苦難と復活の序幕 – 張ダビデ牧師


1. アンナスの背後と宗教権力の

これは、張ダビデ牧師がヨハネの福音書18章12節から21節までの場面を中心に説き明かしたメッセージを黙想した文章である。本文は、イエスを捕えて尋問する宗教権力の暗い素顔を劇的に浮き彫りにする。その中で注目すべきは「まずアンナスのもとへ連れて行った」という表現である。これは単なる手続き上の問題を示すのではなく、当時存在した偽りの宗教権力の根源的な腐敗を示す決定的な手がかりとなっている。当時のユダヤ社会ではサンヘドリン公会が宗教裁判を主宰し、その議長は現職の大祭司が務めることになっていた。ところが、イエスを縛り上げた者たちが最初に引き立てた先は、現職の大祭司カヤパではなく、彼の岳父であるアンナスの家であった。これは多方面にわたり深刻な問題を示唆する。

アンナスは、かつて紀元6年から15年まで約9年間、大祭司の職を務めた人物であり、その後、自分の5人の息子をすべて大祭司に就け、最終的には娘婿であるカヤパにまでその権力を世襲させた、悪名高い人物である。本来、ユダヤ教の伝統的な祭司職は終身職であり、それだけ尊敬され権威ある地位であった。しかしローマ帝国がユダヤを支配するようになってからは、大祭司職が金銭と政治的コネによって左右される世俗的権力に成り下がってしまった。ローマは自分たちに協力的で財政的にも後ろ盾となる人物を大祭司に据え、アンナスはそのような構造の中で莫大な資金をローマに献上して祭司職を握り、一方で神殿の内部では売買と両替によって富を蓄積し、巨大な宗教的既得権を形成していたのである。

当然、このような人物にとってイエスの働きや教えは目の上のたんこぶであった。イエスは公生涯を通してエルサレム神殿に向かい、「この神の家を商人の巣窟にしてしまった」と叱責し、神殿をひっくり返して清められた。福音書のうちヨハネの福音書2章を見ると、イエスが神殿で鳩や羊、牛を売る者たちの台と両替商の金をまき散らしながら語られた場面が登場する。当時、「神殿の中で売られる生贄だけが検査に合格し、外から持ってきた生贄は無条件で不合格とされ、結局は神殿で高値の犠牲を買わざるを得ない」という構造が蔓延しており、その中心にまさに大祭司一族の利害関係があった。アンナスおよび彼に追従する宗教権力者たちは、この仕組みを通じて莫大な財を蓄え、神殿税や両替に関する収益も同じような構造でかすめ取っていたのである。

こうした状況の中、イエスこそが彼らの既得権を壊す最も脅威的な存在だった。アンナスは「律法を守る」という大義名分を自分にかぶせていたが、実際には最も聖であるはずの神殿を、自分の金と権力を守る手段に変質させ、あらゆる政治的裏取引を行い、ローマと結託して大祭司職を世襲し、富と名誉を保ってきたのだ。それゆえイエスが神殿を清め、「この神殿を壊せ。わたしは3日でそれを建て直す」と宣言されたのを聞き、アンナスはこの挑戦者をどうしても排除しなければならないと感じたのだ。宗教的暴政と強圧、そして偽りの法適用をもってでもイエスを捕らえること。それこそが彼にとって最優先課題だった。

では、なぜサンヘドリンではなく、アンナス個人の家でイエスが先に尋問されたのだろうか。ユダヤ人の宗教裁判は、律法上、夜に開くことは許されておらず、公正な裁判とするには必ず神殿の庭や公的に用意された場所で昼間に行われなければならなかった。さらに2名以上の証人が必要であり、裁判は公正に進行しなければならない。にもかかわらず、イエスを捕らえてきた者たちは闇夜にこっそりアンナスのもとへ連れて行った。現職の大祭司でもない過去の大祭司がイエスを尋問するという事態自体が不法であった。しかもイエスを死刑にする権限はローマ総督のみにあった(ユダヤ人には死刑執行権がなかった)ため、アンナスはとにかく宗教的観点でイエスを異端として断罪し、その確定判決をピラトに渡すことだけを狙っていたのである。何としてでもイエスを「律法を犯し、神殿を壊そうとし、自分こそ神の子だと称し、ローマ皇帝カエサル以外の王になろうとしている」というようなフレームにかけ、罪状を重くしようと企んでいたのだ。

