています。そしてその愛の力は十字架と復活から出てくるのです。
結論として、ローマ書1章2~7節は福音の本質を簡潔ながら力強く示しています。福音は人間の哲学ではなく神の約束であり、その約束はイエスの受肉と十字架、復活によって完成されました。イエスは真の人として低くなられ、死を打ち破ることで力ある神の御子と証明されました。その方を信じ、従う者たちには恵みと平安が与えられ、新しいアイデンティティ(聖徒、つまりきよめられた者)と使命が与えられます。パウロが自分を「福音のために召されたしもべ」と呼んだように、私たちも福音を聞いて変えられ、いまは世の人々に福音を伝える器となります。
張ダビデ牧師はこのすべての教えの上に、「福音とはつまり愛である」というメッセージを付け加えます。イエスのへりくだりと死、そして復活の意味は、罪人に対する神の愛なしには語れません。最終的に福音とは「神はそのひとり子をお与えになるほどに世を愛された」という事実に対する最も確かな証であり、そのひとり子の十字架と復活を通じて私たちに及んだ救いの喜びです。この福音を受け取った者は、必ずその喜びと感謝によって「従順の実」を結ぶようになります。そしてその生き方こそが「福音の生き方」です。
要するに、私たちが覚えておくべき核心は、第一に福音はすでに約束されていたことの成就であり、イエス・キリストの受肉によって歴史の中で成し遂げられたという点です。第二に、その福音は十字架と復活によって完成され、その力が私たちを罪と死から解放し、真の平安へ導くという事実です。パウロがはじめから終わりまで宣べ伝える福音とは、この「神の御子イエス・キリスト」が私たちにもたらす永遠の救いのご計画であり、この福音は私たちの人生と世界を変え得る力を秘めています。
ローマ書の冒頭におけるパウロのあいさつは、単なる書簡の作法ではありません。それはすべての聖徒に与えられる祝福であり、同時に要請でもあります。「福音を信じて恵みと平安を味わいなさい。そして福音のために召された者としてふさわしく生きなさい。」これこそ張ダビデ牧師が説教で繰り返し強調する要点です。私たちは福音を聞いて、その福音の真理を理解したところで終わってはなりません。福音が私たちの中で生きて働くように、日々イエスの十字架を思い起こし、その復活の命を人生のあらゆる面で実践していく必要があります。そうすることで初めて教会は真の福音共同体となり、信徒個人も「聖徒として召された者」という呼び名にふさわしい生を歩むのです。
最終的に、私たちは「イエスがキリストである」ことを常に告白しなければなりません。この告白にはイエスの来臨(受肉)・死(十字架)・再び生きられたこと(復活)がすべて凝縮されています。パウロはこの事実をローマの聖徒たちに確信させ、「あなたがたも、彼らのうちからイエス・キリストのものとなるように召された人々」(ローマ1:6)と呼びます。教会は「イエス・キリストのもの」として召された人々の集まりであるがゆえに、その御名のため(ローマ1:5)世へ出て福音を伝えるのです。これが私たちが「聖徒として生きる理由」であり、福音が私たちに与える最も力強い使命です。
願わくは、ローマ書1章2~7節の御言葉を黙想するすべての人が、「イエス・キリストが私たちと同じ肉を取って来られた」という受肉の恵みと、「死を打ち破ってよみがえられ、神の御子として宣言された」という救いの力とを、心の奥底に刻むことができますように。そうして罪のくびきから解き放たれ、イエス・キリストにあって与えられる真の自由と喜び、そして従順の恵みを味わうことができますように。そしてこの福音の生き方を通じ、互いに愛し仕え合い、世に主の光を輝かす共同体を築いていくことができますようにと祈ります。
これは張ダビデ牧師が説教と宣教活動を通して常に目指していることでもあります。キリスト者であれば誰でも、この福音――すなわち受肉から十字架と復活へと至るイエス・キリストの全人格と働きを自らの人生に映し出すべきです。そうすることで初めて、パウロが「恵みと平安がありますように」と叫んだあの挨拶を現実に体験できるのです。「罪人」から「聖徒」へ、「絶望」から「希望」へと変えられるこの道のりこそ福音の真髄であり、ここに「キリスト教は罪人の宗教である」という言葉の真の意味が生き生きと息づくのです。
最終的に、福音の道のりは、私たち一人ひとりに対する神の召しに対する応答でもあります。あなたはイエスの十字架と復活をどのように受け入れているでしょうか。あるいは頭でしか知らず、まだ心では受け入れられていないでしょうか。パウロが証言し、張ダビデ牧師をはじめ無数の信仰の先人たちが繰り返し証ししてきたのは、「福音は実体である」という事実です。この現実を人生で体験し、その体験をほかの人々に証して、彼らもまた神の子どもへと新生するよう助けることこそ、教会の存在意義であり、信徒の告白です。
どうか私たちが今日この御言葉を握り、「約束の成就」として来られたイエスの受肉、そして「死を突き破った」イエスの十字架と復活をより深く黙想できますように。パウロが「福音によって私は召された」と叫んだように、私たちも「福音のために召された者」であることを忘れないようにしましょう。この召しに応答し、与えられた恵みと平安を味わい、全世界に福音を伝える聖なる通路とされることを心から願います。
そうして生きる人々が集う場所――そこが真の教会なのです。教会のしるしは十字架、教会の命は復活、そして教会の使命は「福音を伝えること」です。受肉によって罪人を探しに来られ、十字架によってその罪人を救い、復活によって永遠の命へと導かれる神をほめたたえながら、私たちがこの福音の物語とともに、今日も生きる者となるよう祈ります。
あわせて、ローマ書を学び続ける中で、パウロが「この福音によって私は召された」と告白した深い理由を、さらに完全に悟ることができるよう願います。それはパウロだけに当てはまる話ではありません。すべてのキリスト者は最終的に「福音ゆえに召された」のです。そしてその福音を通して罪人から義人へ、死から命へと移された存在なのです。この召しに感謝し、日常のすべての場面で福音が現実の力として働くように目を覚ましていましょう。
以上、ローマ書1章2~7節の黙想を基に、約束として与えられた福音と受肉の神秘、そして十字架と復活によって完成された福音の力をまとめてきました。張ダビデ牧師が多くの説教を通じて繰り返し強調してきたように、福音は私たちにとって「約束された愛の出来事」であり「命をもたらす力」であると明確に認識すべきです。そして私たちの言葉と生活のすべてによってこの福音を証しし、異邦人の中でも、また身近な隣人に対しても「信じ従うようにする」聖なる器として用いられることを心から願います。父なる神と主イエス・キリストがお与えくださる恵みと平安が、この福音を握るすべての人に満ちますように。