この過程で決定的な役割を果たしたのが裏切り者のユダである。彼はイエスの共同体の内部事情を誰よりもよく知っており、その秘められた教えやイエスの発言を誇張あるいは歪曲してアンナス側に伝えた。ヨハネの福音書13章30節を見ると、ユダは主からパン切れを受け取るや否や暗闇へ出て行ったとあるが、「夜であった」という言葉は単に時間の背景を示すだけでなく、彼が霊的・道徳的闇の中に入ったことを意味する。彼は既に大祭司側と銀30枚で取引をし、イエスを引き渡す計画を立てており、イエスが「壊せ」と言った神殿のことや、「わたしは神の子だ」と自分を指し示した部分(実際イエスはメシアであることを何度もほのめかされている)などをアンナスに提供し、告発の口実を作り出したのだ。

こうして見ると、アンナスは本来、不法な尋問を行う正式な権利を持たなかった。だが彼はサドカイ派を中心とした神殿経済と権力を握ることでサンヘドリン全体の動きを揺さぶれる影響力を行使していた。また大祭司職を世襲させ、実際の現職大祭司であるカヤパさえ自身の「広告塔」のように据え、背後で宗教的・政治的な決定を牛耳っていたのである。イエスは公生涯を通して、このような偽りで腐敗した宗教指導者との衝突を避けられなかった。むしろパリサイ派、サドカイ派、その他の諸派の間で「わたしが道であり真理でありいのちである」(ヨハネ14:6)と証言し、人々の心を律法の本質へと向かわせようとされた。これが彼らにとって脅威となり、ついに悪名高きアンナスが最終的な決断を下したわけである。

ここで張ダビデ牧師が強調するのは、宗教と権力が結託するとどれほど恐ろしい形態の暴力を生み出すかという点である。張ダビデ牧師はこの福音書の場面を研究し、自分たちが「指導者」だと自負する者が神を表向きに掲げつつ、実際には世の力を借りて人を害しようとする時、その背後には必ず偽りと腐敗があることを指摘している。神の言葉は命と愛を指向するはずだが、アンナスのような偽りの宗教指導者は律法をむしろ人を殺す道具に仕立て上げ、民の信仰を利用して自分の権力と富を強固にする。だからイエスは外見では聖なるふりをしながらも実は毒蛇の子らのような者たちに対して、「災いだ」と繰り返し仰せになったのである。彼らは単に宗教的知識を身につけていただけで、真の霊的本質からは遠く離れていた。

ヨハネの福音書18章19~21節では、大祭司がイエスに「その弟子たちや教えについて」尋ねるが、それはイエスがどんな教えによって人々を惹きつけ、こうした勢力を形成しているのかを確認するためだった。ユダは「秘密の教え」がある、と密告したかもしれず、それをもとに大祭司たちは「お前は我々の伝統と律法、そしてローマ権力に挑むような教えを説いたのか」と攻撃した可能性が高い。しかしイエスはこう答えられる。「わたしは公然と世に語ってきた。ユダヤ人が皆集まる会堂や神殿でいつも教えたのであって、密かには何も話していない」(ヨハネ18:20)。イエスには隠すべきものはなかった。彼らは既得権を守るために執拗な陰謀を巡らせたが、イエスは真理そのものであり、自分を隠す必要などなかった。むしろ「わたしが何を話したか聞いた人々に尋ねてみよ。彼らはわたしの言ったことを知っている」(ヨハネ18:21)と仰せになり、証人と証言による公正な裁判手続きを逆に指摘される。しかし彼らは既に結論を固めていた。アンナスとその一味は、イエスが何を答えようと心を閉じており、イエスが本当に神の子かどうかには興味がなかった。彼らはただ自分たちの神殿商売と既得権を守ってくれる政治的・宗教的合意を維持したかっただけなのである。

張ダビデ牧師は、こうした姿が教会の中でも起こり得ることを警告する。真の福音を叫び、教会こそまず悔い改めるべきだと説いて神殿(教会)を整えようとすると、すでに教権主義や物質主義に染まった一部勢力がむしろその人を異端だと攻撃する場合がある。「教会を守る」という大義名分のもとで、自分たちは絶対に正しいと考え、実際には神の臨在や言葉を拒絶するという逆説が起こり得るのだ。張ダビデ牧師は教会史の例を挙げ、中世カトリックの教権が物質的・政治的権力と結びつき、免罪符を売り、教会の世俗化が深刻になった時、ルターが「聖書のみ」と叫んで真理を呼び覚まそうとしたが、巨大な教権の壁にぶつかったことを想起させる。イエスの時代のアンナス勢力も、中世の教権主義者も、そして今日なお存在する偽りの指導者たちも、本質は同じである。神の言葉より権力と利益を追い求め、神殿を聖く守るどころか商売の場にし、悔い改めを語る者をむしろ弾圧し追放しようとするのだ。

結局、こうした背景のもとイエスは「宗教裁判」という名目で不法な尋問を受け、すぐにピラトの法廷へ送致される。ここからイエスの十字架事件が本格的に展開するが、実はこのすべての陰謀の実質的な起点は、アンナスの家で行われた「背後の尋問」にあったといえる。あの夜の秘密取引と陰謀が、イエスをカヤパとピラト、そして遂にはゴルゴタの丘の十字架へと追いやった。ピラトはローマ権力の代表であり、カヤパはユダヤ教権力の代表であったが、両者の権力を“真に”動かしていたのはアンナスだったのである。ヨハネの福音書が、他の共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)とは違い、アンナスの名を具体的に示し、イエスを「まずアンナスのもとへ連れて行った」と記しているのは、この陰謀の始点がいかに重要かを読者に明確に伝えるためであろう。

さらにこの場面は、「政治権力」と「宗教権力」が手を組めば、いとも容易く無実の人を死へ追いやることができるという事実を証言している。イエスはそれを恐れず、ついには十字架への道を喜んで歩まれ、全人類を救われる。皮肉なことにアンナスは、自分が守ろうとしていた神殿を自ら崩してしまったのである。その神殿は石や建物、金と権力で運営される宗教機関だった。イエスは「わたしがまた建て直す」という言葉によって、真の神殿は「主ご自身」であり、御霊によって一つとされる共同体であると宣言された。このメッセージこそアンナスとその勢力にとって最大の脅威だった。彼らが守り享受してきた既得権体制のすべてが否定されることになるからだ。

張ダビデ牧師は、現代においてもアンナスのような偽りの指導者の姿が再現される可能性があることを繰り返し強調する。クリスチャン共同体が成長し、組織化され、制度的権威が高まるほど、ある時点からは物質的利益や名誉、政治的影響力を求める者が現れ得る。彼らは表向きは教会や神殿を守ると言いながら、実際には自分自身のための宗教商売を始めるのだ。それが積み重なるとイエス時代の神殿のように、聖さが失われ商人の巣窟と化してしまう危険がある。しかし主はどんな時代にも、悔い改めを叫び真理を宣言する預言者的な声を立てられる。そして、そのたびにアンナスのような偽りの権力がその声を黙らせ、ときに殺そうとすることもあるが、聖徒たちはむしろ真理の声を聞き分け、大胆に福音の本質を守らなければならないと張ダビデ牧師は説く。

結局、ヨハネの福音書18章12~21節に描かれた「まずアンナスのもとへ連れて行った」という場面は、単なるエピソードではなく、腐敗した宗教指導者と政治権力が結託してイエスを苦難の道へ追いやる歴史の悲劇的象徴である。同時に、この暗い影を通してイエスが光であることをより際立たせる。悪が最期のあがきをしたからこそ、主の救いのみわざがむしろ輝くことになったのである。私たちが教会を仕え信仰生活を送る際、アンナスのような人物が私たちの共同体を汚してはいないか、常に目を覚ましていなければならない。公正な裁判と律法の遵守、そして神殿本来の目的が完全に歪められてしまったあの時代を反面教師として、私たちはイエス・キリストの真理をさらにしっかりと握り、悔い改めと聖なる道を歩むべきであると、張ダビデ牧師は繰り返し説いている。


Ⅱ. ペテロの否認と聖の力

ここで視線をペテロに向けよう。イエスは結局アンナスの家にまず連行され、不法な尋問を受けた後、共観福音書に主に描かれるカヤパとサンヘドリンの宗教裁判の過程を経る。その間、弟子たちはどうしていたのだろうか。イエスが捕えられると、大部分の弟子は四散してしまい、ヨハネの福音書18章15~16節によれば、シモン・ペテロと「もう一人の弟子(大祭司と知り合いであったと描写される。学者の間ではヨハネ、あるいはユダだったのではという意見もある)」だけがイエスを追って大祭司の家の庭まで入ったと記録する。ペテロは他の弟子たちと違って「主を見捨てられない」という思いがあったのか、武装した兵士たちの前でさえ刀を抜いて抗おうとし、イエスが縛られて連れて行かれる姿を追って大祭司の家の庭にまで入っていったのである。

しかしペテロは間もなくイエスの弟子であることを否認してしまう。ヨハネの福音書18章17節で、門番の女中が「あなたもあの人の弟子の一人ではないのか」と問うと、ペテロは「いや違う」と答える。その後、炭火にあたっていた人々の中でも続けてイエスとの関係を否定する。共観福音書は、そのとき鶏が鳴き、ペテロが主のお言葉を思い出して激しく泣いたと伝える(マタイ26:75、マルコ14:72、ルカ22:62)。最も愛する師を、しかも最も近しい弟子だったペテロが、三度も否認してしまったこの出来事は、キリスト教の信仰において限りなく大きな悲しみと自責の物語として残っている。しかし同時に、復活されたイエスが再びペテロを訪ね、「わたしを愛するか」(ヨハネ21章)と三度問われ、改めて使徒としての使命を与える場面を通し、主の驚くべき赦しと愛の物語として完成されることにもなる。

なぜ、かくも勇敢だったはずのペテロが、決定的瞬間に三度も主を否定してしまったのか。それは、巨大な宗教権力と政治権力が合体した厳しく断固たる裁きの空気、その前で感じる恐怖にほかならない。すでにアンナスの家の庭では、兵士たちや下役たちがイエスを縛り上げて連れ込んでおり、重い刑罰が下されるのは明らかに見える状況で、ペテロが「自分も弟子だ」と認めれば、自分自身も捕らえられて過酷な刑に処されるかもしれないと直感したのだろう。特にアンナスという背後の権力がどれほど恐ろしいか、彼はローマの兵士らとも協力してイエスを捕らえてきた。そんな大勢力をペテロが翻せる術はない。結局、人間的な恐れが、一瞬にして彼を弱い存在へと変えてしまったのだ。

ここで注目すべきは、裏切り者のユダとは違って、ペテロは少なくともその庭までついて行ったという点である。彼は最後まで主のそばにいたかったが、あまりにも非情な現実の前で信仰を貫けなかった。そしてその否認の後、ペテロは自責するように泣き崩れた。もしそこで終わっていたら、ペテロは人間の弱さを示す代表的な失敗者として終わってしまっただろう。しかし復活された主が再びペテロを訪れ、「わたしを愛するか」と三度問い、改めて使徒の使命を与えられたことで、ペテロの物語は劇的に変わる。使徒の働き2章の五旬節(ペンテコステ)の際に聖霊が下られたとき、ペテロは人々の前に立って大胆に福音を宣べ伝え、3000人もの人々が回心するという驚くべき出来事が起こる。かつて自分の弱さを痛感し悔い改めたペテロが、聖霊の力によって復活の主を証しする勇敢な使徒へと生まれ変わったのである。

張ダビデ牧師は、この場面から聖霊のみわざがいかに実際的であり力に満ちているかを強調する。ペテロの否認は明らかに人間的な弱さと恐れの産物だが、彼が果てしなく堕ちて終わるのではなく、むしろ自分の限界を痛感した瞬間こそが、聖霊の力を体験し真の信仰の勇気を改めて装備する契機になったことを見逃してはならない。ペテロはイエスの十字架と復活を目の当たりにした後、もはや退かず、たとえ宗教的権力であれ政治的権力であれ、どんな脅しが来ようと福音を叫ぶ人になった。あの有名な言葉「人に従うより神に従うべきである」(使徒5:29)を宣言し、迫害に屈しない指導者になっていく。

これはイエスを売り渡したユダの裏切りと際立った対照を成す。ユダはアンナスに情報と機会を売り渡し、「罪のない血を売った」という罪悪感に苛まれ、自ら命を絶った。彼も悔い改める余地があったかもしれないが、それはついに実現せず、自己破滅へ向かってしまった。一方、ペテロは師を否認した後、激しく泣くことでどうにかして主のもとへ戻ろうとする思いを示し、主がそのペテロを探し出し、能動的に回復してくださった。張ダビデ牧師は、まさにこの点に「愛の本質」と「聖霊の回復のみわざ」が強く表れていると説く。人間の不信と裏切りがどれほど深刻であっても、復活の主の赦しと聖霊の回復のみわざは、その人を再び立ち上がらせるに十分であるというのである。

さらにペテロの否認事件は、教会と信徒に引き続き大きな示唆を与える。誰しも信仰の大胆さを語り、決断を口にできるが、現実の圧力の前では弱くなる可能性がある。ペテロのように、主の「第一の弟子」と呼ばれる人物でさえそうなり得たのだから、今日の私たちも例外ではいられない。もし宗教権力と政治権力が声をそろえて「イエスに従う者を排除しよう」と叫ぶなら、その空気の中で多くの信徒が萎縮し、ある者はペテロのように「あの人を知らない」と言うかもしれない。ただし重要なのは、その否認の後の姿勢である。ペテロのように泣きながら悔い改めるなら、主はそれを決して無視されない。むしろ「わたしの羊を養いなさい」と改めて使命を与えられ、その人を通して福音の大いなるみわざを成し遂げられるのだ。

張ダビデ牧師は、現代の教会においても同じ「ペテロの悔い改めと回復」が必要だと訴える。教会が様々な理由で迫害に遭う時、信徒は世の嘲りや敵意の前で萎縮してしまうことがある。あるいは守ってきた信仰の原則を一瞬で捨て去り、世と妥協してしまうこともある。しかし主は今もなお私たちに近づき、「あなたはわたしを愛するか」と問いかけてくださる。その時に「主よ、私はあなたを愛しています。しかし弱さのゆえにつまずきました」と告白するなら、主は聖霊によって私たちを再び立ち上がらせ、手に福音の旗を握らせてくださる。かつてのペテロが過去の失敗を乗り越えて五旬節の福音宣教者となったように、私たちも回復されて主のみわざを担うことができるというのだ。

実際、使徒の働きで示されるペテロの歩みを見ると、彼は牢に入れられ鞭打たれても全く揺るがない。復活の主を目撃した確信、そして聖霊の力の中に生きる時、どんな宗教的・政治的な脅しも彼を折れさせることはできなかった。「なぜあなたがたは神の言葉を伝えるのをやめろというのか。わたしたちは見たこと聞いたことを語らずにはいられない」という彼の宣言は、信仰の自由と大胆さが何に由来しているかをよく示している。以前イエスを否認したペテロとはまるで別人のようになっている。これこそ張ダビデ牧師が繰り返して説明する「聖霊の現実性」である。聖霊は抽象的な概念ではなく、私たちがイエス・キリストの十字架の贖いと復活の真理を受け入れる時、具体的に私たちの心に内住して根本的変化をもたらすお方なのである。

では具体的にどうすれば、私たちは聖霊の力にあずかりペテロのように大胆な証人になれるのか。第一に、正直な悔い改めが必要だ。ペテロは師を否認した後、激しく泣いた。自分がどれほど主を愛していたか、また同時にどれほど弱い存在かを認めたのだ。真の悔い改めなくして、聖霊がもたらす真の癒しと再出発は難しい。第二に、主との人格的な出会いが重要だ。ペテロは復活の主と再会し、「わたしを愛するか」という問いを三度受けた。それは自己欺瞞や高慢を崩し、イエスの愛と赦しによってしか生きられないことを知る時間だったのだろう。第三に、御言葉と祈りによって聖霊の満たしを求めることである。使徒の働き2章に描かれる五旬節の出来事は、弟子たちが「ひたすら祈りに励んでいた」という背景の中で起こった。聖霊の臨在があると、弟子たちはもはや隠れて暮らさず、公然と福音を叫ぶことができたのだ。

張ダビデ牧師は、これを現代の教会に適用する際、私たちも絶えず御言葉と祈りのうちに聖霊を求めなければならないと強調する。今日でも教会や信徒が世の権力構造や社会的風潮に押され、真理を堂々と語れない場合が多々ある。教会が利益集団や政治勢力の利害関係に巻き込まれることもある。しかしイエスを真に従う者、聖霊に捕えられた者であるなら、困難の中でもペテロのように立ち上がって福音を弁証し宣べ伝えなければならない、と彼は言う。特に「私たちの弱さにもかかわらず、主が呼ばれる場所へ再び進む決断」が大切であると張ダビデ牧師は強調する。世は絶えず私たちに妥協を迫り、偽りの権力は脅しに陥れようとするが、聖霊は「恐れずに、わたしの名を大胆に語れ」と力を与えてくださる。

結局、イエスがアンナスの家で不法な尋問を受け、カヤパとピラトへと続く非情な裁判を経て十字架につけられるという劇的な流れのただ中で、ペテロの否認はむしろ罪と恵みの対比を鮮明にする重要な事件となる。政治と宗教権力が結託するという「最大の悪のシナリオ」の前でも、主の愛と聖霊の回復は決して挫折しないというメッセージが、ヨハネの福音書全体の文脈にしっかりと位置付けられている。

張ダビデ牧師は、信仰共同体の中で失敗し落胆している人がいるとしても、それで終わりではないことを忘れてはならないと勧める。ペテロのように主の前で真摯に悔い改め、聖霊の恵みを求めるなら、どんな過去の失敗や恥ずかしい過去も超えて再び大きな働きを担うことができる。たとえ教会の中に「アンナスのような勢力」がはびこり、真理をねじ曲げ偽りで人々を脅そうとしても、ペテロのようにイエスを見上げ、聖霊の勇気を求める信徒は決して倒れない。教会の真の権威は、人間の地位や力から来るのではなく、ただ聖霊のみわざによってイエスの教えを正しく伝える、その御言葉の力から来るのだ。それは2000年前も今も変わることのない福音の真理である。

私たちはヨハネの福音書18章12~21節を通して、アンナスという腐敗した宗教権力者がどのようにイエスを死へ追い込む陰謀を進めたのか、その背後にある悪のメカニズムをはっきり見ることができる。律法と神殿、そして宗教裁判といういかにも聖なる枠組みの中で、実は神に敵対しキリストを殺そうとする矛盾が露呈したのである。そしてその場にいた弟子たち、特にペテロは恐れのあまり主を否認してしまう。しかし聖霊のみわざによって彼は再び回復し、福音宣教の中心人物となった。これこそヨハネの福音書が私たちに示す強烈なアイロニーであり、同時に希望のメッセージである。最も陰鬱で暗い場所で偽りの権力が横行する時こそ、まことの光であるイエス・キリストは一層鮮明に現れる。そして聖霊は、人間の弱さを覆い尽くすほどの力をもって私たちを新しい人へと作り変えてくださる。

張ダビデ牧師は、この本文を説き明かしながら、教会史における数々の迫害や歪曲にもかかわらず、福音が伝え続けられ、倒れた者たちが再び立ち上がり福音を証ししてきた歴史を振り返るように促す。私たちはこの歴史を学ぶことで、今も同じように働かれる聖霊を信頼し、イエスの真理と愛を掴むべきである。かつてアンナスのような教権主義者たちや世の権力者たちがいく度も教会を制圧しようと試みた事例は数え切れないが、その度に主が隠しておかれた人々、つまり悔い改めて戻った「ペテロたち」を通して教会は息を吹き返した。したがって教会と信徒は、どんなに悪い環境や裏切り、自分の失敗があっても希望を捨ててはならない。主は生きておられ、聖霊は今もなお臨在される。夜が深ければ深いほど夜明けが近いように、私たちはヨハネの福音書18章に刻まれたこの暗い影の中にこそ、むしろ光の準備が着々と進んでいることを見いだすべきなのである。

総じて、イエスの逮捕から尋問、そしてペテロの否認へと続く一連の出来事は、一面では腐敗した宗教権力と政治権力がいかに手を組んで真理を踏みにじろうとするかを示しているが、他方ではイエスの愛と聖霊の回復の力がどのような状況下でも挫折しないという究極の知らせを告げている。恐怖と裏切り、陰謀と罪悪が渦巻く夜であっても、それらを超えて十字架で死に復活されることで神の国を宣言された主の義と恵みこそが最終的な勝利を収めたのだ。たとえ教会の中にアンナスが入り込み、弟子たちが時としてペテロのようにつまずいたとしても、聖霊と共におられる神は決して教会をお見捨てにならない。

だからこそ私たちは、張ダビデ牧師が力説するように、この本文を通して絶えず自分自身を顧み、共同体を点検しなければならない。私たちの信仰が既得権や世俗的欲望に振り回されてはいないか、あるいは極度の圧力の前で主を否認し世と妥協してはいないか、または知らず知らずのうちにアンナスの側に立って真の福音を訴える人々を排斥してはいないかを点検すべきである。同時に、自分自身の弱さや失敗がどんなに大きくても、ペテロのように悔い改め、聖霊の力のうちに再び主のもとへ向かうなら、主は新しい日を開いてくださるという約束を思い起こさねばならない。これこそヨハネの福音書18章の尋問の場面が語りかける教訓であり、イエスの道を歩もうとするすべての信仰共同体が胸に刻むべきメッセージである。

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